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利用者:デウス・エクス・マキナ/下書き

アルメニア共和国アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետութիւն)は、1375年キリキア王国が崩壊して以降初めてアルメニアに成立した国家である。後のアルメニア・ソビエト社会主義共和国と区別して第一共和国とも呼ばれ、主としてアルメニア革命連盟(ダシナク党)の手によって建国された。

1918年5月28日に独立を宣言したアルメニア共和国は、成立当初から内外の様々な問題に悩まされた。隣接するオスマン帝国アルメニア人虐殺が発生すると、一万を越す難民が建国されたばかりの同国へ流入した。近隣諸国との領土を巡る紛争も多発し、1920年赤軍によって征服されるまで不安定な状態が続いた。首都エレヴァンが赤軍の支配下に入った後も残存勢力は南部に逃れて赤軍への抵抗を続けた(山岳アルメニア共和国)が、最終的にソビエト化され、1991年に至るまで独立が回復される事は無かった。

背景

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第一次世界大戦が勃発すると、当時オスマン帝国が領有していたコーカサス地方はロシア帝国軍によって占領され、アルメニアには暫定政府が設立された(ヴァン共和国英語版)。1917年2月第一次ロシア革命によってロシアに臨時政府が成立すると、臨時政府はグルジア人アゼルバイジャン人アルメニア人の三民族の代表者達を含むザカフカース特別委員会英語版を同地域へ派遣し、アルメニアでは暫定政府に代わってアルメニア人による統治が短期間ながら実現した。だが1917年8月になってボリシェヴィキがロシア本土の支配権を獲得すると、アルメニア人を始めとするカフカースの三民族はいずれもボリシェヴィキ政権を不当なものと見なし、命令を拒否する姿勢を明確にした。

独立

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十月革命により臨時政府が崩壊すると、臨時政府の出先機関であったザカフカース特別委員会に代わってザカフカース委員部英語版が成立し、1917年12月5日にオスマン帝国と休戦条約を結んだ事でコーカサス地方での戦闘は一時的に停止された。委員部の面々はボリシェヴィキに対抗するべく団結する道を選び、独立への準備段階としてザカフカース議会(セイム)が設立された。だが、セイムのアルメニア人議員達はロシア内戦において民主主義を奉じる白軍側が勝利する事を期待し、ロシアからの独立には強く反対した。激論の末、1918年2月にアルメニア人・グルジア人・アゼルバイジャン人の三民族はザカフカース民主連邦共和国の建国に合意したものの、三民族間の意見対立が解消される事は無かった。

1918年3月、中央同盟諸国とボリシェヴィキ政府との間でブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアは大戦から離脱し広大な領土の割譲を余儀なくされた。ロシアからオスマン帝国への割譲が決定された領土の内にはカルスバトゥミアルダハンを含む西アルメニア地域の全域が含まれていた。加え、条約には東西アルメニアにおけるアルメニア軍並びにロシア軍の武装解除を定める条項が秘密裏に挿入されていた。アルメニア人虐殺を引き起こしたオスマン政府は、東アルメニアに居住する全アルメニア人を追放するべく進軍を再開し、3月にエルズルムを、4月にはカルスを奪回した。

1918年5月11日、ブレスト=リトフスク条約締結以来中断していたザカフカース共和国とオスマン帝国との終戦会議がバトゥミで新たに開催された。オスマン側は従来の主張に加え、カルスとジュルファ(現ナヒチェヴァン自治共和国の町)をバクー経由で繋ぐ路線を敷くためと称してトビリシエチミアジンギュムリを要求した。いずれも三民族にとって歴史的に重要な都市であったため、共和国政府が譲歩する事は不可能であった。

5月26日にグルジアが独立を宣言(グルジア民主共和国)してドイツの保護下に入ると、続いてティフリスのムスリム革命連盟がアゼルバイジャン民主共和国の建国を表明し、ザカフカース共和国は事実上崩壊した。残されたアルメニア人達はダシナク党を中心として5月28日に独立を宣言し、権力基盤を固めるべく同党のメンバーであったホヴハンネス・カチャズヌニアレクサンダー・カーティシャン英語版エレバンに派遣した。

In view of the dissolution of the political unity of Transcaucasia and the new situation created by the proclamation of the independence of Georgia and Azerbaijan, the Armenian National Council declares itself to be the supreme and only administration for the Armenian provinces. Because of the certain grave circumstances, the national council, deferring until the near future the formation of an Armenian National government, temporarily assumes all governmental functions, in order to take hold the political and administrative helm of the Armenian provinces.[28] Meanwhile, the Turks had taken Alexandropol and were intent on eliminating the center of Armenian resistance based in Yerevan. The Armenians were able to stave off total defeat and delivered crushing blows to the Turkish army in the battles of Sardarapat, Karakilisa and Abaran.

The Republic of Armenia had to sue for negotiations at Treaty of Batum, which was signed in Batum on June 4, 1918. It was the ADR's first treaty. After the Ottoman Empire took vast swathes of territory and imposed harsh conditions, the new republic was left with 10,000 square kilometers.[29]