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利用者:れいな0913/sandbox

目次 ・建設者 ・概要 ・牛込見附跡の歴史 ・牛込見附跡の構造 ・交通アクセス ・関連項目 ・リンク

建設者

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蜂須賀忠英(はちすかただひで) 1611年〜1652年。 江戸時代前期の大名で、阿波徳島藩の2代目藩主。蜂須賀至鎮(よししげ)の長男である。大阪城普請手伝いの後に、江戸幕府3代将軍徳川家光の侍従となる。彼の幼名は千松丸。その後、阿波守となった。

概要

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牛込見附跡とは、東京都千代田区富士見に所在する外郭跡。 建設者である蜂須賀忠英(1611年4月〜1652年5月11日)はこれを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻んだものが保存されていた。 また、濠が開かれる前は広大な草原であり、両側は「番町方」(千代田区方面)と「牛込方」(新宿方面)と呼ばれている。 災害や老朽化に伴い、2013年当時の橋は平成8年に付け替えられたものになっている。

歴史

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1639年(寛永16年)徳島藩初代藩主である蜂須賀忠英らによって築かれた。 上州道に通じる江戸城外郭門のひとつ。 敵の侵入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれた。江戸城には俗に三十六見附と言われる多くの見附があった。 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時には見事であったと伝えられている。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されたが、牛込見附では道を挟んだ両側に石垣が残され、当時の面影を留めている。 最初に建設された橋は1636年(寛永13年)に外濠が開かれた際に造られた。 現在はJR飯田橋駅西口に、早稲田通りを囲む2つの石垣が現存している。

構造

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門の左右の壕の高低差をなくすため、地形によって旧土塁土を走らせたり台地の中腹斜面を作り、とおした。 桝形は明治になって破壊されたが両側の石垣の一部は残された。外郭の門では唯一の場所であるが牛込橋から見る石垣と、堀の内側の富士見町教会から見る石垣では表面の模様に違いがあるがこれは石の形と積み方の影響である。 使用する石(安山岩)の積み方は切石の布積。石は大型切石・築石も吟味されている。刻印、矢穴が多く条線加工がある。 二つの門を直角に配置する「枡形門」という形式をとった構造になっていた。 牛込門は内側の田安門からくる道とつながっている。

交通

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JR線飯田橋駅から徒歩2分、地下鉄線飯田橋駅から徒歩5分 

関連項目

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・牛込橋 ・市谷見附跡

リンク

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  • 蜂須賀忠英とは - コトバンク (kotobank.jp)

*蜂須賀忠英はどんな人? わかりやすく解説 Weblio辞書 *スポット(牛込見附跡)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda (visit-chiyoda.tokyo) *牛込見附跡と牛込橋|東京 神楽坂 ガイド (fc2.com) *http://kagurazaka.yamamogura.com/tag/牛込見附跡/https://cmeg.jp/a/castles/2115 *鈴木啓『図説江戸城の石垣』歴史春秋出版、二〇一三年 *鈴木謙一『江戸城三十六見附を歩く‐大江戸散策読本』わらび書房、二〇〇三年