コンテンツにスキップ

利用者:ろうと/sandbox

エンゲルベルト・ドルフース
Engelbert Dollfuß
トム・ドレーガードイツ語版による肖像画(1934年)
生年月日 1892年10月4日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ニーダーエスターライヒ州 テクシングドイツ語版
没年月日 (1934-07-25) 1934年7月25日(41歳没)
死没地 オーストリアの旗 オーストリア ウィーン
出身校 ウィーン大学
ベルリン大学
所属政党 キリスト教社会党
配偶者 アルヴィネ・グリエンケ

オーストリアの旗 第14代首相
内閣 ドルフース内閣
在任期間 1932年5月20日 - 1934年7月25日
大統領 ヴィルヘルム・ミクラス

オーストリアの旗 外務大臣
内閣 ドルフース内閣
在任期間 1932年5月20日 - 1934年7月10日
大統領 ヴィルヘルム・ミクラス

オーストリアの旗 農林大臣
内閣 エンダー内閣
ブレシュ内閣
ドルフース内閣
在任期間 1931年3月18日 - 1934年7月25日
大統領 ヴィルヘルム・ミクラス
テンプレートを表示

エンゲルベルト・ドルフースドイツ語Engelbert Dollfuß1892年10月4日 - 1934年7月25日)は、オーストリア第一共和国の政治家。

オーストロファシズム[注 1]と称される強権的な体制を確立した独裁者として知られているが、ナチスとは対立しており、最終的にオーストリア・ナチス党員に暗殺された。

生涯[編集]

青年期[編集]

少年神学校でのドルフース(中央)

ドルフースは1892年にテクシング(現在のメルク郡テクシングタール)で粉挽き職人の助手ヨーゼフ・ヴェニンガーと貧農の娘ヨーゼファ・ドルフースの私生児として誕生した。しかし、娘を農夫に嫁がせることを望んだヨーゼファの父レオポルトの反対や財政上の理由から2人は結婚できなかった[2]。ドルフースが生まれて数ヶ月後、ヨーゼファはキルンベルク・アン・デア・マンクドイツ語版の農夫レオポルト・シュムッツと結婚した。これにより、ドルフースは異父弟妹を4人持つことになる[3]

敬虔なカトリック教徒として育ち、司祭を志していたドルフースは奨学金を得て1904年からホラブルンドイツ語版にある少年神学校に通い始める。1年目はラテン語と数学の成績不振で留年を余儀なくされた[4]が、1913年に卒業した。その後はウィーンの神学校へ進学するも3ヶ月で退学し、ウィーン大学で法律を専攻した。1923年に法学博士号を取得する[5]

第一次世界大戦が勃発すると、ドルフースはウィーンで徴兵検査を受けたが、基準よりも身長が2cm足りなかったために不合格とされた[6]。しかし、ザンクト・ペルテンで再志願した結果、最終的に一年志願兵として山岳部隊に配属された。ドルフースはイタリア戦線で従軍し、1916年に少尉、1918年に中尉へ昇進した[7]。終戦時は休暇中であったため、イタリア軍の捕虜になることは免れた[8]

戦後はウィーン大学に復学し、学業の傍らカトリック系学生団体で活動していた。一方、ドイツ協会ドイツ語版アルトゥル・ザイス=インクヴァルトロベルト・ホルバウムドイツ語版ヘルマン・ノイバッハードイツ語版らと接触しており、ドイツ民族主義・反ユダヤ主義思想を抱くようになった。また、同時期にオトマール・シュパンの講義を聴講する機会を得ている。シュパンの職能身分制国家論はドルフースに多大なる影響を与えたとされている[9]

1920年から1年間、農民同盟の秘書として働きつつベルリン大学で経済学を学び、農業協同組合を研究した。この頃、ポメラニア地方出身でプロテスタントのアルヴィネ・グリエンケと出会い、1921年末に結婚した[10]。ドルフース夫妻は一男二女をもうけるが、長女のハンナは夭逝している[11]

政治活動の開始[編集]

第二次ブレシュ内閣(後列左端)

