利用者:ホノルル妙法寺
ホノルル妙法寺の歴史
1930年12月、顕本法華宗の小林日種師は、文部省の嘱託として南米に移住の日本人の一団を引率しての帰り、ホノルルに立寄り、顕本法華宗の篤信日比野夫人宅に請われ、翌年1月3日に初めて、仏教講座を開き、共鳴賛同の者多数を得て、同地の長谷部氏宅を仮の寺とした。これがホノルル妙法寺の始まりである。 その後、現在地付近に移転、ハワイ法華経寺教団として政府に登録。1936年には、ミャンマー在住の信徒より、小林師に仏舎利が送られる。この仏舎利は、長い間所在不明であったが、2010年の開創80周年の折に、ホノルル市内の邸宅から突如発見され現在は本堂内に安置されている。この仏舎利の奉迎にともない、次期計画として、ホノルルに於いて仏舎利塔の建設が企画された。1939年、仏舎利塔建設予定地として、現在地の約8500坪をホノルル美術館から購入。しかしこの土地一帯は、密林であり、開発整地のために、信徒を挙げての開発が始まった。20人ないし30人、時には50人という信徒が手に手に斧をふるい、地を起こし土石を運んで土地を整備した。敷地を縦断するヌアヌ渓流から大小の石を引き上げては、その両岸に高さ3メートルの石垣を積み重ね、築き上げていった。信徒の築いた石垣は、今も500メートルにも及んで残っている。 1941年12月7日、今年で70周年を迎えることになるが、真珠湾が旧日本軍により攻撃された。敷地整備の途中であった、小林師と信徒数名はアメリカ軍によって拘引され、アメリカ本土に送られ監禁抑留される。日本人としてのルーツがありながら、アメリカ人としてアメリカの為に尽くしてきた彼らにとって、敵性外国人として収容所に収容されるという無念は想像を絶するものであったであろう。しかし戦時中、境内地は軍の使用地に当てられ、その軍の借地料によって、ホノルル美術館への土地代を完済できた。 戦後まもなく抑留されていた小林師と信徒はホノルルに帰り、宗教活動が再開される。1948年には、小林師が退山され、現在は、ホノルル妙法寺坂上のホノルル墓地に静かに眠っておられる。師の遷化の4月17日近くの日曜日には、師への報恩の為、毎年先師会が開かれている。その後広島市本山貫首歴任の疋田英政師、清澄寺別当歴任、中条是龍師が招かれ布教される。1953年、ハワイ法華経寺がホノルル妙法寺と改称。1954年には中条師の恩徳により、日本山妙法寺藤井日達師と仏縁を結び、藤井師より世界平和の架け橋としてハワイのホノルルに仏舎利を奉安するよう仏舎利領譲が伝えられた。そして同年4月8日に藤井師より、インドのネルー首相から送られた真身の御仏舎利が熊本花岡山で信徒の手に親授され、現在も本堂に奉安されている。 1955年に福井県出身の川村龍宏師が教団に招かれ布教。1958年には、池永英常師が教団に招かれた。世界に類をみない美しい日本式仏舎利塔が藤井日達師大導師のもと、1968年5月21日に落慶となった。 その後、1979年には、旧本堂地約143坪の土地の賃貸を決議。開発事業社によってコンドミアムが建てられた。現在の信徒減少問題のさなか、この土地賃貸料の収入が当教会の経済状態を支えている。それは、時代の先見の明があった当教会の物故信徒の恩徳によるものであり感謝しても仕切れない。同年10月に、正式にホノルル妙法寺教団は日蓮宗に加盟した。 その後、寺門興隆とハワイに於ける日本文化発展貢献の為、280人収容エレベーター付きのホノルル妙法寺日本文化会館が1983年10月2日に落慶となる。1991年には柴又題行寺山主歴任望月日翔師大導師のもと、開創60周年記念法要を厳修。2006年には、妙祥寺御山主遠藤文祥師大導師のもと開創75周年法要を厳修。2010年には、身延山久遠寺庶務部長歴任神蔵義一師大導師のもと、開創80周年記念法要を厳修、2010年5月伊東本山佛現寺寄在、山村尚正師が第6世住職として法燈を継承する。2012年7月には、日蓮宗ハワイ開教110周年記念大法要の折、内野日総管長猊下の御親教。2013年11月には、ホノルル妙法寺日本文化会館落慶30周年法要を厳修。ヒューストン日蓮仏教会のケインバレット妙恵師の基調講演が開催された。2015年前日蓮宗宗務総長伊藤通明猊下大導師のもと、ホノルル妙法寺開創85周年が無事厳修される。