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伊藤玄蕃
本稿においては、甲陽軍鑑に登場する「伊藤玄蕃(いとうげんば)」を対象とする。
1.甲陽軍鑑と伊藤玄蕃
①「甲陽軍鑑」品第17には、「武田法性院信玄公御惣人数の事」として、武田信玄時代の武田家家臣団が掲載されている。
伊藤玄蕃は、その中における「二十人頭」の1人である。「甲陽軍鑑」には、「二十人頭」は、10名掲載されている。
出典:『甲陽軍鑑』上巻、人物往来社<戦国史料叢書3>、1965年、325頁
②「甲陽軍鑑」において、他に伊藤玄蕃が登場する場面は、永禄10年(1567年)の戦において敵(北条方)の武者を同僚とともに生捕ったものである。
出典:『甲陽軍鑑』中巻、人物往来社<戦国史料叢書4>、1965年、251頁
2.伊藤窪と伊藤玄蕃屋敷
山梨県韮崎市穴山町に「伊藤窪」という地名がある。ここに伊藤玄蕃の屋敷があったという。 ただし、遺構は何も残っていない。
出典:「いわゆる城郭図鑑」山梨県韮崎市 伊藤玄蕃屋敷 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/011yamanashi/107itou/itou.html
3.武田氏滅亡後の伊藤玄蕃
武田氏滅亡後の伊藤玄蕃(およびその子孫)については、次の3説が見出されている。
①「伊藤窪」に留まり、帰農した。
「玄蕃允祐次は信玄の時、二十人頭となった。主家没落ののち徳川家に仕えたが故あって辞し、帰農して子孫は村役人を世襲した。」
出典:「北杜市ふるさと資料館」 韮崎市歴史上の人物 教育者 伊藤うた (原典は、『韮崎市誌』下巻に収録。)
http://blogs.yahoo.co.jp/saegusauntai/36364967.html
②信濃に潜居し、帰農した。
「次ハ重時伊藤玄蕃ト云フ(伊藤玄蕃ハ武田家廿人頭也天正壬午ノ役新府ノ東、堂ヶ坂砦守衛ノ番頭タリ)武田家滅亡ノ後浪人シ當小坂ノ里ニ潜居帰農シテ」 注:長野県岡谷市に「小坂」(おさか)という地名がある。
出典:飯田好太郎 『諏訪史料名家家譜』 歴史図書社、1897年、232頁
③子孫が越前に至り、後に水戸徳川家に仕えた。
「神君岡崎平兵衛綱住伊藤玄蕃友玄(2名略)ヲシテ公ノ臣タラシム」「友玄ハ初越前ニ住シ中納言秀康卿ニ仕」「楓軒曰系纂ニモ伊藤氏ノコト如比見エタレトモ甲陽軍鑑ニ信玄ノ廿人頭ニ伊藤玄蕃アリ其後越前ニ仕エシモノナランカ」
出典:「水戸紀年」『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』茨城県編、1970年、436頁
注:「水戸紀年」は、水戸藩の歴史書。上記引用文の現代語訳は、次のとおり。
「神君(徳川家康)は、岡崎綱住、伊藤友玄、他2名を威公(徳川頼房)の家臣とした。友玄は、初め越前において結城秀康に仕え た。小宮山楓軒は、「水府系纂にも伊藤氏のことがこのように書かれているが、甲陽軍鑑に信玄の二十人頭に伊藤玄蕃の名がある。その後、越前に移って仕官したのであろうか。」と云う。