利用者:のりまき/第十二作業室
日中戦争と陸海軍からの戦争画制作委嘱
[編集]1930年代、美術の大衆化が進む中で絵画愛好家が増え、官展や公募展といった展覧会は活況を呈するようになった。しかしその一方で、展覧会における評価を意識し過ぎた均一化した制作が多くなる。その上、1930年代後半になると展覧会の観客動員数が大幅に減っていく。1930年代後半、美術界は閉塞感に覆われるようになった[1]。
このような中で1937年夏、日中戦争が始まる。開戦後多くの画家たちは先を争うように従軍を希望する。当初、軍部は殺到する画家たちの従軍希望を持てあましていた。実際問題、本格的戦争に突入したての状況では戦闘要員ではない画家の従軍に配慮することは困難であった。当初軍部は画家の従軍に制限を加えたものの、1938年春には数十名の画家が中国の戦場に向かった[2]。
日中戦争は軍部の当初のもくろみに反し長期戦の様相を呈し始めた。すると陸海軍は長期戦の中で画家たちの従軍活動に本格的に介入するようになった[1]。まず動いたのは陸軍であった、1938年5月、陸軍は上海の中支派遣軍報道部が「今事変の戦争画を後世に伝えるため」に中村研一、朝井閑右衛門、向井潤吉、小磯良平ら8名の画家を招聘した。派遣された画家たちは日中戦争の上海戦から南京戦を題材とし、7月には完成した[2]。これらの絵画は翌1939年6月に陸軍省に献納された[3]。その後7月の「第一回聖戦美術展」に展示され、やがて最初の「作戦記録画」と呼ばれるようになった[4]。
陸軍から一歩出遅れた形となった海軍は1939年9月、海軍省軍事普及部による中支、南支への画家派遣企画を立ち上げる。海軍は石井柏亭、藤田嗣治、中村研一ら6名の洋画家に派遣を要請し、うち5名の画家が要請に応じ従軍して絵画を制作する[5]。1938年6月には日中戦争の一つの節目とされる武漢作戦が始まっており、内閣情報部主導で林芙美子、菊池寛、吉川英治、西條八十、古関裕而らの日中戦争従軍が行われた。海軍による画家の戦場派遣はそのような流れの一環であった[5]。
1937年5月、海軍協会主催、海軍省後援のもと、海洋美術会展が開催され、6月には海洋美術会が発足する。1938年4月には従軍画家たちによる大日本陸軍従軍画家協会が設立され、東京、大阪、名古屋などで展覧会を開催する[3]。大日本陸軍従軍画家協会と海洋美術会の活動は、当初、戦場の様子を絵画作品で観覧者に伝えるものであったが、やがて陸海軍当局から戦争の記録画を制作して後世に残す役割が求められるようになった[3]。
ところで大日本陸軍従軍画家協会の発足の背景には朝日新聞社があった[5][6]。また朝日新聞社は1938年5月に創立50周年を記念して「戦争美術展覧会」を開催した。この展覧会は古墳時代の武具から日露戦争の戦争画までの戦争に関する美術関係の展示を行ったもので、19日間の会期に約68000人の観客を集め成功した。朝日新聞社は戦時体制下において戦争美術が持つ大衆への影響力の大きさを実感することになり、後述の陸軍美術展など戦争美術関連の展覧会に深く関与していくことになる[7]。
従軍画家の意識と時局感
[編集]多くの画家が先を争うように日中戦争の現場に向かったのは、日中の総力戦となったものの戦争目的が見えにくかった日中戦争の特徴が影響したとの説がある。総力戦である以上、国内生産の多くが戦争のために費やされ、多くの兵士が出征していった。しかし戦争目的が不明確であるがゆえに、戦場以外では戦争に参加している意識が薄く、その結果として戦場の兵士のみが総力戦に注力しているかのような意識が日本国内に生まれた。その結果、多くの国民は戦場で戦う兵士たちに罪悪感を感ずるようになり、画家はとりわけ後ろめたさを強く抱いていた。つまり画家の日中戦争従軍は社会に向けての一種の禊行為であった[1]。
