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利用者:ね子/sandbox

戦前の活動

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ウィリアム・アキスリングの伝道活動は1900年に米国バプテスト宣教師同盟の宣教師を婚約者であるルシンダと共に志願したことから始まる。その後、神学校を卒業したのちルシンダと結婚して日本を訪れた。アキスリングは戦前に2回来日している。

初めての来日は、宣教師を志願した翌年の1901年10月のことである。アキスリングは早朝の横浜埠頭に降り立ち、日本での生活をスタートさせた。その後、仙台を訪れて日本語を学習すると同時にバプテスト派の宣教師であるエフレイム・ジョーンズの活動を意欲的に手伝った。1904年5月には仙台から盛岡へと活動の拠点を移して定住した。そこでは日本人伝道者と交流しながら伝道方針の計画、飢餓対策などあらゆる活動に勤しむも、1906年に病気の為やむを得ず任期を終える前に帰国することとなった。

2回目の来日となったのは、病気で帰国したわずか2年後の1908年のことである。同年、米国バプテスト宣教師同盟は改編するなど、伝道方式が一変して新体制となった。その影響により日本での活動も見直され、福音伝道だけに留まらず教育事業といった社会的な役割を担う新たな活動方針へと重点を移した。そのうちの1つとなったのは、アキスリングが運営責任者として携わった東京中央会館の活動である。(1915年に三崎会館へと名称変更)東京中央会館は1913年に神田大火が原因で焼失し2年後に再建されるも、1923年に関東大震災によって再び焼失した。アキスリングは悲惨な状況の中、焼失した箇所を直ちに修理し、被害者を収容して診療所や託児所を設けるなど積極的に支援を行なった。さらにアキスリングは同年に日本基督教連盟名誉幹事に任命され、活動の幅を大きく広げた。関東大震災の翌年には、政府による要請に応えるように三崎会館の分館を建設し、宗教教育社会事業を立ち上げた。[1]

これらの事業と並行してアキスリングにとって初めての著作となる『前進途上の日本』が刊行された。これは当時まだ発展途上だった日本が徐々に進展していく様子を綴った内容となっている。

その他にもアキスリングは、満州事変による不況が発生した際に約6000人を三崎会館に宿泊させ、食事も無償提供するなど様々な奉仕活動を行い社会に貢献した。

アキスリングは1928年3月に財団法人関東学院の理事に就任し、理事長職も勤めた。しかし、就任の間に日米関係が次第に悪化したことによって1937年にアキスリングは理事長を退職することとなった。しかし、その後も、変わらず学校運営には支援の手を差し伸べ続け、終戦の2年前である1943年4月末まで理事には留まり関東学院を支援した。

その後、戦時体制はより厳しくなり、アキスリングは外国人収容所を経て同年の秋にアメリカへと送還された。


参考文献

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  1. ^ 沢野正幸『最初の名誉都民アキスリング博士:捕虜交換船での最後の男』燦葉出版社、1993年。 

・大島良雄執筆、杉山友美編集「W.Axlingと千葉勇五郎について」『Libpapy Talk』第44号(2016年4月):p.8-9。