1927年、ニーダーエスターライヒ州農業会議所の議長に就任する。キリスト教社会改革の祖[12]であるカール・フォン・フォーゲルザンクドイツ語版に心酔していたドルフースはキリスト教社会党に入党し、農業協同組合の設立や農業従事者を対象とした給付金制度の成立に注力した。1930年9月30日にカール・ファウゴインドイツ語版が首相に就任した翌日、ドルフースはオーストリア連邦鉄道の総裁に任命された[13]。11月9日の国民議会選挙で社会民主労働党が議席数を伸ばした一方、キリスト教社会党は7議席を失った[14]ため、少数派内閣となったファウゴイン内閣は責任を取って総辞職した[15]

1931年3月18日に農林大臣としてオットー・エンダー内閣に入閣する。オーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト倒産に伴う経済的混乱等が原因でエンダー内閣は6月20日に総辞職したが、ドルフースは後継のカール・ブレシュドイツ語版内閣でも農相に留任した。この頃、ドイツのナチ党からの影響を受けたオーストリア・ナチスの勢力拡大や既存政党間の関係悪化で国内情勢は不安定な状況にあった。1932年5月20日、ドルフースは総辞職するブレシュ内閣に代わってキリスト教社会党・護国団農村同盟ドイツ語版からなる連立政権を発足した。ドルフース内閣は国民議会において1票差で過半数を保っており、連邦議会では少数派であった[16]

オーストリア首相[編集]

1932年、新首相として選出されたドルフース(中央左)

首相就任後、ドルフースは世界恐慌によって引き起こされた問題に取り組むこととなった。オーストリア=ハンガリー帝国時代の主要な工業地帯の大半がサン=ジェルマン条約によってチェコスロバキアユーゴスラビア王国に割譲されたため、オーストリアは経済的に困窮していた。7月15日にはイギリスフランスイタリアベルギーローザンヌ議定書ドイツ語版を締結し、20年間にわたる返済を条件として3億シリングにおよぶ借款を得た[17]。しかし、国際連盟による財政管理や合邦禁止条項の再確認が課されたため、野党の社会民主労働党および大ドイツ人民党との対立が深まった。

1933年3月4日、鉄道従業員による3日前のストライキに対する処罰の撤回を求める動議において、国民議会で投票上の手違いが発生した。カール・レンナー第一議長は結果には影響しないとの見解を示すが、票決の無効を訴える与党議員からの批判を受け、投票権を得るために辞任した[18]。混乱の中、ルドルフ・ラメクドイツ語版第二議長とゼップ・シュトラフナードイツ語版第三議長も同様に辞任した。これに対し、ドルフースは議会が「自分自身を排除した」[19]と宣言し、ミクラスに議会の無期限休会を進言した。15日にシュトラフナーが数十人の野党議員と共に議事の再開を試みるが、ドルフースは警察を動員して国会議事堂を閉鎖した[18]。これ以降、1917年に制定された戦時経済授権法ドイツ語版を利用した強権的な国家運営が始まった。

この出来事の背景には、1月30日にドイツでナチ党のアドルフ・ヒトラーが首相に就任したことでオーストリア・ナチスが議会で多数派を占め、オーストリアが国家として存続不可能になる危険性があったことが挙げられる[注 2]。6月19日、過激化するテロや扇動を理由にオーストリア・ナチスを非合法化した。また、ドルフースはソビエト連邦の影響力拡大も脅威と見なしていたため、5月26日にオーストリア共産党を禁止した。最終的には全政党を解散させ、イタリア王国ベニート・ムッソリーニファシズムをモデルとした体制を確立した。ムッソリーニはヒトラーに好意を抱いておらず、同じカトリックの保守的価値観を共有する盟友としてドルフースを強く支持しており、オーストリアのドイツとの緩衝地帯としての価値にも期待していた。

タイム』誌の表紙を飾るドルフース(1933年9月25日号)

