コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:のりまき/沖縄関連4

明治維新と琉球

[編集]

江戸幕府と琉球

[編集]

近世の琉球王国は、日本と中国双方に対しての二重の君臣関係を結び、日本と中国の間でバランスを取りながら国家体制を構築していく。琉球王国は日本、中国に対する「お勤め」をきちんとこなし、その中で国としての評価を高める国家戦略を採っていた。その中で薩摩藩幕府の臣下であるという共通の立場もあって、単に琉球王国の支配者、監督者に止まらず、幕府に対するお勤めや琉球王国の評価を高める点では協力者でもあった[1]。実際、における琉球の朝貢国としての席次の高さは、琉球を指揮監督する薩摩藩、そして幕府の「ご威光」を高めるものであると認識されており、薩摩藩は幕府における琉球の立場を高める支援を行っていた[2]

この日中両国間でバランスを取るという琉球王国の体制は、近世末期まで比較的順調に機能していた[3]。日本と中国の間でバランスを取っていた琉球王国は日中関係という視点から見ると、琉球王国が一種の緩衝地帯としての役割を果たし、両国関係のクッションのような役割を果たしていた[4]

しかしこの琉球王国の体制は、琉球、日本、中国という3か国関係の中で維持されるものであった。このため体制が安定していくに比例して、3か国以外の他者が参入してきた際に起こる事態への対応能力が失われるというジレンマを抱えていた[5]アヘン戦争以後、欧米の艦船がしばしば琉球に来航して開国を要求するようになる[6]。琉球王国は1855年にアメリカと琉米修好条約、1855年にフランスと琉仏修好条約、そして1859年には琉蘭修好条約を締結する[6]。そのような中で日中間でバランスを取っていたこれまでの琉球王国の体制維持が難しくなっていき[7]、日本側から見た琉球王国の捉え方にも変化が始まる[8]

1862年、イギリスは幕府に対して日本と琉球との関係性について説明を求めた。幕府は琉球が日中両属状態にあるとした上で、日本による支配がより実体的なものであると主張した[9]。また一方で幕府としては両属状態であることを認めており、琉球が清に対して使節を派遣し、清の皇帝から琉球国王として冊封を受けることを禁じていないとも説明した[10]。実際、1866年には尚泰が清の皇帝から琉球国王に冊封されたが[11]、幕府は清からの尚泰の冊封に対して異議を唱えることは無かった[12]

1867年、イギリスに滞在していた幕府の外国奉行向山黄村はイギリス側に対して、歴史的経過から見ても琉球は日本の属国であると主張した。このように江戸幕府はその最終段階に至って琉球の支配権を明白に主張するようになった。また琉球の所属問題が日中両国間の問題のみならず、欧米諸国も関与するような問題として浮上してきたことを示している[13]

明治維新による変化

[編集]

明治維新後、薩摩藩は清への進貢船による貿易への関与を継続するなど、琉球と薩摩の関係はすぐには大きな変化を見せなかった[14]。しかし琉球王国内では維新後の急激な変革に対する危機感が芽生えだしていた。琉球にも日本の変革の影響が波及するのではないかと恐れたのである。1871年、琉球王府内で行われた協議では、琉球は新政府の管轄となることを望まず、これまで通り薩摩藩の監督下に置かれることを希望することを決定した[15]

やがて日本側と琉球との関係が現実的な問題となっていく。1869年に行われた版籍奉還は、かつて天皇が所有していた土地(版)と人民(籍)を、諸藩が天皇に返還するという建前であった。しかし古代、大和朝廷の支配下に置かれたことがない琉球に対して、版籍奉還の原理を適用するのは困難であった[16][17]。その後、1871年廃藩置県によって薩摩藩は鹿児島県となり、これまで琉球を支配、監督していた薩摩藩は消滅した。琉球は暫定的に鹿児島県の管轄下に置かれることになったが、明治政府が琉球を支配、監督する新たな大義名分が必要となった[18]

日本による琉球藩王冊封

[編集]

1872年(明治5年)5月、大蔵大輔の井上馨は琉球王国に関する献策「琉球国ノ版籍ヲ収メシムル儀」を正院に提出する。当時、大蔵省の長である大蔵卿大久保利通は岩倉使節団の一員として外遊中であり、大蔵省の実質的責任者は井上であった。井上は維新後の内政整備を重視する立場から、「琉球国ノ版籍ヲ収メシムル儀」の中で、琉球を日本の一地方として内国化すべきであるとして、中国との関係断絶を迫るよう主張した。そのために琉球側に対して説明、説得を行い、琉球側から自主的に内地編入を求めるよう導いていくべきであるとした[19][20]

井上の献策とほぼ同時期に、外務卿の副島種臣からも琉球問題に関する献策がなされた。副島の献策は、琉球と諸外国との「私交」を停止させ、琉球国王の尚泰を琉球藩王に宣下し、華族に列するというものであった[21]。なお副島の献策の方向性としては井上と同じく、最終的には琉球を日本に帰属させることを目指していたが、井上の意見よりも段階的、漸進的な手法を考えていた[21][22]

井上と副島の献策を受け、正院は左院に対して琉球政策についての諮問を行った[23]。左院での協議結果は1872年(明治5年)6月中に出された。井上の献策に沿って短兵急に琉球の内地化を目指すことは清との関係悪化を招き、戦争などの大きな混乱を引き起こす可能性があるとして現実性に乏しいと判断され、内容としてはほぼ副島の献策に沿った形となった[24]

左院での協議後、琉球側には鹿児島県からこれまで(江戸時代)、将軍の代替わりに際して慶賀使を送っていたが、このたびの御一新に際して使節を送らないのははなはだよろしくないので、すみやかに使節を送るべきと指示された。鹿児島県側からの指示を受け、琉球側もこれまでの江戸期の江戸上りと同様の使節派遣であると判断し、了承した[25]

1872年(明治5年7月25日)、正使伊江王子(尚健)らは那覇を出発した。琉球使節は1872年(明治5年9月3日)、東京に到着した。到着後、持参の上表文の添削等が行われ、1872年(明治5年9月14日)には宮中に参内した使節団は明治天皇からの琉球藩王冊封の詔が告げられ、それに対して尚泰の名で「御請書」が提出された。天皇による冊封により、天皇と琉球藩王尚泰との間に正式の君臣関係が結ばれることになった。なお琉球側の「御請書」の提出をもって、この冊封が日琉双方の合意に基づくものであるとの体裁が整えられた[26]

冊封の詔では「陞(のぼ)シテ琉球藩王ト為シ」と、これまで日本の官位体系では無位無官であった尚泰を新たに藩王の座に昇格させるとなっており、琉球藩王冊封時点では天皇と尚泰との間に君臣関係を結ぶことに主眼が置かれていた[27][28]。しかしこの天皇と藩王との君臣関係は明治政府と琉球藩王、琉球藩との支配従属関係へと拡大していくことになる[29]。また先述のように尚泰は1866年に清の同治帝から琉球国王として冊封されていた。明治天皇には清が冊封した琉球国王の地位を剝奪する権限は無く、琉球藩王冊封後も清を中心とした東アジア世界では尚泰は琉球国王でもあった[30]

なお琉球使節は当初、自分たちのみでは冊封を受けるかどうか判断できかねると主張したが、琉日関係、そして琉清関係に変化を及ぼさないとの日本側からの説得を受け入れ、了承したものと考えられている[31]。なお琉球では藩王冊封について、当初は明治政府から王号を認められたとして歓迎する意見が強かった[32]

外務省の琉球対応

[編集]

尚泰の琉球藩王冊封後、琉球に関する業務は鹿児島県から外務省が担うことになった。その結果、外務省の官僚が琉球に在勤することとなり、伊地知貞馨らが琉球に赴任することになった[33][34]