また昭和戦前期、画壇は様々な矛盾を抱えていた。明治初年以降、近代絵画は日本の近代国家化の一翼を担わされ、時の政治からの強い影響に置かれていた。その中で官展や帝国美術院では印象派の亜流ともいうべき画風と日本的情緒をミックスさせた作品が賞賛され、画壇における地位上昇に必須の技法となっていた。もちろんこの流れを肯んじない画家たちも少なからずいたものの、そのような画家たちの画業は往々にして日本の現実から浮き上がったものとなった。一方で日本の実情を踏まえて画業を行おうと努力すればするほど、画壇の主流に同化する活動になってしまっていた[8]。
一方、日中戦争開戦後、言論の自由が抑圧され、出版統制が強化された一方で、軍需景気と米価の高騰などによる好景気に支えられ、出版界は空前の好景気となり、これまで都市文化の象徴であった雑誌が農村の隅々まで購読されるようになっていた。好況下のメディアは日中戦争の戦果を喧伝し、農村にまで広まった都市文化を通じ、多くの国民もまた日本国民としてのアイデンティティをより強化し、メディアと国民は歩調を合わせるかの如く戦時体制を支持するようになっていた。画家ら芸術、文化関係者たちはそのような時勢を強く意識して、戦時体制を翼賛する方向へと流されていく。日中戦争期以降、戦争と芸術は相互補完の関係となる[9]。
結果として日中戦争以降、言論界や芸術界では盛んに戦争に関わる言論や作品を発表するようになる[10]。画壇の主流派である官展系の画家はその技法を生かし、一方、在野系の画家たちは現実から遊離した自らの画業からの転換を図るために、戦争画を制作するようになった。こうして様々な矛盾を抱えた画壇もまた、先を争うように戦時体制へとなだれ込んでいく[8]。そして画家と作家らとのコラボ企画によって、あるべき「大日本帝国」文化像を総合的に提示しようという試みもなされた[11]。
作戦記録画の名称誕生
[編集]1940年春、陸軍省情報部は中村研一、小磯良平、宮本三郎ら洋画家9名、川端龍子ら日本画家3名の計12名を従軍させて戦争画を描かせることとした。12名の画家は翌1941年には作品を完成させ、宮中において天覧、台覧がなされた後に7月の第二回聖戦美術展で公開された。一方海軍の方も、1938年9月に派遣した画家の作品を1941年5月の第五回大日本海洋美術展で公開していた[5]。海軍はこの第五回大日本海洋美術展、陸軍の場合は第二回聖戦美術展に出品された、軍の依頼によって描かれた絵画に対して「作戦記録画」との名称が使われるようになった[12]。
作戦記録画の展示
[編集]聖戦美術展
[編集]戦時体制が強化されていく中で、従軍経験者のある画家の個人展、グループ展がしばしば開催されるようになり、美術関係者からの陸海軍への献金活動も活発化する。また1938年には文部省の斡旋、陸軍省、海軍省の協力のもと、画家たちから傷痍軍人慰問用の作品の供出を受け、各地の陸軍病院、海軍病院などに寄贈する。このようにして軍、官、民それぞれが戦時美術に対する関与を深めていった[13]。
1939年4月、石井柏亭らを発起人とし、陸軍情報部の後援のもとで「軍部当局との連絡を密にし、併せて美術家相互の親睦を図り、興亜国策への協力に遺憾なきを期する」ことを目的として、大日本陸軍従軍画家協会を発展的に解消した上で陸軍美術協会が発足する[14]。陸軍美術協会は松井石根を会長、藤島武二を副会長とし、発足直後の1939年7月から陸軍美術協会と朝日新聞社主催、陸軍省後援による陸軍美術展を開催する[15]。
