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利用者:のりまき/長期作業室

位置と環境

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別子銅山は愛媛県東部の四国山地中にあり、主たる鉱床として別子本山、余慶、筏津、積善の4鉱床、そして支山としては基安・黒滝鉱床、西之川鉱床があった。別子本山、余慶、筏津、積善の4鉱床はJR四国予讃線新居浜駅から南東から南南東方向に約10キロメートルから15キロメートルの四国山地にあり、全て愛媛県新居浜市内である。各鉱床の露頭は四国山地の東西約8キロメートルの範囲、標高660メートルから1300メートル付近に分布しており、別子本山鉱床西部の一部を除き、銅山川流域となる。なお別子本山鉱床西部の一部は国領川の流域である[1]

また別子銅山の支山であった基安・黒滝鉱床、西之川鉱床はともに西条市内の四国山地にあり、基安・黒滝鉱床は伊予西条駅の南南東約16キロメートル、西之川鉱床は伊予西条駅の南南西約15キロメートルの場所にある[2]

別子銅山では総計約72.5万トンの銅が産出されたが、うち約67万トンあまりは別子本山鉱床から産出された[3]。別子本山鉱床は赤石山系の銅山越付近に総延長約1800メートル、幅約2.5メートルの露頭がある[4]。露頭の標高は1150メートルから1300メートルと高く、1690年元禄3年)の銅山の発見後に形成された鉱山町は標高約1200メートルという文字通り山の上に建設された[5]

別子本山鉱床は標高1000メートルを超える山地の露頭から、約45度から50度の傾斜角でおおむね北東方向へと潜り込んでおり、海抜マイナス1000メートル以深にまで達していることが確認されている[6]。そのため、鉱床の採掘が進むにつれて採鉱場所の標高が下がっていき、1916年大正5年)には標高約750メートルの東平、そして1930年昭和5年)に標高156メートルの端出場へと採鉱の拠点が移動していった。なお、端出場の採鉱拠点は1973年(昭和48年)の閉山まで使用された[7]

地質学的特徴

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鉱床の成因、規模

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別子銅山の各鉱床は、三波川変成帯の中に分布している。別子銅山やその周辺の東西約40キロメートル、南北約20キロメートルの範囲には別子銅山やその支山、そして佐々連鉱山白滝鉱山、下川鉱山といった、同一の成因によると考えられる鉱床が分布している。各鉱床は三波川変成帯の三縄層の主部層、上部層に分布していて、余慶鉱床、下川鉱山など一部を除き主要な鉱床は全て上部層にある[8]

別子銅山を始めとする四国中央部の三波川変成帯内の各鉱床は、キースラーガー鉱床と呼ばれる種類の鉱床である。キースラーガー鉱床とは主構成鉱物が黄鉄鉱、磁硫鉄鉱で、中に黄銅鉱を含む緻密で塊となった鉱石が母岩内に層状に分布する鉱床である。キースラーガーについては母岩と鉱床が同時に形成されたのか、それとも母岩の形成後に鉱床が出来たのかが論争となっていたが、最終的には原鉱床は海底の熱水噴出孔で形成されたものであると考えられるようになった。つまり母岩も鉱床も海底で形成されたという母岩、鉱床の同時形成説が定説となっている[9]

別子銅山の場合も、中央海嶺の熱水噴出孔で形成された原鉱床を含む太平洋プレートが、白亜紀に東アジアの東縁にある海溝に沈み込む際に陸側である日本列島に付加した、いわゆる付加体の一部であると考えられている[10]

別子銅山の各鉱床、そして佐々連鉱山、白滝鉱山、下川鉱山など、四国中央部の三波川変成帯内のキースラーガー鉱床から産出された銅は、総計約88万トンであると推定されており、これは日本最大のキースラーガー鉱床群である。中でも67万トンあまりの銅を産出した別子本山鉱床が圧倒的といえる規模であった[11]

変成作用、褶曲とその影響

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白亜紀に日本列島に付加された別子銅山の原鉱床は、付加後、地下約30キロメートルの高温、高圧環境下で変成作用を受け、キースラーガー鉱床となっていったと考えられている。その後地下深くで形成されたキースラーガー鉱床を含む三波川変成帯は上昇を始める。この上昇時の変形によって別子本山鉱床の深部に逆断層や、断層活動を伴う構造運動によって鉱脈が押しつぶされるないし削り取られることによって形成された、くいしめ帯と呼ばれる鉱床の幅が削られている部分が生まれたと見られている。この鉱床深部の逆断層やくいしめ帯は、別子銅山の末期の経営に深刻な影響を与えることになった[12]