東京に琉球使節を迎えた直後の1872年(明治5年9月10日)、外務省は琉球に流通する貨幣の不足に対応すべく、新貨条例により制定された新貨幣、紙幣の計3万円を琉球に下賜するよう正院に建議していた[35]。琉球使節が東京滞在中の9月20日に藩内流通の名目で3万円が給付された。これは貨幣制度が整備されていなかった琉球に明治政府の新貨幣を流通させることによって、琉球を日本の経済圏に統合しようと図ったものであった[36]。その後29日には尚泰に対して東京市内に邸宅が下賜されている。また琉球使節はこれまでの薩摩藩時代からの貢租の減額などを嘆願した[35]

伊地知らは1871年(明治5年)10月に琉球着任のため東京を出発した。途中鹿児島に寄った伊地知らは、鹿児島県側に鹿児島に在勤していた琉球役人の引き払いと、これまで薩摩藩、版籍奉還後は鹿児島県に納められていた琉球の貢租について、今後は大蔵省に直接納入するよう指示を出した。その一方で琉球王府の経費を賄うための徴税権は琉球側に残された[37][38]。その後伊地知らは1872年(明治6年)3月に那覇に着任する、着任後、摂政三司官に面談の上、藩王冊封の謝恩書の提出を要求したのを皮切りに、琉米修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約の三条約の条約書正本の提出と琉球の外交権の接収、そして死刑は司法省に伺いを立ててから執行すべきこと、また三司官クラスの高官を輪番で東京在勤とすることを指示した[39]。琉球側からは尚泰から謝恩書と天皇の名に従う旨の遵奉書の提出があり、また三司官の東京在勤も実現した[40]

また伊地知は琉球に大きな影響力を持っていた鹿児島の影響力削減に取り組んだ。実際問題、琉球の管轄が鹿児島県から外務省に移管されても、これまで薩摩藩、鹿児島県が琉球を現地で指揮監督してきた琉球在番奉行の組織はすぐに解体されず、結局、鹿児島県の官吏が琉球を去ったのは1872年(明治6年)12月になった。また琉球に在住し、琉球での商業活動を独占していた鹿児島商人の傍若無人ぶりも目に余り、その取り締まりに力を注いだ[41]

また伊地知の提言などにより、琉球側が嘆願した貢租の減免は認められ、その他、琉球内の開墾地の無税措置など、琉球の負担軽減、優遇策が実行された。これは琉球を「愛護撫育」していく姿勢を見せることによって、琉球が自主的に中国との関係を絶ち、日本専属の道を選びとらせるための方策であった[42]。また伊地知は日本本土と琉球との一体化を図る施策の一環として郵便航路を開設し、琉球内でも郵便事業を開業した[43]

外交権の接収

[編集]

前述のように尚泰の琉球藩王冊封後、琉球の外交権を明治政府が接収することになった。イギリス、アメリカ、フランスは琉球使節の東京到着後その動静を見守っていたが、日本側は琉球の支配を主張した。三国とも藩王冊封を日本が琉球を併合したものと判断し、黙認する姿勢を見せた[44]。中でもアメリカは琉米修好条約を引継ぐのかどうか日本側に確認し、条約継続の確認を得た上で琉球併合に反対しないとの態度を示した[45]。1873年にはイタリアとドイツが琉米修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約で認められているような特権を琉球で認められるかを確認した。各国は日本との修好通商条約で最恵国待遇を受けることになっており、日本側はイタリア、ドイツが琉球で三条約同等の待遇を受けられることを認め、両国とも日本の琉球併合を問題視しないことになった[46]

しかし琉米修好条約の引継ぎを認めたことは、琉球が独立国としてアメリカと結んだ条約を有効であるとしたわけで、間接的に琉球の独立性を認めた形となった[47]。イギリスとフランスは藩王冊封に伴ってて日本と清との関係が悪化すると判断したが、両国とも清に情報提供を行わなかった。日本側も清に対して藩王冊封の事実を伝えなかった[48]。また清側からも日本に対して琉球藩王冊封に関する問い合わせは無かった[49]

難航する琉日交渉

[編集]

先述の琉米修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約の三条約の条約書正本の提出については、本側の指示に対して外国船来航時などの対応に支障をきたすとして、琉球側は原本の保管と写しの提出を請願する。伊地知貞馨は当初は琉球側の請願を認め、写しの提出がなされた。しかし外交権接収の確立と、欧米諸国との関係性を考慮した日本側は改めて原本の提出を指示したが、琉球側は正本提出に難色を示し続けた[50][51][52]

そして欧米諸国に対しては藩王冊封を以て日本に併合したとの見解を示した反面、対清関係には当初大きな変化は無く、清への進貢船の派遣も外務省に報告を上げることを求められただけで、これまで通り継続された[53]

そのような中で1872年5月にフィリピンから八重山に漂着した船員への対応で、琉球と日本との間にトラブルが発生した。琉球側は江戸時代と同様に琉球から長崎を経由して本国送還を行おうとした。しかし日本側は外国人に関する業務は外務省管轄であるとして、鹿児島県を通して送還を行った。琉球は清からの漂着者に対して外務省管轄の送還を行われると琉清関係に重大な問題が問題が生じると判断して、従来通りの扱いをさせてもらいたいとの請願を行った。日本側は琉球側の抵抗が強いことを考慮し、徐々に制度変革を目指すこととして、当面の間、清からの漂着者に対しては琉球によって長崎経由で送還事務を行うことを認めた[54]

三条約正本提出問題と、フィリピンからの漂着船乗組員送還問題の中で、琉球側は体制維持への危機感を募らせた。琉球側は外務卿の副島から条約締結や戦争のことは日本政府が介入するが、琉球の国体は今後とも不変であり、内政問題は琉球藩王に委任している旨の言質を取った。しかし琉球側は文書での確認を求め、1873年9月20日、伊地知貞馨と外務大丞花房義貞が署名した琉球の摂政、三司官宛の文書が交付された[55]

文書の内容は、昨年(1872年)、藩王に冊封されて永久の藩屏となったので、朝廷の命に反したり、暴政によって住民が逃散するような事態に陥らない限り、廃藩はありえないとし、その上で琉米修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約の三条約の条約書正本を改めて指示し、正本を提出しても藩に迷惑はかからないことを保証した内容であった[56][57]

琉球側としては「国体政体は永久に不変」という内容が盛り込まれず、文章の内容に不安が残った。そこで摂政、三司官名で改めて外務省側に確認を取った。その結果、文章には「国体政体は永久に不変」という意を含んでおり、また清との関係もこれまで通りとの説明を受けた[58][59]。結局琉球側は三条約の正本提出を了承し、1873年5月になって提出が実現した[60]。この外務省による文章と口頭による琉球側との約束は、内務省移管後の強硬策に転じた琉球処分時に琉球側の抵抗の材料となり、処分を主導する大久保利通松田道之を手こずらせることになる[58][59]

台湾事件の影響

[編集]

1871年11月、宮古島から沖縄本島へ年貢を納めた後、宮古島へ戻る途中の船が台湾南部に漂着し、乗組員66名のうち54名が台湾原住民の手によって殺害された。この台湾事件の事件処理過程が琉球に対する日本側の対応に影響を与えるようになる[61]

事件の情報を入手した鹿児島県参事の大山綱良は強硬な台湾出兵論を表明した[62]。1872年9月の琉球藩王冊封前後、明治政府内でも台湾出兵論が次第に高まっていく[63]。しかし政府内には大蔵省を中心とした反対意見があり、山縣有朋ら陸軍省首脳も新政府の軍体制整備が先決であるとして出兵には消極的であった[64]