聖戦美術展の開会式には竹田宮恒徳王が参列し、その後も閑院宮載仁親王ら多くの皇族たちが観覧する[16]。聖戦美術展では一般からも多くの作品を公募したが、会場最大の呼び物は1938年5月に中支派遣軍報道部からの招請を受け、中村研一、朝井閑右衛門、向井潤吉、小磯良平らが描き、陸軍省に献納した絵画であった[7]。展覧会は東京での会期終了後、名古屋、京都、大阪などを巡回した後、満州国の大連、奉天、新京、ハルピン、そして朝鮮の京城で開催された。その後札幌、広島、熊本、金沢など日本各地を巡回する。各地の展覧会は熊本で十数万人の観客を記録するなど大勢の観覧客を動員し、展覧会に合わせて出品画家らによる講演会などが開催された[17]。
1941年7月には第二回聖戦美術展が開催され、東京開催の後、日本各地、そして朝鮮、満洲国を巡回する。第二回聖戦美術展では1940年春に陸軍情報部の委嘱によって制作され、宮中での天覧、台覧を受けた作戦記録画に特に注目が集まった[18]。
第二回聖戦美術展までに制作された作戦記録画は日中戦争期の作品である。この頃の作品には敵である中国兵の姿がほとんど見られず、描かれた日本兵の姿の多くが後ろ姿である。また絵画の題材の中に流血や死体が描かれることも少なかった。これは軍当局としては作戦記録画に流血や死体を描いても取り締まるつもりがないことを明言しており、検閲等によるものではないと見られている。これは日中戦争が戦争目的が見えにくい戦争であり、敵である中国を悪と断言するのが憚られる雰囲気があったため、作戦記録画の表現に中国兵の姿や流血や死体といった凄惨な場面が描かれなかったことに繋がったと考えられている。その一方で戦争画としては踏み込み不足であった作品に掛ける一種の保険のような形で、日本を象徴する日の丸が頻繁に書き込まれた[19]。
第二次世界大戦参戦と作戦記録画
[編集]1941年12月、日本は第二次世界大戦に参戦する。これまでの戦争目的がはっきりしない中国との戦いとは異なり、アメリカやイギリスとの戦いは欧米からアジアを解放するという大義が見えやすい戦争であった[20][21]。開戦開始直後の1941年12月、朝日新聞社で今後の陸軍美術展の開催方針について話し合いが持たれた。次年度の作戦記録画の計画が未策定であったため、石井柏亭は中止論を唱えたが、鶴田吾郎は開戦直後で戦果も挙がりつつあるので、今後きっと良い絵画も集められるだろう。中止の判断は早計であり、展覧会も12月8日開催にしてはどうかと提案した[22]。
鶴田のアイデアは朝日新聞社内で検討が重ねられ、1942年3月に陸軍、5月には海軍によるそれぞれ16名の画家、彫刻家の派遣計画が公表された[23][24]。派遣された画家らが制作した作戦記録画は、宮中での天覧、台覧を経て1942年12月に開戦1周年を記念して開催された第一回大東亜戦争美術展に展示された。なお陸軍と海軍の作戦記録画が一堂に展示されたのはこの第一回大東亜戦争美術展のみであり、その後は陸軍に関しては陸軍美術展、海軍は大日本海洋美術展、第二回大東亜戦争美術展と、別々の展覧会に展示されることになる[23]。
大義が明確であった第二次世界大戦時の作戦記録画では、日中戦争時の作戦記録画では死体や流血場面が避けられていたものが、例えば日本兵が戦う流血場面や敵である米兵の死体がタブーなく描かれるようになった[23]。
アメリカでの展覧会計画と作戦記録画の蒐集
[編集]終戦時、それまで各地で巡回展が開催されていたこともあって、作戦記録画の所在は分散していた。もちろん空襲による焼失や終戦前後の混乱により行方が分からなくなった絵画もあった[25]。絵画の中にはソウルで保管されていたものもあった、前述のように作戦記録画の巡回展は朝鮮や満洲でも行われており、巡回展開催に備えて終戦時にソウルにも作戦記録画が保管されていたのである[26]。
