利用者:ミヤエンタ/sandbox
宮崎 しげお (ミヤザキ シゲオ)
1947年11月27日 生まれ 東京都出身
1974年3月 有限会社 ミヤエンタープライズ(芸能プロダクション)を東京都港区南青山に設立、経営。校の在学中にエレキの神様として知られるいる、寺内タケシ氏にスカウトされキングレコードと契約。7年間のプロ生活経て、その後マネージメント及びプロデューサーの勉強をし、昭和49年4月 姿憲子、キャッシー中島のバックアップを受け有限会社 ミヤエンタープライズを設立。
1979年 ものまねタレントのコロッケを育成。コロッケにおいては、平成2年 第28回ゴールデンアロー賞 芸能賞受賞。同賞グランプリを受賞。
1981年 東京 有楽町 日劇閉館イベント「最後のウェスタンカーニバル」のプロデューサーに就任。
このイベントをきっかけに加瀬邦彦(カセクニヒコ)とザ・ワイルドワンズを再結成させ、GSブーム再来を起こす。
1984年 女優 林 寛子(ハヤシ ヒロコ)芸能界復帰のマネージメントを手がける。
1987年 元阪神ブレーブス(現:オリックス ブルーウェーブ)投手 亜仁丸・レスリー(アニマル・レスリー)をタレントとして所属。多数CMなどで活躍
1988年 美川憲一(ミカワ ケンイチ)復活プロデュース
アメリカ ハワイ州にて コロッケVS美川憲一のジョイントコンサートを成功させる。
1989年 なかよしコンサートをスタート。全国50公演プロデュースし成功を納める。
(平成元年)振付師 南 流石 (ミナミ サスガ)を育成。CM等の振り付け師として一代ブームを起こす。その中でも、読売ジャイアンツの応援セレモニーとしての振り付けは、現在も使用されています。
俳優 宝田 明(タカラダ アキラ)が同事務所に所属。それまでの宝田 明のイメージを一新してCM・バラエティー番組等に進出を手がける。
1990年 美川 憲一 第28回 ゴールデンアロー賞 特別賞を受賞。尚、この年のNHK「紅白歌合戦」に美川 憲一出演 復帰させ、初出演のコロッケと共演の演出をNHKから依頼され、演出プロデュースを手がける。
1991年 歌手 あいざき信也(アイザキ シンヤ)をアイドルから大人の歌い手としてプロデュース。またこの年、ものまねデュオ しじみとサザエというユニット育成。日本レコード大賞新人賞を始め、その年の全ての新人賞を獲得する。第29回ゴールデンアロー賞 音楽新人賞を受賞する。
8月 神野美伽特別公演(初座長)新歌舞伎座にて。ゲスト:コロッケ ・美川憲一・舟木一夫 総合監修を務める。
1992年 NHK「二人のビッグショー」の企画・制作。さまざまなタレントの復活をプロデュースする姿に注目を集め、NHKニュースに報道され、各曲のワイドショー番組やドキュメンタリー番組にクローズアップされ《復活の宮崎と言われていた》その中でも フジテレビ「今夜も好奇心」では60分特集で番組が放送された。
12月 恩師であるエレキの神様「寺内タケシ」の指名により、寺内タケシ&ブルージーンズの結成30年全国コンサートの総合プロデュースを任せれ、成功を収めた。
宝塚月組 トップスター つるぎみゆきを宝塚引退後、タレントに育成。
1997年 あいざき進也 伊丹幸雄(イタミサチオ) 西口久美子(ニシグチ クミコ)の3人ユニット Lookin' For Paradise を 結成。
1999年 歌手・俳優 西郷輝彦(サイゴウ テルヒコ)のマネージメントを展開。
劇団 誠 (ゲキダン マコト) 座長 (マツイ マコト)のプロデュースを手がける。
2000年 6月 熟女 4人組のユニット (林 寛子・大場久美子・あべ静江・沢田亜矢子)
『女盛りゲザデレタ』をプロデュース。CDもリリースし、メディアに話題を提供。
7月 東京都大島町 波浮港(ハブミナト) 開港200年記念事業イベントとしてトウシキ園地特別会場にて、都はるみ(ミヤコハルミ)の8000名動員コンサート及び波浮港見晴台に「あんこ椿は恋の花」の歌碑制作の総合プロデューサーとして抜擢され活躍。
2001年 東京都庁より要請を受け、東京都伊豆諸島観光復興応援歌をプロデュース。「憧れの伊豆諸島」歌手: 日系4世:シャルダン貴本 起用。
「Akira」ヘアーメイク プロデュース。
中国 海南省人民政府遊局より 「海南島」PRキャンペーンのプロデュースの要請を受け務める。