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利用者:ソルト&ペッパー

市ヶ谷見附は寛永13年(1638)に美作津山の藩主の森長繼により桝形が造られた。明治4年(1871)の6月4日に撤去された。[1]

解説

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堀にかけられた城門を見附と呼び、見張所を意味している。

市ヶ谷見附は現在は残っておらず、市ヶ谷方面へ出る門であったため、その名が付いた。

藤井甚太郎が『麴町区史』の中で三十六見附について説を述べており、四谷見附や赤坂見附などの名が残っている。そして、その中のひとつに「市ヶ谷」も含まれている。[2]

歴史

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市ヶ谷、四谷、兩見付の中間、本村町邊から牛込見附に至るまでの濠は自然の谷地を利用したもの。堀幅一町餘に及んで極めて大規模に出来ている。堀幅が大きい。左右の水面に差があり、大きな土橋になっていた。この土橋の石垣は改修を加えられて今では東側のみわずかに残っているが、昭和三年市ヶ谷驛改築の際に舊架橋の跡も壊された。市ヶ谷、牛込門の堀も約五分の二ほど両側から埋められている。[3]

近隣の施設

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市ヶ谷見附は江戸城の三十六門・三十六見附の一つで、外郭十八門、内郭十八門の、計三十六門からなっている。

外郭門

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・浅草門・筋違橋門・小石川門・牛込門・市ヶ谷門・四谷門・赤坂門・虎門・山下門・幸橋門・日比谷門・数寄屋橋門・鍛冶橋門・呉服橋門・常盤橋門・神田橋門・一橋門・雉子橋門

内郭門

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・和田倉門・馬場先門・外桜田門・田安門・半蔵門・竹橋門・清水門・大手門・大手三門・内桜田門・西丸大手門・平川梅林門・北桔橋門・寺沢門・蓮池門・下梅林門・上梅林門・阪下門[4]

『御府内備考』では・大手三門・寺沢門・蓮池門・上梅林門・下梅林門がなく、・矢来門・喰違門が追加

市ヶ谷から飯田橋への土手は「外濠公園」の一部であり、そこは桜の名所として有名。[5]

参考文献

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・西山松之介、郡司正勝、南博、神保五彌、南和男、竹内誠、宮田登、吉原健一郎「江戸学事典」初版1刷発行、1984年3月10日、41‐43項

・千代田区富士見地区町会連合会「わが町あれこれ」1981年10月1日、152貢

・中力順「江戸城の今昔」1928年12月10日発行、市ヶ谷見附より

・東京千代田区教育委員会「千代田の文化財深訪」より『江戸城外堀跡』115頁 1995年

・雄山閣「千代田城とその周辺」より『江戸城から宮城へ』55頁 1965年8月30日

・松平太郎「江戸時代制度の研究」239項[1]

脚注

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  1. ^ 『千代田の文化財深訪』千代田区教育委員会、1995年、江戸城外堀跡 115頁。 
  2. ^ 『江戸学事典』弘文堂、初版1刷発行、1984年3月10日、41~43頁。 
  3. ^ 中力順『江戸時代の今昔』日本史蹟研究会、1928年12月10日発行、市ヶ谷見附頁。 
  4. ^ 江戸時代制度の研究”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年6月24日閲覧。
  5. ^ 千代田区富士見地区町会連合会『わが町あれこれ』千代田区富士見地区町会連合会、1981年10月1日、152頁。