ソウルに保管されていた作戦記録画は、終戦後さっそくその扱いが問題となる。朝鮮軍報道部長の長屋尚作少将は、部下の山田新一に取扱いを相談した。長屋の意見は焼却処分であったが山田は強硬に反対し、作戦記録画を秘密裏に隠すことを主張した。結局朝鮮軍の引き揚げに合わせて報道部もソウルを去ったため、扱いは山田に一任されることになった。山田は親交があった朝鮮人の美術関係者の協力のもと、作戦記録画を分散させた上で秘密裏に隠して1945年10月末に日本へ引き揚げた[26]。
終戦後、日本は連合国の占領下となり、美術部門もGHQの下部組織であるCIEの指導下に入った。美術部門を担当したのはCIEの中の美術記念物課(ARTS AND MONUMENTS DIVISION)であった[27]。またGHQ内には工兵司令官部(OCE)にも従軍画家により構成された戦闘美術家部隊(COMBAT ARTISTS SECTION)があった。GHQには2つの美術関連部門があったわけで、まずOCEの戦闘美術家部隊が中心となって作戦記録画の蒐集が進められることになった[28]。
作戦記録画の蒐集
[編集]第二次世界大戦終了後、戦争省内部では、戦闘美術家部隊所属の従軍画家の作品を集めた展覧会を開催する構想が練られていた。この展覧会の構想の中には、アメリカ以外の国々の戦争画も併せ展示するものがあった[29]。この構想に基づいて、戦闘美術家部隊では日本と中国で戦争画の蒐集を行う計画が立てられた[30]。
戦争省の構想は、メトロポリタン美術館での「日本征服展」へと発展する。戦闘美術家部隊所属のバース・ミラーは藤田嗣治と旧知の仲であった。1945年10月末の段階でミラーは藤田と接触して、戦争画をアメリカ陸軍の手で蒐集し、アメリカ国内で展示する計画を持ち掛けた。藤田は自らの作品が世界の大舞台に乗ることになると考えてこの計画に大乗り気となり、さっそく戦争画家たちに声をかけ、作品蒐集の承諾を取り始める[31]。
1945年11月8日付で、戦争省の歴史的財産局(HISTORICAL PROPERTY SECTION)はメトロポリタン美術館で1946年1月初旬から開催予定の「日本征服展」出品用に、日本の戦争絵画類を蒐集して送れとの指令を出した[32]。アメリカ側は陸軍美術協会で積極的に活動していた藤田嗣治と住喜代治に戦争画蒐集を委嘱し、その後山田新一にも委嘱した[25]。1945年11月までは藤田が保管されていた戦争画の蒐集のために各地を廻っていたことが確認できるが、その後、藤田の蒐集活動は停止する[33]。
藤田嗣治への反発
[編集]1945年10月14日、朝日新聞紙上に「美術家の節操」という宮田重雄の投書が掲載される。宮田は藤田嗣治、猪熊弦一郎、鶴田吾郎を名指しで、戦時中陸軍美術協会を牛耳り、ファシズムに便乗して甘い汁を吸っておきながら、彼らは戦後になると厚かましくも進駐軍にすり寄っており、こうした言動は美術界の面汚しであると激しく非難した[34]。
10月25日、今度は藤田嗣治と鶴田吾郎の反論が朝日新聞紙上に掲載された[35]。その後宮田からは藤田らは最も軍国的色彩が強かったではないかとの再反論がなされた[36]。戦時中、著名な画家として精力的に作戦記録画を制作し、作品内容もインパクトが強かった藤田には戦後、戦時中の言動に対する非難が集中する[37]。その上、戦後になるとGHQに急接近する姿は、反発を増幅させることになった[38]。
このような中で藤田に対して戦争責任を問う声が高まっていく[38]。藤田の戦争画蒐集からの撤退はそのような情勢が影響したと考えられている[33]。
取り扱いの迷走とアメリカ移送
[編集]マッカーサーの疑念
[編集]各地で保管されていた戦争画は徐々に集まってきたが、1946年1月初旬に開催を予定されていた展覧会には間に合いそうもなかった。結局「日本征服展」への出品は断念することになったが、戦争省側は集めた戦争画を送るよう改めて指示を出した。そして1946年1月10日頃には、第一陣をアメリカへ移送する予定となった[39]。