1873年3月、外務卿の副島種臣は台湾事件の交渉を主目的として清に派遣された。3か月以上に及んだ副島の滞在中、交渉はあまり進展しなかった。清側は台湾で殺害されたのは日本国民では無くて琉球の国民であるとの認識を示した。清側の認識に対して、琉球人は我国人(日本人)であると反論した上で、加害者である台湾原住民に対する措置について糺した。すると清側から台湾原住民には清の支配に服している熟蕃と支配下に無い生蕃があって、生蕃に対する措置を行うことは不可能であるが、現地調査の上で改めて回答したいとの意向が示された。それに対して日本側は、清から生蕃の居住地は無主地であるとの言質を得たと判断した[65]

この頃、日本国内では不平士族の不満が鬱積して反政府的な動きが強まっていた。明治政府は鬱積した不満を逸らす目的もあって外征の企てを本格化させた。征韓論はその一環であったが、結局、征韓よりも失敗が少ないと考えられた外征である台湾への出兵が本格的に検討されることになった[66]。1874年2月6日、佐賀の乱勃発で混乱する中、閣議に大久保利通、大隈重信連名の「台湾蕃地処分要略」が提出され、台湾出兵が決定された。「台湾蕃地処分要略」では、無主地である台湾の蕃地で日本に藩属している琉球住民が殺害されたことに対する軍事行動であるとして、清側が琉球が日中両属であると主張して来てもその意見に応じる必要はなく、我が国支配下の琉球が清に進貢している“非礼”について、事件の解決後に中止させるとしていた[67]

1874年5月、台湾出兵は実行された。戦闘そのものは短期間で終結したが、清は日本の出兵が自国領土に対する侵犯行為であると強く抗議した[68]。6月から清側との交渉が開始されたが、交渉は難航した。8月には大久保利通が全権として訪清して交渉に当たることになったが、日清間の主張の隔たりは大きく、10月にはいったん交渉は決裂した[69]

交渉の決裂を見たイギリスは両国の仲裁に乗り出す[70]。日本も清も本音では戦争になるのは避けたかったため、仲裁に乗った[71][72]。イギリスは清が「撫恤銀」を出す形で妥協を図り、大久保はその提案に乗る。清側も「撫恤銀」の支払いそのものは了承したものの、その金額は台湾出兵費用に遠く及ばなかった。大久保は金額面では清側の提案を飲んだものの、「撫恤銀」と出兵の名目にこだわった。結局、台湾の原住民が「日本国属民等」に危害を加えたことに対して日本が問責した義挙として計画したものであり、清は出兵を批判ぜず、被害民に「撫恤銀」を支払うという形で合意が成立した[73]

日本側は清が琉球は日本の属国であるとのお墨付きを与えたものと解釈した[71]。日清両国の合意内容は琉球の地位について明言したものではなかったが、清が琉球は日本の属領であることを認めたと解釈可能な文面でもあった[74][75]。一方、清側は琉球は独立国であり、冊封関係を結んでいる宗属国であるとの見解を変えることは無かった[71]

また1974年7月12日に、明治政府は琉球に関する事務管轄を外務省から内務省へ移管した。これは台湾事件に関する対清交渉が難航する中で、明治政府として琉球を統治する体制を整えたいとの意向の表れであり[76]、対清交渉後の琉球処分開始を踏まえたものでもあった[77]。ただ移管当初、内務省は琉球側に単に所管が変更となっただけであり、琉球の立場はこれまでと変化がないと説明した[78]

琉球処分の取り組み開始

[編集]

台湾事件の対清交渉を終え、帰国した大久保は1874年12月、太政大臣三条実美に「琉球藩処分方之儀ニ付伺」を提出した。大久保は「琉球藩処分方之儀ニ付伺」の中で、先年、明治天皇より琉球藩王に冊封したものの、琉球は清の所管から脱する形には至っておらず、日清どちらに属するのかはっきりとしない状態が続いているが、琉球の旧慣陋習が根強い現実に鑑み、これまでは徐々に清から切り離していく政策を取ってきた。今回、台湾事件の清との間の合意によって、幾分か日本領としての名分を示せたというものの、まだ国際的には琉球が日本領であると明らかにしきれていないとの現状認識を提示した[79]

このようなあいまいな状況を放置すれば、今後諸外国から琉球の地位に関してどのようなクレームが出てくるか予測できず、早急な対応が必要であるとして、まずは琉球藩王代理の高官3名を呼び寄せ、藩王自らの台湾事件謝恩のための上京を促すとした。更に清との関係断絶、那覇に鎮台の設置、教育、刑法の改革の実行、そして清からの「撫恤銀」によって購入した蒸気船を下賜し、更に台湾事件の被害者と遺族に補償を行うことを提言した[80]

大久保の提言は認められ、琉球高官の上京命令を出した上で説諭を行うように指示が出された。提言の中で鎮台設置、教育、刑法改革はただちに着手されることになった。ただし提言の中でも重要な項目である清との関係断絶に関しては、追って指示を出すとして保留扱いとされ、まずは琉球側の見解を確認した上で説諭の上で琉球自らが関係を絶つ方向へ導いていくことになった。つまり対清関係については基本的にこれまでの方針が堅持された[81]。12月24日付で太政官指令により三司官ら琉球高官の上京が命じられた[82]

大久保の説諭

[編集]

1875年1月、高官に対する上京命令が琉球に届いた。琉球側は明治政府からどのような命令が下されるのかと大きな不安に包まれ、国中の寺院、御嶽で祈願が行われた[82]。2月5日、琉球使節の池城親方、与那原親方らは那覇を出発し、3月18日には東京に到着し、31日から内務卿大久保との交渉が始められた[83][84]

大久保は3月31日の初回交渉時に、まず台湾事件処理の困難について説明した上で、藩王尚泰が自発的に謝恩上京を要求した[85]。その上で台湾事件の被害者に対する撫恤米支給、鎮台分営の設置、琉球への蒸気船下賜を決定事項として通告した[85]。大久保と琉球側との交渉は4月以降も続けられた。琉球側は軍備を特に持たない琉球に鎮台分営を設置することは緊張を高め逆効果であると主張し、蒸気船の下賜は対清関係上の悪影響を与えかねず、台湾事件に対しては藩王尚泰からの補償済みであるとして、大久保の要求をまずは全て拒絶した[86]。交渉の中で琉球側は撫恤米支給、蒸気船の下賜に関しては譲歩したものの、鎮台分営設置に関しては譲歩しなかった[87]

4月23日の交渉時、大久保は新たな要求を持ち出した。今後琉球の諸制度を内地並みに改革していくべきであり、そのために刑法、学事修行のため人材を選抜して上京させるよう指示したのである[87]。刑法、学事修行のため人材を選抜して上京させる件は琉球側は了承した[88]。琉球側は大久保の要求に対してまず対清関係への悪影響を与えると主張し、1873年9月に伊地知貞馨と外務大丞花房義貞が署名した、「朝廷の命に反したり、暴政によって住民が逃散するような事態に陥らない限り、廃藩はありえない」との書面、そして当該書面には「国体政体は永久に不変」という意を含んでおり、また清との関係もこれまで通りとの内容であるとの約束があると持ち出した[89]。近世以来の日本と中国双方に対しての二重の君臣関係を結び、それぞれへの「お勤め」を果していくという琉球の国是を破り、清に対する信義を破る行為は断じて容認できないとの琉球側の姿勢は、琉球処分期を通して不変であった[90]

交渉で最も重要視されたのが藩王尚泰が自発的謝恩上京であった。これは上京が実現すれば琉球の日本所属を内外に示せると判断したためである[91]。しかし琉球側は礼状の提出で容赦して欲しいと嘆願し、自分たちの権限で判断できる内容でもないと主張した[88]。交渉は平行線に陥り、5月4日に打ち切りとなった[92]。琉球使節が自分たちの権限で判断できる内容ではないとの主張したことに加え、後述のように琉球の対清関係において至急処理をせねばならない事態が発生したため、大久保は部下の松田道之を琉球に派遣して直接交渉に当たらせることにした[92]

清の皇帝の交代と琉球処分

[編集]

