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利用者:やちむん/壺屋焼

近世琉球

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1609年、琉球は薩摩島津藩の支配下に入る。1616年尚寧王は世子尚豊を通して、朝鮮陶工、一六(いちろく、? - 1638年。唐名・張献功、仲地麗伸。張氏崎間家元祖)、一官(いっかん)、三官(さんかん)の3名を薩摩より招聘して、湧田(現・那覇市泉崎付近)で陶器を作らせた。これが湧田焼の始まりである。

また読谷村喜名でも、今日「喜名焼」と呼ばれる古窯があり、1670年頃、荒焼を主体とした陶器が盛んに生産されていた。康煕9年(1670年)の銘の入った喜名焼の厨子甕が発掘されている。喜名焼では水甕、酒甕といった大型のものから油壺までいろいろな陶器が作られていた。一説には南蛮焼はここから始まったという[1]。他に知花窯(現・沖縄市知花)や宝口窯(現・那覇市首里)といった古窯も知られている。

1670年には、平田典通に派遣して赤絵を学ばせるなど、現在の中国方面からの技術導入も行われた。1682年尚貞王の時代に、湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に統合して、新しい窯場が誕生した。これが現在の壺屋(つぼや、琉球方言でチブヤ)焼の草創である。その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。

また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。ただし、研究者の間でも「壺屋焼」の存在自体が知られておらず、「備前焼」「南蛮焼」として博物館などに展示されている例があるとの指摘(小田静雄)もある[2]

  1. ^ 「喜名焼」『沖縄大百科事典』上、854頁参照。
  2. ^ 小田静雄「琉球産泡盛陶器(壺屋焼)の交易」(江戸遺跡研究会 編『江戸時代の名産品と商標』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-03446-3 所収)