利用者:ウミユスリカ/新記事作成作業場/費也頭
費也頭(ひやとう)、あるいは破也頭、費野頭は、南北朝時代から隋代、さらに唐代初期にオルドス地方で遊牧を行っていた匈奴系とみられる遊牧民である。これを率いた氏族の一つの竇氏は関隴集団の一員として振る舞い、北周の皇室の宇文氏や唐の皇室となる前の李氏、唐朝成立後の唐皇室と通婚し、唐の建国にも大きく貢献した。
歴史
[編集]費也頭そのものの史料上の初出は、『魏書』巻七上高祖紀上の延興二年(472年)八月の条で、オルドス地方北西部にいた費也頭が北魏に背いたので、霊武に置かれた薄骨律鎮から鎮圧軍が出て敗走させた、とある。前後の状況から費也頭はオルドス地方を治めていた匈奴鉄弗部の赫連勃勃が建てた夏が431年に北魏に滅ぼされたのちも部族の紐帯を保ったまま遊牧生活を維持し、
費也頭を率いた氏族のひとつは漢姓を竇氏、胡姓を紇豆陵氏を名乗り六鎮の乱以降の華北の混乱下で台頭してきた関隴集団の一員である。史料上の初出は北魏孝荘帝の時期の『北史』巻六斉本記上の記事で、永安三年(530年)、孝荘帝が六鎮の乱を鎮圧した権臣の爾朱栄を暗殺した際に爾朱氏一党の反逆を恐れて北方の紇豆陵歩藩と結んで爾朱氏本拠の秀容を攻撃させている。このとき爾朱氏側では爾朱栄の子爾朱兆が反撃に転じ、孝荘帝は兆により殺害、歩藩は兆により召された高歓により敗死している。この3~4年後の記事では紇豆陵伊利がオルドス地方北部を東流する黄河の流域から狼山東南部にかけての遊牧適地の大平原にて費也頭なる集団を率いていることが記録されている。
その後、『周書』巻十四賀抜岳伝の永煕二年(533年)の記事には費也頭の万俟受洛干と解抜彌俄突が、『北史』巻六斉本記上の天平三年(536年)の記事には文脈上『周書』記事の解抜彌俄突と同一人物と見做せる費也頭の斛抜俄彌突が登場するので、費也頭は紇豆陵氏や万俟氏、斛抜氏といった氏族で構成される遊牧部族であると考えられ、また後世費也頭そのものを姓とした者もいたことが知られている。費也頭、あるいはその別字の破也頭、費野頭を姓とした者で後に改姓した者に宇文述、宇文化及父子がおり、彼らが匈奴の血統と認識されていた事から費也頭そのものも匈奴を構成した部族だと考えられている。
紇豆陵氏は漢姓竇氏を名乗るに際し、もともと漠然と前漢文帝の孝文皇后竇氏の一族で漢室の外戚の立場にあったが、後漢の竇武の代に党錮の禁にあって族滅の難にあい、生き延びた一族の者が匈奴に亡命した末裔と自称していた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 石見 清裕 (1982-10-20). “唐の建国と匈奴の費也頭”. 史學雜誌 (東京: 史学会) 91 (10): 1586-1609. ISSN 00182478. NAID 110002364788.