8月19日から20日にかけて、ドルフースとムッソリーニはリッチョーネで会談を行い、ムッソリーニはオーストリアの内政と外交における新たな発展を要求した。その内容とは、護国団指導者(リヒャルト・シュタイドルドイツ語版エルンスト・シュターレンベルク)の入閣、5月20日に設立された祖国戦線の拡大、政府の独裁的性格の強調、政府委員(Regierungskommissär)の設置、大規模なプロパガンダであった[22]。これらを受けて、ドルフースは9月11日にウィーンのトラブレンプラッツドイツ語版で以下のように演説した[23][24]

資本主義システムの時代、資本主義・自由主義経済秩序の時代は過ぎ去り、マルクス主義・物質主義による人民の誘惑の時代は過去のものである! 複数政党支配の時代は過ぎ去った! われわれは強制的同一化(Gleichschalterei)とテロリズムを拒否し、われわれは、職能身分制に基づいて、強力な権威主義に基づく指導の下、社会的、キリスト教的、ドイツ国家オーストリアを欲する。

10月3日に国家社会主義的な思想を理由に連邦軍から追放されたルドルフ・デルティルが政党制度の排除を目的としてドルフースの暗殺を試みるが、軽症を負わせたのみで失敗に終わった[25]

独裁体制の完成[編集]

1934年、左からドルフース、ムッソリーニ、ハンガリー首相ゲンベシュ・ジュラ

1934年2月12日、ドルフースは社会民主労働党のリンツ支部であるホテル・シフの武器捜索を命じた。これに対し、共和国防衛同盟ドイツ語版の指揮官リヒャルト・ベルナシェックが武力で抵抗したことから内戦が勃発した。同日、社会民主労働党が禁止された[26]。戦闘はグラーツブルック・アン・デア・ムーアユーデンブルクウィーナー・ノイシュタットシュタイアーを始めとする各都市へと拡大したが、16日には全て警察や護国団の手で鎮圧された。戦闘の結果、多数の死傷者が出た[注 3]。社会民主労働党幹部は大半が逮捕されたが、オットー・バウアーユリウス・ドイチュドイツ語版等少数ながらもチェコスロバキアへ亡命した者もいた[30]

3月17日、ドルフース、ムッソリーニ、ゲンベシュはローマ議定書ドイツ語版を締結した。これには、三国間の経済関係を強化する他、ドイツのドナウ地域への勢力拡大を牽制し、各国の独立を保証する意図があったとされている[31]

5月1日、ドルフースはエンダー元首相が起草した新憲法、通称「5月憲法ドイツ語版」を施行した。教皇ピウス11世が1931年に発布した回勅『クアドラジェシモ・アンノイタリア語版』に基づく[32]カトリックと中世ドイツの伝統に支えられた国家体制は一種のコーポラティズム的な性格を有しており、ポルトガルエスタド・ノヴォとの類似性を指摘されている[33]。諮問機関としては、大統領に任命された構成員40~50人からなる国家評議会、宗教組織・教育組織の代表からなる連邦文化評議会、7つの職能代表(農林業、鉱工業、手工業、商業・運輸業、金融・保険業、自由業、公務)[34][35]からなる連邦経済評議会、各州の代表からなる諸州評議会が定められた[36]。これにより、政府は立法権と行政権を事実上掌握した。また、国名はオーストリア連邦国と改称され、国章の鷲も単頭から双頭に変更された[37]

暗殺[編集]

1933年、ドルフース

7月25日、オットー・プラネッタドイツ語版フランツ・ホルツウェーバードイツ語版を含む親衛隊第89連隊の隊員154人が連邦首相府やオーストリア・ラジオ通信株式会社(RAVAG)に侵入し、クーデターを試みた[38]

プラネッタたちはナチス派の元文部大臣アントン・リンテレンドイツ語版の組閣を求めてダイナマイトを持ち首相府に立て籠もった。事件終結後、教育大臣のクルト・シュシュニックがドルフースの後継として新首相となった。

事件はドルフースの死に留まらず、オーストリア各地で暴動が発生する事態に発展した。ケルンテン州ではナチス派が権力を握ろうと暴動を起こすが、反対派により鎮圧され、失敗に終わった。