琉球藩王冊封後も琉球の清に対する進貢は継続していた。しかし台湾出兵が行われた1874年5月、琉球の進貢船が福州に到着したことを問題視し、動向について調査する動きが始まっていた[93]

そのような中で清では1875年1月12日に同治帝が崩御し、新帝として光緒帝が即位した。清の皇帝が交代すると、琉球など清の皇帝から冊封を受けている諸国は新帝の即位を祝う慶賀使を送ることになっていた。琉球から清に慶賀使を送られることは日本にとって国権に関わる重大問題であり、看過することはできず早急な対応が必要であった[94][95]。また、1875年3月には前年琉球から派遣された進貢使の北京到着がきっかけとなって、北京在勤のフランス公使は北京で琉球問題について討議する国際会議の開催を計画した。結局、国際会議が開かれることは無かったが、琉球の地位が欧米諸国の関心を呼ぶ国際的な問題となっていることが浮き彫りになった[96]

日本側は琉球問題を検討する国際会議の開催を望まなかったものの、北京在勤フランス公使の提案を無視することも出来なかった。日本側は清の当局者と琉球の地位についての交渉を始めた。日本は琉球に対する主権を強硬に主張したのに対して、清は「もし琉球が日本の藩属であるのなら、琉球に中国への朝貢を止めさせるべきだ。そもそも琉球側は日本の藩属であるとは言っていない」と、琉球に対する主権についてはあいまいながら、日本に対して挑戦的な態度を見せた。また北京のアメリカ公使は日本側の主張を確認し、理解した上で国際会議の開催に反対した[97]

結局、琉球問題について討議する国際会議は開かれなかった。また清側の主張を受けた日本にとっては、琉球の本格的併合を進めていくきっかけとなった[98]

松田道之の派遣

[編集]

1875年5月7日、琉球藩宛に蒸気船の下賜、撫恤米の給付、鎮台分営の設置という3項目の太政官令が出された。翌5月8日に大久保内務卿は、内務省として琉球問題に関して政府の方針決定を求める「琉球藩処分方之儀伺」を三条太政大臣にを提出した。5月9日、大久保の上申に基づき政府の方針が決定された。政府方針の決定後、内務省は琉球処分についての方針を定めた「着手順叙ノ見込」を作成し、承認を受けた[95]。「着手順叙ノ見込」は、隔年で派遣してきた進貢使と清の皇帝即位に際して派遣される慶賀使の廃止、福州の琉球館の廃止、琉球国王代替わりの際に清より派遣される冊封使の受け入れ中止、琉球藩王謝恩のための上京と藩政改革の着手、清との関係を外務省を窓口に一元化するという、清との関係断絶を前面に打ち出した内容であった[99]

内務卿の大久保は琉球問題以外にも対処せねばならない課題が多く、極めて多忙であった。琉球問題に関して大久保の手が回りかねる部分を委ねられたのが松田道之であった[100]。1875年5月13日、松田の琉球派遣が正式に決定された[99]。松田は6月12日、清への進貢と皇帝即位後に送る慶賀使の差し止めと、清からの冊封使の受け入れを止めることを命じる5月29日付の太政大臣三条実美名の「琉清関係断絶命令」。6月3日付の明治の元号を用いることや藩内改革、刑法などを学ぶ人材を派遣すべきとした4項目のやはり太政大臣三条実美名の命令書。そして松田から琉球藩王宛の、既に命令済みの事項を改めて伝えるとした、福州の琉球館の廃止、琉球藩王の謝恩上京、鎮台設置についての3項目に関する文章の計三通の文書を携え、東京滞在中であった琉球使節とともに琉球側に下賜される蒸気船、大有丸により東京を出発し、7月10日に那覇に到着する[101][102]

琉球側の抵抗

[編集]

琉球国内の動揺

[編集]

1875年1月に高官の上京命令が届くと、琉球ではいかなる事情で呼び出されたのかと不安感が広まり、大きな混乱が発生した。尚泰は寺院、御嶽に官吏を派遣して祈禱を行わせ、また人々に対して祈祷を行うよう命じた[82]。琉球側に東京での交渉内容が逐一伝わることは無かったが、5月に随員の一部が琉球に帰還した後に交渉内容を聞いた尚泰は、精神的なショックを受けて病床に伏せるようになり、琉球内も大きな混乱に見舞われた[103]

1875年7月10日に那覇に到着した松田道之は、14日に首里城で、病床にあった尚泰の代理として対応した王弟今帰仁王子に、太政大臣三条実美名の2通の命令書、そして松田から琉球藩王宛の文書の計3通の文章を、その趣旨を説明の上手渡した。琉球側としては明治政府からの要求事項について事前にある程度予想は立てていたとはいえ、実際に手渡された文章の内容に衝撃を隠せなかった。この日はとりあえず文章を受け取り、後日正式に回答すると伝え、松田は琉球側の申し入れを了承してこの日は引き揚げた。その後、琉球王府内では連日様々な意見が交わされた[101]

協議の結果、琉球王府は琉球藩王尚泰の上京、清との関係断絶の2点については断固拒否することになった[104]。琉球側からの松田への回答は、まず7月17日に摂政、三司官らが松田の宿泊先を訪れ、尚泰の上京については病状が重く上京は困難との医師の診断書を提出し、代理として王弟の今帰仁王子の上京を提案し、また鎮台設置については了承の上、日本側の設置予定場所以外の候補を提示した。そして8月5日には松田に藩王尚泰、摂政、三司官連名で2通の願書が提出された。願書は琉球は日本と中国を父母の国と仰いでおり、今後とも清への進貢使、慶賀使を送り、冊封を受け続けたいと清との関係の継続を要望するとともに、年号と暦も従来通り対日本では日本の年号と暦、対清関係では中国の年号と暦を用いたいと主張し、更に琉球の藩政改革についても1873年9月に、「国体政体は永久に不変」との話を承っており、これまで通りの政治制度を維持したいとした[105]

松田と琉球側との攻防

[編集]

松田は8月7日に対弁書を琉球側に手渡した。対弁書ではまず琉球の日中両属を容認することは日本の国権を大いに傷つけるものであり、容認できないとの原則論を述べて、琉球側の主張を否定した。また年号と暦の使用問題、藩政改革についても琉球側の主張を撥ねつけた。その上でこれらの決定は日本政府としての決定であるため、松田自身の権限では受け入れること以外受け付けられないとした上で、10日間の猶予を与えるので、熟議の上、受け入れるよう迫った[106]。その後、琉球側と松田との交渉が続けられたが、対清関係、尚泰の上京問題では歩み寄りが見られなかった[107]

松田の琉球側への交渉態度は徐々に高圧的なものになっていった。そのような中で、9月に入って清の軍艦が琉球にやって来るとの噂が広まり、混乱がより大きくなった。そして9月7日、琉球側で騒動が勃発した、琉球藩王尚泰が体制を守るために日本側の要求を受け入れる決断をしたものの、強い反発が起こったためすぐに撤回された。琉球側に騒動が勃発した事実は松田の耳に届いたものの、尚泰がいったん日本側の要求を受け入れる決断をしたが、すぐに撤回に追い込まれた事実は伝わらなかった[108]

琉球側は直接政府に嘆願したいとの要望を出していた。松田はいったんその要望を却下していたが、最終的には嘆願が受け入れられなかった場合、直ちに命令を受けることを条件に、政府への嘆願を認めることにした。9月11日、松田は三司官の池城親方ら嘆願使節と共に那覇を離れた[109]

明治政府への嘆願書提出

[編集]

松田道之とともに東京へ向かった琉球使節は、10月15日、27日に対清関係の継続を求める嘆願書を明治政府に提出する。琉球側の嘆願が聞き届けられることは無かったが、その後も政府高官や政府内の各部署への嘆願を繰り返した[110]

