利用者:ねをなふみそね/ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー
ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー(Al-Imam Muîn ad-Dîn Abu Zakariya Yahya ibn Sharaf ibn Marri ibn Hasan ibn Husayn ibn Hizam ibn Muhammad ibn Jumuah An-Nawawi)[1] (1233年-1277年 (631-676 A.H. soit 1233-1277))[2] (アラビア語: النووي) は、シャーフィイー法学派の法学者。イスラーム法学に関する諸見解を精選し、法学諸派の再編を行った。
生涯
[編集]幼少期
[編集]ナワウィーはヒジュラ暦631年ムハッラム月(西暦1233年10月ごろ)に、ディマシュクから南東に85キロメートル離れたナワー村で生まれた[3]。幼いうちからクルアーン暗誦の手ほどきを受け、敬虔さゆえに常ならぬものが見えるようになった。7歳のときのラマダーン月27日の夜、すなわち御稜威の夜(ライラトル・カドル)に起きた出来事を、商人であったナワウィーの父はこう語る。「私たちの隣で寝ていた坊やが夜中に目を覚まし、私たちを起こしてこう言ったのです『ねえ父さん、家中に満ちているこの光は何ですか?』と。家族全員が目を覚ましましたが、私たちには何も見えませんでした。あれは確かに御稜威の夜でのことでした。」[4]
ナワウィーが10歳になると、父は店の手伝いをさせたが、ナワウィーはクルアーンの学習と暗誦に没頭した。ヒジュラ暦7世紀の40年代のある日、ヤースィーン・イブン・ユースフ・ムッラーキーという名のシャイフ(le cheikh Yāsīn Ibnu Yūsuf Al-Murrākichiyy)が旅の途中でナワー村に立ち寄ったところ、ナワウィーがほかの子供たちから逃げているのを目にした。ナワウィーは、クルアーンを朗誦しながら、ナワウィーを無理やり遊ばせようとする子供たちから逃げていた。物知りなシャイフは「あの子の愛には実に感心した」とつぶやいた。そこでシャイフはナワウィーにクルアーンを教えている人物に会いに行き、ナワウィーに大いに関心を払ってくれるよう頼んでこう言った。「この子には将来、立派な大学者、スーフィーになってもらいたい、この子の人格形成に良い影響を与える人々の恵みあれ」と。驚いたナワウィーの先生はシャイフに「あなたは予言者ですか」と尋ねると、シャイフは「いいや、しかし、わしが今言ったことはアッラーがきっと明らかにしてくれることだろうて」と答えた[5]。ナワウィーの父親は、こうしたやり取りがあったことを知らされて以来、息子がクルアーンをすっかり暗記してしまう思春期ごろまで、特に目をかけて大切にナワウィーを育てた。また、その頃にはクルアーンの暗記と同時並行して、ナワウィーは、村のウラマーにつきしたがってフィクフ(法学)を学んだ。
ダマスクスへ行く
[編集]ナワウィーの父親は、息子の知的素質にほれ込んだヤースィーン師の説得にほだされ、息子をディマシュク(ダマスクス)へ連れて行った。ナワウィーはディマシュクで、ヒジュラ暦649年、18歳になる年までイスラーム諸学を学んだ[6]。
ナワウィーはウマイヤ・モスクの導師、ジャマール・アブドゥル・カーフィー(Jamāl ᶜAbd al-Kāfī, ヒジュラ暦689年没)のところへ行くと、導師はディマシュクのムフティーを務めるウラマー、タージュッディーン・ファザーリー(Tāj ad-Dīn al-Fazārī)、またの名をイブヌル・フィルカーフ(Ibn al-Firkāḥ)という人物にナワウィーを引き合わせた。ナワウィーはイブヌル・フィルカーフをディマシュクにおける最初の師として学問を学んだ[7]。
その後、イブヌル・フィルカーフはナワウィーをラワーヒーヤ学院(l’École ar-Rawāḥiyya)の校長、イマーム・キャマール・イスハーク・ブン・アフマド・マグリビー(l’imam al-Kamāl Isḥāq bin Aḥmad al-Maġribī)のところに託した。イマーム・キャマールはナワウィーに学院の建物に付属した小部屋をあてがった。小部屋は静かな環境であり、ナワウィーはヒジュラ676年に亡くなるまでの間、そこに住んだ。.[8][7]
巡礼
[編集]ヒジュラ暦651年に、ナワウィーは父とともにマッカへのハッジを行い、ディマシュクに戻った。ふたりがナワーの村を出たときからナワウィーが病気になり、アラファート(ᶜArafāt)の日(ズルヒッジャ月10日)までずっと体調が悪かった。にもかかわらず、父親によるとナワウィーはまったく苦しみを訴えなかった。ナワウィーはマディーナで一箇月半あまりを過ごした[9]。ダマスクスに戻ったナワウィーは知的に成熟し、イスラーム諸学をさらに深く学んだ。ナワウィーはシャイフ・ムッラークシーの弟子になり人生の新たな段階に立った。礼拝と禁欲と節制を厳しく守る生活は生涯続いた[10][11]。