ヒーツィング墓地ドイツ語版にあるドルフースと妻子の墓

滞在先のチェゼーナで事件の知らせを聞いたムッソリーニは、事件当時ヴェネツィアで休暇を過ごしていたシュターレンベルクを叱責し、シュターレンベルクは飛行機でウィーンに戻り首相代行に就任し、ミクラスの許可を得て逮捕されたフードルたちと面会した[39]。また、ムッソリーニはオーストリア侵攻を企図していたヒトラーを牽制するために4個師団をオーストリアとの国境地帯に派遣し、同時にオーストリアの独立性をイタリアが保証することを宣言した。

ヒトラーはドルフース暗殺を聞き歓喜したが、ムッソリーニの反応を知って狼狽した。ムッソリーニの強硬姿勢を見たヒトラーはドルフースの死を悼む声明を発表し、事件への関与を否定した。また、副首相フランツ・フォン・パーペンをウィーン公使に任命してオーストリアに派遣し関係改善に努め、オーストリア・ナチス党員のドイツ入国を禁止した。

犯人のうち、プラネッタら7人は絞首刑に処された[40]。一方、パウル・フードルは禁固刑を受けたが、アンシュルス直前の1938年2月12日にヒトラーとシュシュニックが会談した際に恩赦で釈放され、後に親衛隊少佐となっている。

ドルフースの葬儀はウィーンで執り行われ、オーストリアの全人口650万人の内、約50万人の国民が葬儀に参列し、遺体はヒーツィングドイツ語版に埋葬された[41][42]。事件当時、ドルフースの妻子はラケーレ・グイーディの招待を受けてリッチョーネに滞在していたため難を逃れた。ムッソリーニはドルフースの妻子の前で涙を流し、盟友の死を悼んだという[43]

人物[編集]

  • 身長は150cm台[注 4]と当時の平均的なオーストリア人よりも小柄であった。そのため、「ミリメッテルニヒ」「小ナポレオン」「ポケット宰相」[47]等の身長に由来するあだ名を付けられたり、ジョークの的となったりしたが、ドルフース本人はそれらを面白がっていた[48]
  • 外国を訪問する際は常に飛行機を利用していた[49]。帰国時は自分の無事を故郷の母親へ伝えるためにキルンベルク・アン・デア・マンク周辺の上空を必ず通っていた[50]。愛機はユンカース F.13政府専用機ダグラス DC-2を導入しようとする動きもあったが、実現したのはドルフースの死後であった[51]
  • ヘビースモーカーであり、タバコを1日に100本ほど吸っていたとされる[49]。しばしば冗談めかして「オーストリアにおけるタバコ収益の頼みの綱」を自称していた[54]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この体制には「オーストロファシズム」以外にも「首相独裁」「政府独裁」「権威主義的身分国家」「ドルフース=シュシュニック体制」等の様々な名称が与えられており[1]、研究者の間でも見解が一致していない。
  2. ^ 1932年4月24日にウィーン、ニーダーエスターライヒ州、ザルツブルク州で行われた州議会選挙でオーストリア・ナチスが初めて議席を獲得している[20]。 また、ファシズム研究者のスタンリー・ペイネドイツ語版は、予定通り1933年に国民議会選挙が実施された場合、オーストリア・ナチスの得票率は25%に及ぶ可能性があると指摘している[21]
  3. ^ 政府の公式発表によると、政府側の人物は102人死亡、319人負傷、民間人は137人死亡、339人負傷とされる[27]。同時代のイギリスのジャーナリスト G・E・R・ゲディ英語版 は、1500~2000人が死亡、5000人以上が負傷したと推定している [28]。また、歴史家のクルト・バウアードイツ語版は、合計で350~360人が死亡し、うち31%が政府側の人物、31%が社会民主労働党側の人物、38%が民間人と推定している[29]
  4. ^ 文献によって150cm[44]、151cm[45]、153cm[46]と異なる。

出典[編集]