明治政府は1875年11月17日付で、琉球側の嘆願が受け入れられず、先に松田道之が琉球側に出した条件通り、直ちに命令を受け入れるよう指示した。しかし琉球側はその後も嘆願を繰り返した。1976年5月10日、明治政府は三条実美太政大臣名で、琉球使節にもはや用は無いので琉球に帰るよう命じた。しかし琉球側は替わりの高官を東京へと派遣して、明治政府への嘆願を継続した[111]。結局、1876年11月27日までに琉球側が日本政府に行った嘆願は計14回に及んだ[112]

裁判権と警察権の接収と琉球側の抵抗

[編集]

松田道之が琉球出張から帰京した直後の1875年9月13日、琉球の内務省出張所の河原田盛美は、琉球側が掌握していた裁判権と警察権のうち、日本の内地住民に関するものについてを内務省出張所に移管すべきとの建白書を提出した[113]

その後、1876年5月15日、内務卿大久保利通は琉球人相互間の刑事、民事の訴訟は琉球側が持つが、琉球在住の内地住民に関わる訴訟、警察権は内務省出張所が掌握する旨の建白書を三条実美太政大臣に提出した[114]。5月17日、三条太政大臣は大久保の建白書に対して回答をした。その内容は内務省出張所が琉球の全ての裁判権を掌握し、琉球側には琉球人相互の刑事事件の捜査権のみ残すというもので、裁判権の掌握に関しては大久保の答申を上回る決定を下した[115]。この三条太政大臣名の「裁判権接収命令」は琉球側に通達され、裁判権と警察権の接収が始められた[102][116]

「裁判権接収命令」に琉球側は強く抵抗した。まず6月6日付で三条太政大臣宛に反論書を提出し、琉球人同士の裁判に関しては琉球側が裁判権を持ち続けたいと主張した。しかし明治政府は琉球側の反論を退けた。しかし琉球側はあくまで琉球人同士の裁判に関する裁判権接収に反対し続けた[117]

鎮台分営の建設と琉球側への圧力

[編集]

松田道之の琉球派遣と並行して、明治政府は鎮台分営の建設に着手していた。松田と共に琉球に向かった陸軍省の長嶺譲少佐らは、琉球到着後直ちに兵営の候補地選定に取り掛かった[118]。7月29日には松田が琉球側に候補地を示したが、琉球側としては候補地の検討中を理由に猶予を申し入れた。しかし松田は選定した候補地を認めるように迫った。8月5日、琉球側は候補地が人口稠密であることを理由に反対し、代替地を提案した[119]。しかし松田はあくまで候補地の変更を認めなかった。結局、鎮台分営に関しては松田の要求を飲んだものの、駐留する兵士の取締りや兵員の数の制限を求めるなど、条件闘争を続けた[120]

1876年4月、陸軍省は和田勇馬少佐率いる300名あまりの鎮台分営建設隊を琉球に派遣し、分営建設が開始された[118]。明治政府は琉球の裁判、警察権接収の動きに合わせ、建設中の鎮台分営に兵士を派遣することを決定した[121]。7月1日に熊本鎮台から兵士25名が着任し、26日には陸軍少佐木梨精一郎が内務省出張所長として着任した。そして7月31日には兵営が完成した[118]。木梨は内務官僚の松田を軍事面からサポートする形で琉球処分を推進していくことになる[120]

木梨は琉球着任時、琉球藩王尚泰宛の三条実美太政大臣名の命令書を携えていた。命令書では清との関係を断絶しようとしない琉球側の態度を厳しく指摘し、琉球側の嘆願を取り上げることは無い旨、言い渡したものであった[111]。そして8月1日には琉球側の反対を押し切る形で、内務省出張所で琉球内の刑事民事裁判の業務を開始した。琉球側は更に抵抗を続け、木梨に対して琉球人同士の裁判権の接収の必要性が無いことを申し入れた。木梨は琉球側の要請を拒否し、8月12日には裁判業務の引き渡しを命じた。しかし琉球側は明治政府に対して、琉球人同士に関する裁判権を所持し続けたいと主張し続けた[117]。琉球側とすれば国権の公使に関わる事柄であり、譲歩するわけにはいかなかった[102]。一方、明治政府に取ってみても琉球藩王の統治権をはく奪し、日本の国家権力の浸透を図るためには裁判権、警察権の掌握は欠かすことが出来ない事柄であった[117]

真宗法難事件

[編集]

明治政府による琉球内の裁判権接収は、琉球側の抵抗により難航した。この日本政府側と琉球側との裁判権接収の攻防下で起きたのが真宗法難事件であった[122]。琉球王国内では薩摩藩の浄土真宗禁教政策に倣って、浄土真宗の信仰、布教は禁止されていた[123]。明治維新後も琉球では浄土真宗の禁教政策が堅持されていたが、地下で布教活動が進められるようになり、遊郭があった辻を拠点として信者も徐々に増えていた[124]

1877年10月22日より、辻を中心として浄土真宗信者の一斉検挙が開始された。琉球側の一斉検挙開始を受けて、関係者は早速内務省出張所に一斉検挙の妥当性を確認した。内務省出張所は琉球の法令に反した以上、検挙自体は正統性があるとしたが、裁判権を接収済みであるため裁判は内務省出張所が行うと回答した[125]。その後琉球から浄土真宗本山に経過報告が上げられた。報告を受けた本山は内務省に琉球での浄土真宗の信仰と布教の許可を嘆願した[126]。内務省は浄土真宗側の嘆願に対して、琉球での布教に問題は無く、琉球住民も信教の自由があると回答した[127]

一方、琉球側は検挙した浄土真宗信者らに裁判手続きを進め、1878年1月27日に首謀者に対して八重山への遠島10年とする等の判決を言い渡した[128]。この浄土真宗信者に対する裁判に対し、内務省出張所は一切干渉しようとしなかった[129]。その後、内務省から布教のお墨付きを得た浄土真宗側は、琉球側に対して布教の許可と罪人とされた検挙者の無罪放免を要求し、両者の間では綱引きが続いた[130]

結局、内務省側から圧力をかけられた結果、琉球側は譲歩を余儀なくされ、浄土真宗の布教は認められることになり、裁判結果も取り消された[131]。しかし琉球当局は対内的には琉球藩王の特旨による措置であると説明した[132]。また真宗法難事件以外にも琉球側は裁判権の行使を行っており、裁判権の接収は琉球側の抵抗により思うように進んでいなかった[133]

琉球処分と諸外国

[編集]

清への密使派遣

[編集]

明治政府からの圧迫に苦しんだ琉球側は、清へ密使を送ることを決定した。1876年10月、表向き祈願のために伊平屋島へ向かうとした密使は、本部間切から清へと向かった[134]。なお、内務省出張所の木梨精一郎は密航の情報をキャッチし、阻止のために出航場所へ急遽向かったものの出航後であったと伝えられている[135]

密使は途中悪天候により漂流を余儀なくされ、1877年3月になって福州に到着した。福州到着後、琉球からの密使は清側に琉球の窮状を伝えた。その結果、清側は日本に公使として赴任予定の何如璋に日本側と琉球問題に関して協議させ、また在日各国公使にも働きかけていくことを決定した[134]。清としては琉球からの朝貢、冊封を重要視して日本側に抗議したわけではなかった[136]。琉球滅亡が連鎖的に清に朝貢を行ってきた他の諸国、中でも朝鮮とベトナムに悪影響を及ぼすことを恐れた[137]。そこで清は日本の琉球併合を阻止し、朝貢、冊封を継続させる方向で動くことになった[136][137]

清からの抗議

[編集]

西南戦争の影響で予定よりも大きく遅れたが、何如璋は1877年末に東京に赴任した[138]。その後何如璋は、1878年9月に2度に渡って外務卿の寺島宗則に面会して琉球問題に関する抗議を行った。続いて10月には寺島に日本の琉球問題に関する対応を厳しく批判する書簡を送った[139]。一方、寺島も日本を侮辱するものであると激しく反論した書簡を送り返した。日本側は清が琉球国王を冊封して来たことは実の無い虚名を与えていたにすぎず、琉球が薩摩藩に租税を納めていた事実等を指摘して、日本による支配が実行性が伴ったものであったと主張した[注釈 1][142]

