利用者:イチジク艦長/sandbox
澤井 市造(さわい いちぞう、1850年(嘉永3年1月)- 1912年(明治45年)7月27日)は、丹後国由良村(現在の京都府宮津市)生まれの土木請負業者。初代台湾北消防局長。
斯界の古典書である『日本鉄道請負業史明治編』に登場する主要人物の一人。
経歴
[編集]幼くして両親と死に別れると伯母夫婦に養育された。由良村は江戸時代より良港として栄えた地であり、15歳で船乗りとなる。のちに松前で海産物商を営むが零落。道内を放浪する中で札幌に辿り着くが、その頃には30歳に近くなっていた。
札幌で大阪生まれの村上彰一(1857〜1916)と出会う。立身の夢を見て大阪から横浜に出た村上は荷役の仕事をしながら独学で英語を学び、松本荘一郎の知遇を得て書生となり北海道に渡ってきた。澤井は村上が玄関番をしていた外国人教師館で小使いとして雇われた。そののち松本荘一郎の書生になったが飯炊き以外は仕事をせず暇なときは歌を歌っていた。
松本の下にいた澤井は鉄道工夫、次いで人夫請負を任されるようになり、次に小樽に出る。
1879年(明治12年)手宮幌内間の鉄道工事(官営・幌内鉄道)を請負った。1883年(明治16年)、小樽の積出港である手宮海岸の埋立工事を請負った。内地に進出し、1886年(明治19年)日本鉄道の白河−宇都宮間の鉄道工事、次いで東海道線静岡−掛川間の鉄道を請負い、南清技師とコンビを組んだ安倍川橋梁工事で利益を得た。
それから沢井組の90人を率いて大阪に向かうが、仕事が無く窮まった。1888年(明治21年)に日本土木会社の下請に入り大阪鉄道の湊町−柏原間の鉄道工事の一部を担当、一息をつくことが出来た。1890年(明治23年)に、松本、平井晴二郎の技術指導の下で北海道炭鉱鉄道の東室蘭−岩見沢間の工事を請負う。脚気、マラリア、熊による被害も出た難工事となった。
室蘭線で成功し、ズラリと並べた請負金を背景に写真を撮り地元の知人に送った。友人の村上彰一は「そんな事をしていると後でひどい事になるぞ」と忠告した。その言葉通りに夕張線(石勝線)の工事の失敗で負債を抱え、更に詐欺罪で北海道から大阪へ護送されるなど散々な目に会い、無一文で村上のもとに転がり込む。村上は1883年(明治16年)に東京に戻り、松本荘一郎の推薦で日本鉄道に入社していた。
村上の家で居候をしていた澤井のもとを旧知の仲である仙台の橋本忠次郎が有馬組の森清右衛門を連れ立って訪ねてくる。当時の請負業界では澤井と橋本、それと元鹿島組の三部長の1人である星野鏡三郎が異彩を放つ存在だった。要件は有馬組が隧道工事の経験のある澤井に北陸線の鉄道工事を手伝ってほしいという。道具、材料は有馬組が持つという好条件だった。
澤井に再起のチャンスが来たと喜ぶ村上だが、澤井はまだ借金があるから表に出れないという。金額を聞いた村上が建替えると、喜んで北陸へ向かい有馬組のために名義人として鉄道工事の仕事を落札した。
有馬組の工事部長として手掛けた北陸線は十二の隧道があり、特に第三の葉原隧道の堅石のため1893年(明治26年)より澤井と部下たちは辛酸を舐めることになる。