この段階で大きな問題が浮上した。1946年の1月初め、ダグラス・マッカーサーがOSEの戦闘美術家部隊が行っている戦争画蒐集について把握した。マッカーサーはこの蒐集作業の是非に大きな疑問を抱いたのである。まず海軍や海兵隊など、陸軍以外のアメリカ軍内のコンセンサスをきちんと取って進められているのかについて疑問を持った。また他の連合国の意向を確かめることなく、アメリカ単独で絵画蒐集を行って良いのかという点についても危ぶんだ[39]。その上で、戦争画に美術的価値があるとするならば、日本占領軍の基本方針では文化財として保護の義務を負う。逆に占領に障害となるプロパガンダであるならば廃棄処分が妥当である。また賠償対象の戦利品であれば連合国内で分配の手続きを行うべきであると判断した。いずれにしてもこの段階で蒐集した戦争画をアメリカへ移送するのは無理筋であった[40]。
マッカーサーとしては取り扱いに頭を悩ませ、いったんは破壊するよう指示をしたとも伝えられている。しかしOCE部隊長は破壊に反対し、日本人の手から離すことを進言した[41]。結局、1946年2月初めに、マッカーサーは蒐集作業の続行とアメリカへの移送の保留、そして各絵画の価値を見積もるよう指示を出した[42]。
コレクションの完成と展覧会開催
[編集]集められた戦争画は東京都美術館に集められていた。1946年2月後半の段階で東京都美術館内の3室が保管スペースとして充てられていた[43]。5月には山田新一とアメリカ側の担当者がソウルへ行って、先に秘密裏に隠した作戦記録画を回収した。このソウルからの回収後、東京都美術館の5室が戦争画の保管場所となった[43]。結局集められた絵画は150点から160点であったと考えられる[44]。その中の約8割が作戦記録画であった[45]。
ソウルからの回収作業が終わる頃には戦闘美術家部隊は規模を縮小していた。その後1946年8月から9月にかけて、占領軍関係者対象に蒐集した絵画の展覧会が開催された。展覧会後、戦闘美術家部隊は完全にアメリカへ撤収する。その後、絵画の取り扱いはCIEの手に委ねられることになった[46]。
各国からの要求
[編集]1946年2月半ば、オーストラリアの陸軍省は、アメリカが日本の戦争画を蒐集しているとの情報を聞きつけたとして、それら作品の一部はオーストラリアと深い関係があり、オーストラリアに関係が深い日本の戦争画を分配するようアメリカ側に要求するべきであるとの文書を出した[47]。同年5月にはオーストラリア側は自国に関わりがある戦争画の入手に本格的に取り組み出し、情報収集に努め、アメリカ側への働き掛けも始まった[48]。
オーストラリア側からの要求にアメリカは頭を悩ませた。前述のようにアメリカ側としても蒐集した戦争画を独断で処分して良いものなのか、判断に迷っていた。結局オーストラリア側からの要求について、絵の最終的な取り扱いが決まるまで保留にしておくことになった。その後もオーストラリアは絵の分配要求を続け、山口華楊の「基地に於ける整備作業」と、具体的な絵画名を挙げて要求したものの、結局オーストラリアの要求について考慮する旨の回答があったきりで、日本の戦争画が引き渡されることはなかった[49][50]。
1947年10月、今度はオランダが戦争画の配分を要求してきた。オランダは小磯良平の「カリジャティ会見図」の分配を求めていたが、この要求に対してもアメリカ側からはやはり考慮するとの回答のみで絵が渡されることはなかった[51][52]。またフィリピンも日本の戦争画の分配を要求したとの話も伝わっている[53]。いずれにしてもアメリカはそれらの要求に応えることはなく、いったん蒐集された戦争画の話題は途絶えた[52]。
