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利用者:ハポヌム/sandbox

レンスターの書 (アイルランド語: Lebor Laignech[ˈl͈ʲevor laignex]) は1160年頃に編纂された中世アイルランド語の写本で、現在はMS H 2.18 (cat. 1339)の書架番号のもとダブリントリニティ・カレッジに保管されている。古くにはLebor na Nuachongbála 「Nuachongbáilの書」として知られていた。

タラの殉教録英語版などのいくつかの断片がユニバーシティ・カレッジ・ダブリンに収められている[1]

編纂時期と出所

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レンスターの書は集成的な作品で、複数の者が作成に関わっていたようである。主たる編纂者・筆記者はおそらく、現在のティペラリー州 Terryglass にあった修道院の大修道院長であったÁed Ua Crimthainnである[2][3]。写本の内部的証拠も Áed の関与を示しており、彼の署名がf. 32r (p. 313)に見られる。Aed mac meic Crimthaind ro scrib in leborso 7 ra thinoil a llebraib imdaib ("Áed Húa Crimthaind がこの本を記し多くの書から収集した")。下部の余白に後代に写された書簡の中で、キルデアの司教 Finn mac Gormáin (d. 1160) は彼を Leth Moga の上王の「博学者」(fer léiginn) 、Colum mac Crimthainn の後継者、レンスター一番の学者 (prímsenchaid) と呼んでいる。別の説としては、Finn mac GormáinがÁedのために筆記あるいは編纂したというEugene O'Curryの説がある。

写本はAédとその弟子たちによって1151年から1224年までの長い期間に渡って作成された[3]。写本に記録された歴史によれば、1151年から1201年の間に書かれたが、1160年代には大半は完成していたと考えられる。1164年にTerryglassが全焼したことを考慮すると、写本は別の場所で完成されたと思われるが[3]、その場所としてはStradbally, Clonenagh (ともにリーシュ州) などが挙げられている[3]

Eugene O'Curry は、オーアバル (An Nuachongbáil) の近くに Dún Másc の城を構えた Diarmait Mac Murchada (1171年没) の求めによって作られたと提唱している。Dún Másc は Diarmait Mac Murchada から Strongbow に渡り、次いでその娘 Isabel に、次いで Marshal Earls of Pembroke、そこからはこの血統に代々受け継がれた。 Meiler fitz Henry がリーシュにアウグストゥス派修道院を構えると、オーグバルは修道院に与えられた地に含まれた。

歴史

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レンスターの書のあるページ

写本が完成後どこにあったかは確かなことはわかっていないが、14世紀になるとオーグバルで発見された。牧師館に保管されていた可能性がある。

レンスターの書のその現在の名は ジョン・オドノヴァンロバート・アトキンソン による。オドノヴァンはその内容のレンスターの地との強い結びつきに基づいてレンスターの書と名付け、 アトキンソンは出版した平版印刷ファクシミリにおいてその名を採用した[3]

しかし現在においては、レンスターの書は元は Lebor na Nuachongbála「Noghoval の書」として知られていたことが広く受け入れられている。これは ジェームズ・ウェア卿によって17世紀初期に書かれた写本にレンスターの書のいくつかの短い部分が引用されているのを観察した R.I.ベスト によって確立された。これらの引用は "Book of Noghoval" に帰されており、ウェアがバリナに滞在し ローリー・オモア の歓待を受けていたときに書かれた。彼の家族、オモア一族は15世紀初期には Noghoval の領主であり、ウェアがレンスターの書を閲覧できたのは彼らのおかげであろう。現在レンスターの書として知られる写本の特定はロリーの家族がUí Chrimthainn、テリーグラスのcoarbと繋がりにを持っていたことによって提案された。ロリーの祖父が Uí Chrimthainn の故郷クローンナに抵当を持っていたのである[4]

Best の提案は同じく17世紀初期に書かれた Dublin, Royal Irish Academy MS B. iv. 2 からも裏付けられている。ルドルフ・トゥルナイゼンが記したように、いくつかの文がレンスターの書から写され、その参照元が "Leabhar na h-Uachongbála"、Leabhar na Nuachongbála (Noughaval の書) となっている[5] 。さらに、14世紀にレンスターの書はストラッドバリーにあったが、ここは元は Nuachongbáil と、後には Oughaval と呼ばれた修道院の場所である[6]

内容

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写本は187葉からなり、それぞれが33 cm x 23 cm の大きさである。写本のなかの記録によれば、45葉が失われたようである。広い範囲からの編集物であるレンスターの書は、中世アイルランド文学、系譜学、神話における最も重要な情報源の1つであり、Lebor Gabála Érenn (アイルランド来寇の書」)、Táin Bó Cuailnge (クーリーの牛争い) の完全なもの、Metrical DindshenchasDe excidio Troiae Historiaのアイルランド語翻訳、タラの殉教録に並ぶ。

出典・脚注

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  1. ^ Ms A3 at www.ucd.ie
  2. ^ Best, The Book of Leinster, vol 1, p. xv.
  3. ^ a b c d e Hellmuth, "Lebor Laignech", pp. 1125-6.
  4. ^ Best, The Book of Leinster, vol 1, pp. xi–xvii.
  5. ^ Thurneysen, Die irische Helden- und Königsage bis zum 17. Jahrhundert, p. 34.
  6. ^ Best, Book of Leinster, vol. 1, p. xi-xv

参考文献

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  • Atkinson, Robert. The Book of Leinster, sometimes called the Book of Glendalough. Dublin, 1880. 1–374. ファクシミリ版.
  • Book of Leinster, ed. R.I. Best; Osborn Bergin; M.A. O'Brien; Anne O'Sullivan (1954–83). The Book of Leinster, formerly Lebar na Núachongbála. 6 vols. Dublin: DIAS. Diplomatic edition.

二次資料

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  • Hellmuth, Petra S. (2006). "Lebor Laignech". In Koch, John T. (ed.). Celtic Culture: A Historical Encyclopedia. Santa Barbara, Denver, and Oxford: ABC-CLIO. pp. 1125–6.
  • Ní Bhrolcháin, Muireann (2005). "Leinster, Book of". In Seán Duffy (ed.). Medieval Ireland. An Encyclopedia. New York and Abingdon: Routledge. pp. 272–4.
  • Ó Concheanainn, Tomás (1984). “LL and the Date of the Reviser of LU”. Éigse 20: 212–25. 
  • O'Sullivan, William (1966). “Notes on the Scripts and Make-Up of the Book of Leinster”. Celtica 7: 1–31. 

外部リンク

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