その一方で、この鉱床の上昇時の地殻変動に伴い、別子本山鉱床の上部に銅分が移動した可能性が指摘されている。江戸時代に稼行された地上の露頭に近い別子本山鉱床の浅部では、黄銅鉱、斑銅鉱の高品位鉱が広く分布していたと推定されている。明治以降に採掘された鉱石の銅品位が平均2パーセントから5パーセントであったのに対し、浅部の高品位鉱は銅数パーセントから10パーセント、そして鉱石の硫黄分も比較的低いという優良な銅鉱石であり、江戸時代、別子銅山が休山することなく稼行し続けられたのは、鉱床浅部に広がっていた優良鉱のおかげであった[13]

地中深くから鉱床が地表近くまで上昇した後、大規模な褶曲活動が起きたと考えられている。褶曲軸は東西方向であり、別子鉱床群(別子本山、余慶、筏津、積善の各鉱床)は富郷向斜の南側、そして基安・黒滝鉱床、西之川鉱床は中七番背斜の南側に位置している[14]

そして新第三紀中新世中ごろの約1500万年前、別子本山鉱床下部に高温の流体が短い期間流入することによって、鉱床中の黄鉄鉱が熱変成を起こして磁硫鉄鉱化した[† 1][15]。この別子本山鉱床下部に見られる黄鉄鉱の磁硫鉄鉱化は、硫化鉄鉱の硫黄分低下をもたらし、別子銅山末期の経営状態悪化の一因となった[16]

各鉱床の概要

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別子本山

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別子本山鉱床は三縄層上部層の最下位に分布している。赤石山系の銅山越周辺の標高1150メートルから1300メートルの稜線付近に、約1800メートルの長さで露頭が分布しており、鉱床の幅はおおむね2.5メートルで板状をしている。つまり別子本山鉱床は長さ約1800メートル、幅約2.5メートルの薄い板状となっている。そして地表上では長さ約1800メートル、幅約2.5メートルの薄い板状の鉱床が、海抜マイナス1000メートル以深という深さにまで潜り込んでいる。潜り込む角度は地表近くでは約45度であり、深くなるにつれて60度から70度と傾斜がきつくなるが、鉱床深部では60度以下になり再び傾斜が緩やかになる。なお、別子銅山末期に行われた深部鉱床の延長部のボーリング調査によれば、海抜マイナス1570メートル付近で別子本山鉱床の延長部と判断される鉱染が確認されていて、傾斜は25度から30度と緩くなっている[17]

鉱床は地表近くではほぼ東側に向かって潜り込むが、深くなるにつれて潜り込む方角は東側から北側へと向きが変わる。この地表近くで東側に向けて鉱床が潜り込んでいくという性質によって、別子銅山の開発開始当初、赤石山系の分水嶺である銅山越の北西部に当たる西条藩領内にあった立川銅山の鉱床は、分水嶺の南東側に当たる天領の別子銅山側に向かって潜り込むことになる。つまり掘り進むにつれて立川銅山側の鉱床は分水嶺を超えて別子銅山側に行ってしまうことになるわけで、これは別子銅山の開発に携わることになった住友にとって極めて大きな幸運であった[18]

鉱床の状況は上部が優良で下部に向かうにつれて悪化していく。採掘可能の鉱床の長さは標高1000メートルを超える鉱床上部では約1600メートルに及ぶが、標高約200メートル付近では約1100メートルとなる。下部鉱床では鉱床の一部の品位が下がって採掘に適さなくなり、鉱床内で採掘可能な部分がバラバラに分布するようになる。海抜マイナス500メートル付近の鉱床では採掘可能の鉱床の長さは約750メートル、そして海抜マイナス950メートルでは約300メートルにまで減少する[19]。なお、別子本山鉱床は最深部では海抜マイナス1020メートル地点まで掘り進められた。つまり赤石山系の1150メートルから1300メートルの稜線付近に分布している鉱床の露頭から見ると、優に2000メートルを超える深さまで掘り進めたことになる[20]

鉱床の横断面の形状は東側で閉じるV字形をしている。これは一枚の鉱床が褶曲運動の結果、折りたたまれるようにV字形となったとの解釈がある。鉱床内の鉱物は黄鉄鉱を中心として黄銅鉱、斑銅鉱、閃亜鉛鉱磁鉄鉱などが分布している。なお、地表に近い上部の鉱床は高品位の黄銅鉱、斑銅鉱が多かったと考えられている。鉱石の性状は粒度が細かく緻密で硬く、典型的なキースラーガー鉱床の鉱石とされる。なお前述のように鉱床下部では黄鉄鉱が熱変成によるものと考えられる変成作用の影響を受け、磁硫鉄鉱化している[21]