その後も日清間でのやり取りが数回続いたものの、日本側は清側の態度が無礼であるとして清側との交渉を拒否する態度を示し、交渉は行き詰まった[143]

欧米諸国への働きかけ

[編集]

清は日本政府との直接交渉と並行して、東京に滞在していた琉球関係者とともに日本駐在のアメリカ、フランス、イギリスの公使に琉球問題への介入を求める運動を行っていた[144]。清と琉球の主張は、まず琉球は中国へ朝貢を行って来たものの独立国であり、その証拠として琉米修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約の締結を挙げた。そして欧米諸国に対して清への朝貢の復活、琉球の行政面における独立性の維持に向けて動くよう要請した[145]

イギリス公使のハリー・パークスらは、琉球問題に関する明治政府の対応を批判した[146][147]。しかしアメリカ、フランス、イギリスは琉球と清の主張に理解を示しつつも、日本との関係を重視して明治政府の琉球処分を黙認することにした[148]

琉球処分の断行

[編集]

琉球への最後通告

[編集]

1875年の松田道之の初回の琉球出張後、琉球処分が具体的に動き出すまで3年以上かかった。これは西南戦争を始めとする士族の明治政府に対する抵抗、勃興しつつあった自由民権運動への対処等、内外の様々な課題に対処しなければならなかったためであった[149]

1878年11月、松田道久は内務卿伊藤博文の命により、「琉球藩処分方法」を提出した[150][151]。松田は処分に対する琉球側の抵抗の大きさを想定しながらも、処分の断行を主張した[152]。さらに松田は内務省の任命する処分官に軍事・警察権を付与し、廃藩置県と藩王尚泰の上京を履行させ、琉球側が抵抗した場合は軍事警察権をもって鎮圧するという、処分に向けてのシナリオも立てていた[153]

松田の処分案を巡っては、大蔵卿の大隈重信は即時断行を主張し、一方、伊藤博文は琉球側から命令遵守の言質が得られれば、藩属の継続のままで良いとの意見であり、政府内に温度差があった[154]。結局、いきなりの処分断行では無くて琉球側に命令の遵守要求と最後通告のための使者を立てることになった。使者は松田が自ら志願して当たることになったが、松田の出張に関しての明治政府内の温度差は最後まで消えなかった[154]

松田は1878年12月27日付の太政官令で琉球出張を命じられ、1879年1月8日、横浜港から琉球へ向かった。松田は1週間の期限を切って琉球側に遵奉書の提出を命じ、もしその命に従わなかったり期限内に提出が無かった場合、「厳重なる御処分」が下されるとの最後通告を行うよう、三条太政大臣からの指令を受けていた[155]

1879年1月25日、那覇に到着した松田は、翌1月26日、首里城へ向かい、琉球側に2月3日午前10時を期限とした最後通告を行った[156]。しかし松田の最後通告を受けた琉球側の態度は前回の1875年の際とは異なり、明治政府側の通告を拒否する対応で一致していて動揺は無かった。これは東京で清の公使何如璋とタイアップしながら、日本側への抗議や欧米諸国への働きかけを行っていたため、日本側が琉球併合を強行した場合には清の介入があると期待していたためであった[157][158]

松田が定めた期限である1879年2月3日、琉球側は拒否の回答をした。回答を受けた松田は琉球側に後日の処分を待つようにと伝えた上で、2月4日に東京へ戻るため那覇を出港した[159]

処分の断行

[編集]

松田の処分案作成と処分官任命

[編集]

松田が2回目の琉球出張から帰京した後の1879年2月18日、太政大臣三条実美は内務省に琉球処分に向けての最終案を調査の上、伺いを提出するように命じた[151][159]。松田は前年11月に内務卿伊藤博文に提出した「琉球藩処分方法」をもとに、全20か条からなる新たな「琉球藩処分案」を作成し、3月1日に伊藤内務卿から三条太政大臣に上申された[151][159]。処分案作成と並行して内務省に松田を長とした臨時取調掛が任命され、処分手続き遂行に必要な予算についての精査がなされ、「琉球藩処分案」と同日の3月1日に「御処分経費予算」も上申された[151][159]

3月8日、松田に3回目の琉球への出張命令が下された[160]。3月11日には松田による上申案をもとにした指令が下され、松田は処分官として琉球処分を実行する権限を得た[161]。松田に下された指令には、琉球藩を廃止して沖縄県とすること。尚泰を首里城から退去させて東京へ連れてくること。尚泰から新任の沖縄県令に統治に必要な権限、文書、財産等を引き渡させること。尚泰の私有財産を確定させること。旧来の悪政について調査報告することが指示されていた[162]。この指令を実行すべく、松田には尚泰に対する指揮命令権限。騒動が起きた場合には尚泰や琉球の官吏を警察力をもって拘引、または武力で鎮圧する権限。尚泰や王子たちを東京へ連行する権限などが与えられた[162]。一方、松田に付与された権限が極めて大きなものであったため、指令に基づく任務終了後は速やかに沖縄県令に統治事務を委ね、帰京復命するように命じられた[163]

3月11日に松田に対してくだされた指令書の中に、琉球藩処分の法的根拠が明記されていた。明治政府としては1875年5月29日付の「琉清関係断絶命令」、そして1876年5月17日付の「裁判権接収命令」に従わなかったことが琉球処分を行う根拠であるとした[164]。つまり琉球が外交権と内政権をともに手放そうとしなかったことが琉球処分の根拠とされた[165]

一方、「御処分経費予算」に関しては3月1日の上申案通りに認められた[159]。予算案では松田らの出張費用の他、警察官と兵員の増派費用として116690円37銭5厘が計上された。結局、松田ら10名の内務省職員、158名の警察官、陸軍の兵員416名の他、沖縄県設置後に事務を行う32名が琉球へと向かうことになった[166]

処分の通告

[編集]

1879年3月12日、松田ら内務省職員、警察官、益満邦介陸軍大尉ら陸軍の人員3名、県設置後の職員予定者とともに横浜港を出発し、神戸港鹿児島港経由で那覇へと向かった。鹿児島では熊本鎮台の陸軍兵士413名が一行に加わった[159][166]。琉球派遣の任務に関しては松田以外は同行の内務省職員に対しても当初秘密とされ、鹿児島港出航前日の3月20日になって、松田は内務省職員、県設置後の職員予定者、管理職クラスの警察官らに任務のあらましについて伝えた上で、絶対の秘密の任務であるとして当面家族との連絡を禁止した[159]

一行は3月25日に那覇に到着した。3月27日、松田は内務省職員と警察官らを伴って首里城へ向かい、琉球の廃藩置県処分を言い渡した[167]。その直後、内務省出張所長であり、「沖縄県令心得」とされた木梨精一郎が沖縄県の発足と、これまでの内務省出張所を仮県庁とするとの指令を公布した[168]。琉球の廃藩置県処分の他、松田は尚泰に対して3月いっぱいで首里城を退去してまず嫡子尚典の邸宅へ移り、準備する船に乗って4月中旬に東京へ向かうこと。統治に必要な文書等の引き渡しを行うこと。そして尚泰の私有財産と公に属すべき資産との分別を行って結果を報告することなどを命じた[169]