卍
[編集]ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー(1233年 - 1277年)は、13世紀シリアのイスラーム法学者、ハディース学者[12]。ダマスクスに近いナワー村に生まれ、18歳よりダマスクスで学究の日々を送った(#生涯)。ナワウィーは、スンナ派シャーフィイー派の学統に連なり、同学派の見解に沿った法的判断の手引書の著作などで知られるが、40あまりの伝承を集めたナワウィーの注解付きハディース集『アルバイーン・ナワウィーヤ』は学派の違いを超えて広くムスリムに受容されている(#著作)。
生涯
[編集]「ナワウィー」という呼び名は出身地の村の名前から派生したニスバで、クンヤとイスムとナサブは、アブー・ザカリーヤー・ヤフヤー・ブン・シャラフという[12][13]。ナワウィーにはムヒッディーンのラカブがあり、敬意や尊敬を込めてムヒッディーン・ナワウィー[14]、イマーム・ナワウィー[13]と呼ばれることもある。
イブン・アッタール(1256-1324)というナワウィーの弟子で、ナワウィーより一世代下のダマスクスのウラマーが、ナワウィーの伝記(Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn)を書いている[15]。イブン・アッタールによると、ナワウィーはヒジュラ暦631年ムハッラム月(グレゴリオ暦1233年10月)に、ダマスカスの南にあるナワー村で生まれた[15]。
ナワウィーは18歳のときダマスクスへ行き、以後、そこで学究の日々を送った[12]。1253年にはメッカへの巡礼(ハッジ)を果たした[12]。以後、15年間ほどの間、ムフティーやカーディーなどの公職に就くことなく市井のウラマーであったが、1267年にアブー・シャーマ Abu Shāma という人物の跡を継いでアシュラフィーヤ・ハディース学院の長になった[12]。
旱魃の続いたある年、ナワウィーはダマスクスの街を代表して、マムルーク朝のスルターン、ルクヌッディーン・バイバルスに税負担の軽減を求めた[14]。バイバルスはこれに怒り、ナワウィーをダマスクスから追放させた[14]。バイバルスはその後まもなくして毒殺され、ナワウィーはダマスクスに戻った。
ナワウィーはヒジュラ暦676年ラジャブ月24日の水曜日に、故郷のナワー村の実家で亡くなった[12][13][15]。没年はグレゴリオ暦では1277年にあたる[13]。イブン・アッタールなど複数の史料には、ナワウィーが亡くなったという報せが翌木曜日中にダマスクスに届き、さらに翌日のウマイヤ・モスクにおける金曜礼拝では深い悲しみの中、ナワウィーに祈りが捧げられたことが記載されている[15]。
著作
[編集]ナワウィーの著作は少なくとも50点以上はある。代表的なものの一つ、『ミンハージュル・ターリビーン』(Minhaj al-Talibin, منهاج الطالبين وعمدة المفتين في فقه الإمام الشافعي)は、シャーフィイー派の見解に沿ったイスラーム法学入門書の古典とされている[13]。『マジュムー・シャルフル・ムハッザブ』(al-Majmu' sharh al-Muhadhdhab المجموع شرح المهذب)は、シャーフィイー派の見解に基づいて法的判断を行うための手引書であり、1899年にフランス語訳つき校定本が出版されている[12]。
『リヤード・サーリヒーン』(Riyadh as-Saaliheen, رياض الصالحين, 公正の庭)は、テーマ別に聖典クルアーンの章句を引用し、それに関連するハディースを示し、注釈を加えた実用的な宗教書である[16]。『アルバイーン・ナワウィーヤ』(al-arbaʿīn al-nawawiyya, الأربعون النووية)は、40あまりの伝承を集めた注解付きハディース集である[12]。本書は法学派の違いを超えて広くムスリムに受容されており、本書自体への注釈書もおびただしいほどの数、存在する[12]。
思想
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『ミンハージュル・ターリビーン』の書影 |
ナワウィーの人となりについては「深い知識があり、世俗を避け、多神教(munkar)を禁じ一神教(maᶜrūf)を勧めることをすべてのムスリムに奨励する、信仰の導き手」であったという評がある[13]。
ナワウィーはアシュアリー派神学を信奉し、『クルアーン』を解釈する際は信仰的側面を強調した[13]。