  1. ^ Benedik, Stefan: “Die Diktatur der vielen Namen: Austrofaschismus? Ständestaat? Kanzlerdiktatur?”. Haus der Geschichte Österreich. 2024年5月25日閲覧。
  2. ^ Dollfuß 1994, p. 13.
  3. ^ Dollfuß 1994, p. 14.
  4. ^ Dollfuß 1994, p. 16.
  5. ^ Walterskirchen 2004, p. 292.
  6. ^ Messner 2004, p. 29.
  7. ^ Engelbert Dollfuß”. 1914-2014: 100 Jahre erster Weltkrieg. Österreichisches Staatsarchiv. 2024年2月26日閲覧。
  8. ^ 梶原 2013, p. 69.
  9. ^ 梶原 2013, p. 70.
  10. ^ Dollfuß 1994, p. 51.
  11. ^ Dollfuß 1994, p. 60.
  12. ^ 村松 2006, p. 66.
  13. ^ Walterskirchen 2004, p. 91.
  14. ^ Weissensteiner 1990, p. 314.
  15. ^ Weissensteiner & Weinzierl 1983, p. 155.
  16. ^ Weissensteiner & Weinzierl 1983, p. 197-198.
  17. ^ Gehler, Michael. “Die Lausanner Völkerbundanleihe 1932”. Haus der Geschichte Österreich. 2022年4月5日閲覧。
  18. ^ a b Weissensteiner & Weinzierl 1983, p. 52.
  19. ^ Weissensteiner 1990, p. 232.
  20. ^ "Große Veränderungen im Wiener Gemeinderat und niederösterreichischen Landtag". Neue Freie Presse. 25 April 1932.
  21. ^ Payne 1995, p. 250.
  22. ^ Maderthaner, Wolfgang; Maier, Michaela, eds. (2004), „Der Führer bin ich selbst“: Engelbert Dollfuss – Benito Mussolini Briefwechsel, Wien: Löcker, p. 39, ISBN 3-85409-393-4 
  23. ^ Weber 1935, p. 30-31.
  24. ^ 梶原 2013, p. 72.
  25. ^ Pohanka 2001, p. 143.
  26. ^ Enderle-Burcel, Gertrude, ed. (1984), Protokolle des Ministerrates der Ersten Republik, Abteilung VIII: Kabinett Dr. Engelbert Dollfuß, Band 6, Wien: Österreichischen Staatsarchiv, p. xvii, ISBN 3-7046-0004-0, https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=vLMKAQAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=1934+verboten 2024年6月16日閲覧。 
  27. ^ "239 Tote und 658 Verwundete". Wiener Zeitung, 17. 17 February 1934.
  28. ^ Gedye, G. E. R. (1939), Fallen Bastions: The Central European Tragedy, London: Victor Gollancz Ltd., p. 123, ISBN 978-0571251896 
  29. ^ Bauer, Kurt. “Die Opfer des Februar 1934”. 2022年2月24日閲覧。
  30. ^ Pohanka 2001, p. 146.