首里城での琉球処分の申し渡しに続き、松田は首里、那覇の予め指定された場所に集められた士族に対して処分の内容を伝えた。士族たちは処分に対して琉球藩の存続と清との関係の継続を願い、申し渡しの翌日、松田に対して三司官を筆頭とした連名で処分の撤回を嘆願した。3月29日には首里城の引き渡しが行われ、世子尚典の邸宅に移った[170]。首里城明け渡しに伴い、王府の行政文書や対清関係の外交文書などの接収が行われた。これは県の発足に当たり徴税事務等に必要な行政文書の引継ぎが必要であったとともに、琉球の外交権を否定する意味合いがあった[注釈 2][172]。また松田は人員を各地に派遣して、琉球処分について布告し、新設の沖縄県に恭順するよう説諭させた。しかしそこでも琉球処分に対する拒絶反応に直面した[173]

県業務開始の難航

[編集]

前述のように松田は沖縄県発足後に県政を行うために32名の要員を連れてきており、既存の内務省出張所で働く職員もいた。しかし実際にそれだけの人員で県政を切り盛りすることは不可能であった[168]。明治政府は琉球処分により中央政府に当たる王府は廃止としたが、地方自治体に当たる間切には手をつけずにそのまま業務を継続する方針であった。これは事務引継ぎの円滑化のためにも必須であったのに加えて、中央と地方の官僚組織の分断を図るという目的があった[168][174]

琉球藩の廃止、沖縄県の発足は国内のみならず諸外国に対しても秘密裏に進められ、1879年4月4日になって公表された。これは主として清への情報漏洩を恐れたためであった[175]。実際、沖縄県内では清による軍事介入を期待する意見が強かった[176]。前述のように沖縄県発足に当たり地方組織の官吏は業務の継続を命じられていが、ほとんど全ての官吏が出仕を拒んだ[174]

官吏たちのサボタージュに直面した松田は4月2日、新生沖縄県の命令に従うよう布告した。しかし官吏たちは協議の結果、改めて日本の命令を拒否して清の援軍を待つべきであるとの結論となり、4月9日、松田に対して命令を拒否する回答をした[177]。そのような中で松田らは旧藩王尚泰を上京させることが事態の改善に繋がると判断し、最優先に取り組むことにした[177]

尚泰の上京

[編集]

廃位された琉球藩王尚泰を上京さなければならない必要性は、まず尚泰は清の同治帝から琉球国中山王に冊封されているという事実から来ていた[178]。明治天皇は自らが冊封した琉球藩王の座を奪うことは出来ても、清の皇帝が冊封した琉球国王から退位させる権限はない。そこで尚泰を沖縄県外に移し、琉球国中山王としての実を無くして廃位と同様の状況下に置く必要があった[179]。また旧琉球の官吏たちは清の軍事介入を期待していた。清の介入を防ぐためにも尚泰の早期上京が望まれた[180]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 日本側が琉球の主権を主張した最大の根拠の一つが、琉球王国が薩摩藩に租税を納めるなど、琉球の内政を実効的に支配していたことであった。琉球王国は徳川幕府の将軍代替わり時に慶賀使を派遣していたが、一方中国にも進貢し、冊封を受けており、幕府へ派遣されていた琉球使節は中国側に対する主権の主張根拠とはなり得なかった[140]。なお日本側の租税重視の主張には、お雇い外国人の一人で日本の近代法整備に貢献したボアソナードからの助言があった[141]
  2. ^ 首里城にあった外交関連の文書は接収後東京へ移送され、内務省が保管することになったが、関東大震災でそのほとんどが焼失した[171]

出典

[編集]
  1. ^ 渡辺(2012)、pp.275-276.
  2. ^ 渡辺(2011)、pp.274-275.
  3. ^ 渡辺(2011)、p.285.
  4. ^ 渡辺(2011)、pp.286-288.
  5. ^ 渡辺(2011)、pp.289.
  6. ^ a b ティネッロ・マルコ(2017)、p.18.
  7. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.19-20.
  8. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.206-210.
  9. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.202-207.
  10. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、p.207.
  11. ^ 夫馬(1999)、pp.135-137.
  12. ^ 西里(2013)、p.32.
  13. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.209-210.
  14. ^ 上原(2016)、pp.468-469.
  15. ^ 波平(2014)、pp.124-125.
  16. ^ 波平(2014)pp.126-127.
  17. ^ 森(2021)p.297.
  18. ^ 波平(2014)pp.125-126.
  19. ^ 川畑(1993)、pp.198-199.
  20. ^ 波平(2014)pp.136-137.
  21. ^ a b ティネッロ・マルコ(2017)、pp.212-213.
  22. ^ 波平(2014)pp.148-149.
  23. ^ 波平(2014)p.137.
  24. ^ 波平(2014)pp.137-139.
  25. ^ 波平(2014)pp.139-140.
  26. ^ 波平(2014)pp.140-144.
  27. ^ 波平(2014)p.142.
  28. ^ 後田多(2016a)pp.249-250.
  29. ^ 後田多(2016a)p.250.
  30. ^ 後田多(2018)p.65.
  31. ^ 波平(2014)pp.166-167.
  32. ^ 波平(2014)pp.169-170.
  33. ^ 原口(1992)p.475.
  34. ^ 波平(2014)pp.144-145.
  35. ^ a b 波平(2014)pp.143-144.
  36. ^ 小沢(2011)pp.35-36.
  37. ^ 原口(1992)p.476.
  38. ^ 後田多(2016a)pp.257-261.
  39. ^ 原口(1992)pp.477-478.
  40. ^ 原口(1992)pp.479-481.
  41. ^ 原口(1992)pp.481-482.
  42. ^ 原口(1992)pp.490-491.
  43. ^ 原口(1992)pp.492-493.
  44. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.236-246.
  45. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.240-244.
  46. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.250-251.
  47. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、p.248.
  48. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.246-247.
  49. ^ 小沢(2011)p.37.
  50. ^ 原口(1992)p.479.
  51. ^ 原口(1992)p.485.
  52. ^ 波平(2014)pp.226-227.
  53. ^ 原口(1992)pp.479-480.
  54. ^ 原口(1992)pp.484-485.
  55. ^ 原口(1992)pp.485-486.
  56. ^ 原口(1992)pp.486-487.
  57. ^ 波平(2014)pp.227-228.
  58. ^ a b 原口(1992)p.487.
  59. ^ a b 波平(2014)p.228.
  60. ^ 原口(1992)p.488.
  61. ^ 波平(2014)p.101.
  62. ^ 波平(2014)p.132.
  63. ^ 波平(2014)p.159.
  64. ^ 波平(2014)p.164.
  65. ^ 波平(2014)pp.193-195.
  66. ^ 波平(2014)pp.201-202.
  67. ^ 波平(2014)pp.201-203.
  68. ^ 波平(2014)p.205.
  69. ^ 波平(2014)pp.205-206.
  70. ^ 波平(2014)p.206.
  71. ^ a b c 波平(2014)p.207.
  72. ^ 岡本(2017)p.80.
  73. ^ 波平(2014)pp.206-208.
  74. ^ 波平(2014)pp.207-208.
  75. ^ 岡本(2017)p.81.
  76. ^ 原口(1992)p.409.
  77. ^ 波平(2014)pp.228-229.
  78. ^ 原口(1995)p.412.
  79. ^ 原口(1995)pp.413-414.
  80. ^ 原口(1992)pp.414-415.
  81. ^ 原口(1992)pp.416-417.
  82. ^ a b c 波平(2014)p.231.
  83. ^ 原口(1995)pp.417-418.
  84. ^ 波平(2014)pp.231-232.
  85. ^ a b 波平(2014)p.233.
  86. ^ 波平(2014)pp.233-234.
  87. ^ a b 波平(2014)p.234.
  88. ^ a b 原口(1995)p.418.
  89. ^ 原口(1995)pp.418-420.
  90. ^ 原口(1995)p.419.
  91. ^ 原口(1995)p.420.
  92. ^ a b 波平(2014)p.235.
  93. ^ 小沢(2017)pp.23-24.
  94. ^ 原口(1995)p.428.
  95. ^ a b 波平(2014)pp.235-236.
  96. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.252-257.
  97. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.253-257.
  98. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、p.257.
  99. ^ a b 川畑(1993)p.216.
  100. ^ 川畑(1993)pp.218-219.
  101. ^ a b 波平(2014)pp.236-237.
  102. ^ a b c 後田多(2011)p.19.
  103. ^ 波平(2014)p.232.
  104. ^ 波平(2014)p.238.
  105. ^ 波平(2014)pp.239-240.
  106. ^ 波平(2014)pp.240-241.
  107. ^ 波平(2014)pp.241-243.
  108. ^ 波平(2014)pp.246-249.
  109. ^ 波平(2014)pp.250-251.
  110. ^ 波平(2014)pp.254-255.
  111. ^ a b 波平(2014)p.255.
  112. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、p.269.
  113. ^ 菊山(1993)pp.292-294.
  114. ^ 菊山(1993)pp.295-296.
  115. ^ 菊山(1993)pp.296-297.
  116. ^ 波平(2014)pp.255-256.
  117. ^ a b c 菊山(1993)p.298.
  118. ^ a b c 真栄平(2018)p.4.
  119. ^ 真栄平(2018)pp.4-5.
  120. ^ a b 真栄平(2018)p.5.
  121. ^ 菊山(1993)pp.297-298.
  122. ^ 菊山(1993)p.275.
  123. ^ 菊山(1993)p.276.
  124. ^ 菊山(1993)pp.276-279.
  125. ^ 菊山(1993)p.279.
  126. ^ 菊山(1993)pp.279-280.
  127. ^ 菊山(1993)p.280.
  128. ^ 菊山(1993)pp.280-281.
  129. ^ 菊山(1993)p.302.
  130. ^ 菊山(1993)pp.302-307.
  131. ^ 菊山(1993)pp.307-309.
  132. ^ 菊山(1993)pp.309-310.
  133. ^ 菊山(1993)p.310.
  134. ^ a b 波平(2014)p.256.
  135. ^ 真栄平(2018)p.6.
  136. ^ a b 岡本(2017)p.88-89.
  137. ^ a b 岡本(2017)p.416.
  138. ^ 波平(2014)p.294.
  139. ^ 波平(2014)pp.294-296.
  140. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.221-222.
  141. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.218-219.
  142. ^ 波平(2014)pp.296-297.
  143. ^ 波平(2014)p.297.
  144. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.269-270.
  145. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.270-272.
  146. ^ 波平(2014)pp.298-300.
  147. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.281-282.
  148. ^ ティネッロ・マルコ(2017)、pp.296-297.
  149. ^ 波平(2014)p.258.
  150. ^ 波平(2014)p.259.
  151. ^ a b c d 後田多(2011)p.16.
  152. ^ 波平(2014)pp.259-260.
  153. ^ 波平(2014)p.261.
  154. ^ a b 波平(2014)pp.262-263.
  155. ^ 波平(2014)p.263.
  156. ^ 波平(2014)pp.263-264.
  157. ^ 波平(2014)p.257.
  158. ^ 波平(2014)pp.264-265.
  159. ^ a b c d e f g 波平(2014)p.265.
  160. ^ 後田多(2011)p.17.
  161. ^ 後田多(2011)pp.16-17.
  162. ^ a b 後田多(2011)pp.17-18.
  163. ^ 後田多(2011)p.18.
  164. ^ 後田多(2011)pp.18-19.
  165. ^ 後田多(2011)pp.19-20.
  166. ^ a b 後田多(2011)p.20.
  167. ^ 波平(2014)p.266.
  168. ^ a b c 後田多(2011)p.21.
  169. ^ 波平(2014)p.267.
  170. ^ 波平(2014)pp.267-269.
  171. ^ 真栄平(2018)p.18.
  172. ^ 真栄平(2018)pp.16-18.
  173. ^ 西里、漢那(2016)pp.114-115.
  174. ^ a b 波平(2014)pp.270-271.
  175. ^ 波平(2014)p.270.
  176. ^ 波平(2014)p.268.
  177. ^ a b 波平(2014)p.271.
  178. ^ 後田多(2018)p.65.
  179. ^ 後田多(2018)pp.65-66.
  180. ^ 真栄平(2018)p.15.