アメリカへの移送
[編集]1947年10月以降、蒐集された戦争画は東京都美術館に保管されたまましばらくの間、動きが無かった。動き出したのは1950年のことであった。毎日新聞社が1947年から東京都美術館で開催していた「美術団体連合展」が年々その規模を拡大していった結果、1950年5月に開催予定となった第4回展では美術館内で展示スペースを確保することが課題となったのである[54]。そこで注目されたのが東京都美術館の5室を占拠した形となっていた戦争画であった。1950年4月、毎日新聞社はCIEに対して問題の5室の解放を嘆願した。ほぼ同様の内容の嘆願書が日本美術家連盟から出され、また東京都美術館側からも5室の解放の要望書が出された[55]。ほぼ同時期に3団体から同様の要望が出されたのは偶然のことではなく、かねてから東京都美術館の5室が戦争画で占拠されている状況に不満を募らせていて、機を捉えて共同で要望に及んだものと考えられる[56]。
要望を受け、CIEは美術の専門家による保管中の戦争画の調査を進めた。調査の結果、保管されている戦争画の芸術的価値は低く、保管状況も望ましくない上に、現状の東京都美術館の展覧会開催状況を考えても現状の保管体制の継続は問題があると判断する[56]。しかし戦争画の取り扱いの決定は先送りされ、1950年の段階では5室の占拠状態は変わらなかった[57]。
翌1951年4月、今度は毎日新聞社と日本美術家連盟が同時にマッカーサー宛に東京都美術館の5室の解放を嘆願した。この嘆願はマッカーサーの解任と重なり、マッカーサー自身が読むことは無かった。しかし今度はGHQ側も動いた。日本との平和条約締結が課題となってきた中で、問題を放置し続けることのデメリットが大きくなっていた[58]。アメリカ側はまず美術専門家が美術的に価値が低いと判断したことを根拠として、戦利品としての扱いが適当であるとした。しかも内容的に軍国主義的なプロパガンダ絵画が多く、平和条約締結後の日本に残しておけば、戦争を顕彰する博物館や美術館に展示されることが想定され、問題が大きいと判断した。更にソ連、中国との戦闘行為も題材となっている以上、アメリカ以外の国との分配は現実的に難しく、政治的にも悪影響をもたらすことが懸念されるとした[59]。
結局、蒐集した絵画は7月26日にアメリカへと移送された[52]。オーストラリア、オランダから出されていたことが確認できる戦争画の分配要求については、事実上たな晒し状態のままアメリカ側は最終回答を行わなかったと考えられる[60]。
日本への返還要求
[編集]アメリカへ移送された絵画はいったんワシントンで保管された後、数か所に分けられて保管されることになった[61]。日本側から1956年に最初の返還要求があったというが、1961年の日米修交100周年に際して、日本のジャーナリズムの中から戦争画返還の議論が起きた[61][62]。
1961年、アメリカ陸軍法務総監が接収した日本の戦争画についての法的見解を明らかにした。それによると接収した絵画は例外なく軍国主義的で政治的に不愉快な性質を持つものであると判定されており、国際法的に見ても接収は合法であると主張した。従って絵画の所有権はアメリカ側にあり、価値が無いとものであると認められない限り、アメリカ議会の承認なくして日本への返還は出来ないとした。その一方で一時的な貸し出しは法的に問題ないと判断した[62]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 河田(2007)、p.154.
- ^ a b 河田(2007)、pp.153-154.
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