  31. ^ Di Michele, Andrea; Gottsmann, Andreas; Monzali, Luciano et al., eds. (2020), Die schwierige Versöhnung: Italien, Österreich und Südtirol im 20. Jahrhundert, Bozen-Bolzano University Press, p. 281, ISBN 978-88-6046-172-8 
  32. ^ Messner 2004, p. 117.
  33. ^ Payne 1995, p. 317.
  34. ^ 1934: Gesetzestexte”. Bundesgesetzblatt für den Bundesstaat Österreich. p. 10. 2022年4月25日閲覧。
  35. ^ 村松 2006, p. 294.
  36. ^ 村松 2006, p. 292.
  37. ^ Göbl, Michael (2008). “Das Staatswappen Österreichs 1934-1938”. Zeitschrift für Genealogie und Heraldik ADLER 6: 284-300. https://austria-forum.org/attach/Wissenssammlungen/Symbole/St%C3%A4ndestaat_Staatswappen/Symbole_Wappen_1934.pdf. 
  38. ^ Pohanka 2001, p. 149.
  39. ^ Richard Lamb, Mussolini and the British, 1997, p. 149
  40. ^ “AUSTRIA: Death for Freedom”. Time. (1934年8月6日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,747609-3,00.html 
  41. ^ “Austria: Death for Freedom”. Time. (1934年8月6日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,747609-5,00.html 
  42. ^ Vienna Tourist Guide: Dollfuss Hietzinger Friedhof”. Hedwig Abraham. 2010年2月6日閲覧。 (includes photographs)
  43. ^ “AUSTRIA: Death for Freedom”. Time. (1934年8月6日). https://time.com/archive/6894848/austria-death-for-freedom/ 2010年5月2日閲覧。 
  44. ^ Pohanka 2001, p. 141.
  45. ^ Klusacek, Christine; Stimmer, Kurt, eds. (1982), Dokumentation zur österreichischen Zeitgeschichte: 1928-1938, 4, Wien: Jugend und Volk, p. 531, ISBN 3714165363, https://www.google.co.jp/books/edition/Dokumentation_zur_%C3%B6sterreichischen_Zeit/YLaMAAAAIAAJ?hl=ja&authuser=1&gbpv=1&bsq=%22Dollfu%C3%9F%22%20151cm 2024年6月21日閲覧。 
  46. ^ Walterskirchen 2004, p. 62.
  47. ^ AUSTRIA: United Support”. Time (1933年10月2日). 2024年6月22日閲覧。
  48. ^ ジョウ・J・ハイデッカー; ヨハネス・レープ 著、芝健介 監修、森篤史 訳『ニュルンベルク裁判1945-46(上)』白水社、2023年、241頁。ISBN 978-4-560-09367-2
  49. ^ a b Dollfuß 1994, p. 159.
  50. ^ Gregory 1935, p. 246.
  51. ^ Holba, Johannes: “DC2 - das österreichische Regierungsflugzeug”. Pfarre Aspern. 2024年6月22日閲覧。
  52. ^ Gregory 1935, p. 223.
  53. ^ Ernst Karl Winter (1956), Christentum und Zivilisation, Wien: Amandus Verlag, p. 384 .
  54. ^ Messner 2004, p. 36.
  55. ^ ポール・ホフマン 著、持田鋼一郎 訳『ウィーン: 栄光・黄昏・亡命』作品社、2014年、288頁。 