参考文献

[編集]
  • 上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院、2016、ISBN 978-4-86602-957-3
  • 大里知子「沖縄文化研究」(38)、『「琉球処分」と歴史意識』 法政大学史学会、2012
  • 岡本隆司 『中国の誕生』名古屋大学出版会、2017、ISBN 978-4-8158-0860-0
  • 小沢洋輔「法政史学」(76)、『副島種臣外務卿期の対琉球藩政策』 法政大学史学会、2011
  • 小沢洋輔「法政史学」(87)、『外務省管轄期の対琉球藩政策』 法政大学史学会、2017
  • 川畑恵「沖縄文化研究」(20)、『「琉球処分」過程研究に関する一試論』 法政大学沖縄文化研究所、1993
  • 川畑恵「沖縄研究ノート」(18)、『琉球処分研究を振り返る』 宮城学院大学キリスト教文化研究所、2009
  • 菊山正明 『明治国家の形成と司法制度』御茶の水書房、1993、ISBN 4-275-01493-6
  • 後田多敦「沖縄キリスト教学院大学論集」(8)『「琉球処分」の再検討 「琉球藩処分」の理由と命令の構造』沖縄キリスト教学院大学、2011
  • 後田多敦「歴史と民俗」(36)『「曽根・児玉四月報告」と「在福州琉人談判ノ始末」 「琉球処分」時の福州琉球館と琉球人の動向を伝える史料』神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科、2016b
  • 後田多敦「新しい歴史学のために」(292)『明治日本の琉球国併合と王権』京都民科歴史部会、2018
  • 後藤新「法学政治学論究」(56)『「琉球処分」の基礎的研究』慶應義塾大学大学院法学研究科、2003
  • 高江洲昌哉「琉大史学」(18)、『「琉球処分」をめぐる研究史と若干の問題提起』 琉大史学会、2016
  • 田名真之「法哲学年報 2015」『琉球処分と旧慣温存』日本法哲学学会、2015
  • ティネッロ・マルコ 『世界史からみた「琉球処分」』榕樹書林、2017、ISBN 978-4-89805-192-4
  • 波平恒男 『近代東アジア史のなかの琉球併合』岩波書店、2014、ISBN 978-4-00-025983-5
  • 原口邦紘「西南地域史研究7」『外務省六等出仕伊地知貞馨と琉球藩上』西南地域史研究会、1992
  • 原口邦紘「西南地域史研究7」『外務省六等出仕伊地知貞馨と琉球藩下』西南地域史研究会、1995
  • 夫馬進 『使琉球録解題及び研究』榕樹書林、1999、ISBN 4-947667-60-5
  • 真栄平房昭「沖縄史料編集紀要」41、『琉球処分と軍隊・歴代宝案のゆくえ』沖縄県教育委員会、2018
  • 森謙二「茨城キリスト教大学紀要」(54)、『琉球処分についての考察1』 茨城キリスト教大学、2021
  • 森宣雄「歴史評論」(603)、『琉球は処分されたか』 歴史科学協議会、2000
  • 西里喜行「南島史学」(79・80)、『中琉関係史における尚泰の冊封問題(再論) 琉球側の対応を中心に』 南島史学会、2013
  • 西里喜行「琉大史学」(18)、『琉球処分研究史概要』 琉大史学会、2016
  • 西里喜行、漢那敬子「沖縄史料編集紀要」36『廃琉置県(琉球処分)関係の新資料紹介 俣野意見書・伊藤書翰とその周辺』沖縄県教育委員会、2016
  • 渡辺美季 『近世琉球と中日関係』吉川弘文館、2012、ISBN 978-4-642-03452-4
  • 琉球新報社 『「琉球処分」を問う』琉球新報社、2011、ISBN 978-4-89742-129-2