別子本山鉱床は銅山越の北西部に当たる立川銅山では寛永年間(1624年-1643年)の開山と伝えられており、銅山越の南東部に当たる別子側は1691年元禄4年)に採掘が始まった。終掘は1972年(昭和47年)9月である[22]。採掘された鉱石の総量は約2590万トン、生産された銅は67.3万トン余りと推定されている[23]。前述のように別子銅山の主力鉱床であった本山鉱床は下部に向かうにつれて鉱況が悪化していく、具体的には採鉱可能部分の減少、鉱石品位の低下、黄銅鉱の磁硫鉄鉱化、そして断層を伴う構造運動の結果、鉱床が削り取られたくいしめ帯の出現である。下部鉱床の鉱況悪化は鉱山最末期の経営状態の悪化に拍車をかけることになる[24]

筏津

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筏津鉱床は旧別子山村弟地付近の銅山川両岸の標高660メートルから810メートル付近に露頭がある。別子本山鉱床と同じく三縄層上部層に分布している。筏津鉱床の横断面の形状は別子本山鉱床に類似したV字状をしており、やはり一枚の鉱床が折りたたまれることによってV字状となったのではとの仮説がある[25]

稼行可能な鉱床は長さ最大250メートル、幅は平均1.2メートルである。形状は別子本山鉱床と同じく薄い板状をしている。鉱床は露頭部から東側に向かって潜り込んでおり、傾斜は深くなるにつれて次第に緩くなる。上部で最大250メートルあった稼行可能な鉱床の長さは下部に行くに従って減衰し、海抜マイナス470メートル付近で消滅する。また別子本山鉱床で見られた鉱床下部での黄鉄鉱の磁硫鉄鉱化は、顕著なものではないが筏津鉱床でも確認されている[26]

鉱床を構成する鉱物は、主に黄鉄鉱、その他、黄銅鉱、斑銅鉱、閃亜鉛鉱、鏡鉄鉱がある。筏津鉱床については18世紀の泉屋(住友)の文献に既にして銅鉱床として把握されていることが確認されているものの、銅の品位が別子本山鉱床に比べて低く、しかも鉱石内の硫黄分も高いため、江戸期は採算が合わなかったと考えられている[27]。採掘の開始は不確かさが残るが1878年明治11年)と考えられていて、終掘は1973年(昭和48年)3月である。なお別子銅山の閉山は筏津鉱床の採掘終了時となっている[28]。採掘された鉱石の総量は約243万トン、生産された銅は約38.8万トンと推定されている[29]

余慶

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積善

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基安・黒滝

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西之川

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別子銅山の発見と操業開始

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17世紀、日本の各地では銅山の開発が進んだ。江戸時代初期に盛んに採掘された銅山は阿仁鉱山多田銀山のように、それまでは主に金山、銀山として稼行していた鉱山が再開発の結果、銅山となったもの、そして足尾銅山のように新規に開発された銅山があった。別子銅山は足尾銅山とともに当時の新規開発された代表的な銅山のひとつであり、足尾銅山が早期に衰退した後、江戸時代を通じて阿仁鉱山、尾去沢鉱山と並んで、江戸時代を代表する銅山として操業を続けることになる[30]

立川銅山の発見

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別子銅山の開坑は翌元禄4年(1691年)のことである。しかし別子銅山と銅山越の分水嶺を挟んで北側の立川銅山は、同一の別子本山鉱床を採掘しており、別子銅山の開坑以前に採掘が始まっていた。分水嶺の南側である別子銅山は宇摩郡天領であり、一方、北側の立川銅山は新居郡西条藩領内にあった[31]

立川銅山は寛永年間(1624年1643年)に、地元の村人によって採掘が開始されたと伝えられている。立川銅山と別子銅山は同一の鉱床を採掘していたため、後述のようにしばしばトラブルが発生し、同一鉱床を別々の経営主体がそれぞれ採掘を進めていたことは経営上の効率も悪く、宝暦12年(1762年)になって両銅山は経営統合されることになる[32]

発見の経緯と開発許可

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注釈

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  1. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.187では、約2500万年前に酸性深成岩の貫入により、別子本山鉱床の下部が熱変成を起こしたとしている。ここではより新しい日本地質学会(2016)p.82の記述を採用する。