参考文献[編集]

  • 梶原克彦『オーストリア国民意識の国制構造: 帝国秩序の変容と国民国家原理の展開に関する考察』晃洋書房、2013年。ISBN 978-4-77102444-1 
  • バーバラ・ジェラヴィッチ 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化: ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年。ISBN 4634656000 
  • エンマリヒ・タロシュ; ヴォルフガング・ノイゲバウアー 著、田中浩 訳『オーストリア・ファシズム: 1934年から1938年までの支配体制』未来社、1996年。ISBN 978-4624300906 
  • 細井保『オーストリア政治危機の構造: 第一共和国国民議会の経験と理論』法政大学出版局、2001年。ISBN 978-4-588-62510-7 
  • 村松惠二『カトリック政治思想とファシズム』創文社、2006年。ISBN 4-423-71065-X 
  • 矢田俊隆; 田口晃『オーストリア・スイス現代史』山川出版社、1984年。ISBN 4634422506 .


  • Brook-Shephard, Gordon (1997), The Austrians: a thousand-year odyssey, New York: Carroll & Graf Publishers, ISBN 978-0-7867-1102-4 .
  • Dollfuß, Eva (1994), Mein Vater: Hitlers erstes Opfer, Wien/München: Amalthea, ISBN 3-85002-354-0 .
  • Gregory, John D. (1935), Dollfuss and his Times, London: Hutchinson .
  • Messner, Johannes (1935), Dollfuss, London: Tyrolia .
  • Messner, Johannes (2004), Dollfuss: An Austrian Patriot, Norfolk, VA: IHS Press, ISBN 978-1-932528-36-7 .
  • Payne, Stanley G. (1995), A History of Fascism 1914-1945, Madison: University of Wisconsin Press, ISBN 0-299-14874-2 
  • Pohanka, Reinhard (2001), Attentate in Österreich, Graz: Styria, ISBN 3-222-12875-8 .
  • Tautscher, Anton, ed. (1935), So sprach der Kanzler: Dollfuss' Vermächtnis. Aus seinen Reden., Wien: Baumgartner .
  • Walterskirchen, Gudula (2004), Engelbert Dollfuß: Arbeitermörder oder Heldenkanzler, Wien: Molden, ISBN 3-85485-112-X .
  • Weber, Edmund (1935), Dollfuß an Österreich: Eines Mannes Wort und Ziel, Wien: Reinhold Verlag .
  • Weissensteiner, Friedrich (1990), Der ungeliebte Staat: Österreich zwischen 1918 und 1938, Wien: Österreichischer Bundesverlag, ISBN 3-215-07054-5 .
  • Weissensteiner, Friedrich; Weinzierl, Elika, eds. (1983), Die österreichischen Bundeskanzler: Leben und Werk, Wien: Österreichischer Bundesverlag, ISBN 978-3215046698 .


  • Bußhoff, Heinrich, Das Dollfuß-Regime in Österreich (Berlin: Duncker & Humblot, 1968)
  • Carsten, F. L., The First Austrian Republic 1918-1938 (Cambridge U.P., 1986)
  • Dollfuß, Engelbert, Dollfuß schafft Arbeit [Pamphlet] (Heimatdienst, 1933)
  • Dreidemy, Lucile: Der Dollfuß-Mythos. Eine Biographie des Posthumen. Böhlau, Wien 2014, ISBN 978-3-205-79597-1.
  • Ender, D, Die neue österreichische Verfassung mit dem Text des Konkordates (Wien/Leipzig: Österreichischer Bundesverlag, 1935)
  • Höhne, Heinz, Zollin; Barry, Richard (2001), The Order of the Death's Head: the Story of Hitler's SS, Penguin Books ISBN 0-14-139012-3
  • Luksan, Martin, Schlösser, Hermann, Szanya, anton (Hrsg.): Heilige Scheine – Marco d’Aviano, Engelbert Dollfuß und der österreichische Katholizismus. Promedia, Wien 2007, ISBN 978-3-85371-275-7.
  • Maass, Walter B. Assassination in Vienna, Charles Scribner's Sons, New York
  • Maleta, Alfred, Der Sozialist im Dollfuß-Österreich (Linz: Preßverein Linz, 1936)
  • Moth, G., Neu Österreich und seine Baumeister (Wien: Steyrermühl-Verlag, 1935)
  • Naderer, Otto: Der bewaffnete Aufstand: der Republikanische Schutzbund der österreichischen Sozialdemokratie und die militärische Vorbereitung auf den Bürgerkrieg (1923–1934) (= Hochschulschriften), Ares, Graz 2005, ISBN 978-3-902475-06-0 (Dissertation Universität Salzburg 2003, 384 Seiten).
  • Österreichischer Bundespressedienst, Der Führer Bundeskanzler Dr. Dollfuß zum Feste des Wiederaufbaues 1. Mai 1934 (Österreichischer Bundespressedienst, 1934)
  • Hans Schafranek: „Sommerfest mit Preisschießen“. Die unbekannte Geschichte des NS-Putsches im Juli 1934. Czernin, Wien 2006, ISBN 3-7076-0081-5.
  • Sugar, Peter (ed.) Native Fascism in the Successor States (Seattle 1971)
  • Winkler, Franz, Die Diktatur in Oesterreich (Zürich/Leipzig: Orell Füssli Verlag, 1935)


外部リンク[編集]

公職
先代
カール・ブレシュドイツ語版
オーストリア首相
第14代:1932年 - 1934年
次代
クルト・シュシュニック
オーストリア外務大臣
1932年 - 1934年
次代
シュテファン・タウシッツドイツ語版
先代
アンドレアス・ターラードイツ語版
オーストリア農林大臣
1931年 - 1934年
次代
エルンスト・シュターレンベルク