ナワウィーはまた、スルターン・バイバルスとの対立に見られるように、ときの為政者に妥協することなく慣行(スンナ)を重視する聖戦(ジハード)を行うことを唱道した[14]。ナワウィーの政治思想は、ダマスクスのウマイヤ・モスクで論陣を張ったスンナ派の「活動家的イマーム」(英: activist imams)へと受け継がれていく[14]。イブン・タイミーヤ(1263-1328)はそうしたイマームの代表的な人物である[14]。
脚注
[編集]- ^ (ar الحافظ محيي الدين أبو زكريا يحيى بن شرف بن مر بن جمعة بن حزام النووي المحدث الفقيه الشافعي الشهير بالنووي)
- ^ Une herméneutique de la tradition islamique : le commentaire des Arbaʻun al-Nawawiya de Muhyi al-Din Yahya al-Nawawi (m. 676/1277), Volume 13 de Recherches, Nouvelle série, Volume 13 de Recherches (Université Saint-Joseph (Beyrouth, Liban) Faculté des lettres et des sciences humaines), Auteurs Nawawĭ, Louis Pouzet, Éditeur Dar el-Machreq, 1982
- ^ (ar) Ibn al-ᶜAṭṭār, Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn, chapitre sa naissance et son décès, p.42.
- ^ (ar) Ibn al-ᶜAṭṭār, Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn, p.43.
- ^ (ar) Ibn al-ᶜAṭṭār, Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn, chapitre son émergence et le début de son apprentissage, p.44 et s..
- ^ (ar) ᶜAbd al-Ġanī ad-Diqr, L’imam an-Nawawī, p.25.
- ^ a b
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- ^ (ar) Ibn al-ᶜAṭṭār, Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn, chapitre son émergence et le début de son apprentissage, p.44-51.
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- ^ a b c d e f g h i Thatcher, Griffithes Wheeler (1911). Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 318. . In
- ^ a b c d e f g Ludwig W. Adamec, ed. (2009). "NAWAWI, YAHYA IBN SHARAF AL-". Historical Dictionary of Islam. Scarecrow Press. pp. 238–239. ISBN 0810861615。
- ^ a b c d e f Dekmejian, R. Hrair (1995). Islam in Revolution: Fundamentalism in the Arab World Contemporary issues in the Middle East (illustrated, reprint, revised ed.). Syracuse University Press. ISBN 0815626355
- ^ a b c d Ibn al-ᶜAṭṭār. “生涯”. Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn
- ^ Brown, Jonathan A. C. (2010). Hadith. Oxford Bibliographies Online Research Guide. Oxford University Press. p. 14