出典

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  1. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.210
  2. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.226
  3. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.221
  4. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.202、住友史料館(2013)p.41
  5. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.202、住友史料館(2013)pp.45-49
  6. ^ 住友史料館(2013)p.41
  7. ^ 住友史料館(2014)pp.199-200
  8. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.221、日本地質学会(2016)p.516
  9. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.221、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.210、住友、末岡、森(2015)p.91、日本地質学会(2016)p.516
  10. ^ 日本地質学会(2016)p.51、p.516
  11. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.221、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.209
  12. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.187、pp.199-201
  13. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.187、p.197
  14. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.187、p.206
  15. ^ 日本地質学会(2016)p.82
  16. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.234
  17. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.231、pp.266-267、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.202、住友史料館(2014)p.41
  18. ^ 住友本社庶務課(1925)p.109、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.201
  19. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)pp.231-232、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.199
  20. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991b)pp.392
  21. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)pp.196-199、住友、末岡、森(2015)p.91
  22. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.248、住友史料館(2013)p.42
  23. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.206
  24. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991b)pp.379-380、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.196
  25. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)pp.236-237、住友金属鉱山株式会社(1991c)pp.191-192
  26. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)pp.236-237、住友金属鉱山株式会社(1991c)pp.189-191
  27. ^ 住友金属鉱山株式会社(1981)p.255、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.190
  28. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991b)p.392、住友金属鉱山株式会社(1991c)p.206
  29. ^ 住友金属鉱山株式会社(1991c)p.206
  30. ^ 住友史料館(2013)p.23
  31. ^ 住友史料館(2013)pp.41-42
  32. ^ 住友史料館(2013)p.41、pp.51-52、p.56

参考文献

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  • 海原亮「別子銅山の文政大涌水と江戸中橋店」『住友史料館報』46、住友史料館、2002
  • 小葉田淳「別子銅山史の諸問題」『日本学士院紀要』44(1)、日本学士院、1989
  • 住友金属鉱山株式会社「別子ー佐々連を中心としたキースラーガー鉱床と鴻之舞含金石英脈鉱床に対する探査の展開」日本鉱山地質学会、1981
  • 住友金属鉱山株式会社「住友別子鉱山史(上巻)」、住友金属鉱山株式会社、1991a
  • 住友金属鉱山株式会社「住友別子鉱山史(下巻)」、住友金属鉱山株式会社、1991b
  • 住友金属鉱山株式会社「住友別子鉱山史(別巻)」、住友金属鉱山株式会社、1991c
  • 住友本社庶務課「別子開坑二百五十年史話」株式会社住友本社、1941
  • 住友史料館「住友の歴史 上巻」思文閣出版、2013、ISBN 978-4-7842-1703-8
  • 住友史料館「住友の歴史 下巻」思文閣出版、2014、ISBN 978-4-7842-1762-5
  • 住友修史室「泉屋叢考 第13輯(別子銅山の発見と開発)」、住友修史室、1967
  • 住友修史室「泉屋叢考 第17輯(住友と立川銅山)」、住友修史室、1977
  • 住友芳夫、末岡照啓、森芳秋、高橋純一、村山順一郎、廣川守「江戸期別子銅山鉱石の性状調査」『泉屋博古館紀要』31、2015
  • 武田晴人「日本産銅業史」東京大学出版会、1987、ISBN 4-13-046032-3
  • 新居浜市「新居浜市史」新居浜市史編纂委員会、1962
  • 新居浜市「新居浜産業経済史」新居浜市、1973
  • 日本地質学会「日本地方地質誌7 四国地方」朝倉書店、2016
  • 安国良一「買請米の割賦と廻送1」『住友史料館報』27、住友史料館、1996
  • 安国良一「買請米の割賦と廻送2」『住友史料館報』28、住友史料館、1997
  • 安国良一「近世別子銅山の御用米銀貸付」『住友史料館報』29、住友史料館、1998
  • 安国良一「近世別子銅山の収支構造」『住友史料館報』31、住友史料館、2000
  • 安国良一「一八・一九世紀の通貨事情と別子銅山の経理」『住友史料館報』32、住友史料館、2001
  • 安国良一「別子銅山の損益と泉屋大坂本店」『住友史料館報』33、住友史料館、2002
  • 安国良一「別子銅山と天保・嘉永期の経営危機」『住友史料館報』34、住友史料館、2003a
  • 安国良一「別子銅山の開発と山林利用」『社会経済史学』68(6)、社会経済史学会、2003b