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たはた あきらこ 田畑 あきら子 | |
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生誕 |
田畑 明子 1940年12月14日 新潟県西蒲原郡巻町 |
死没 |
1969年8月27日 新潟大学附属病院 |
国籍 | 日本 |
職業 | 画家、詩人 |
田畑 あきら子(たはた あきらこ、1940年12月14日 - 1969年8月27日)は、日本の画家、詩人。
略 歴
[編集]1940(昭和15)年、12月14日、父、田畑譲良、母、シゲの二女として、西蒲原郡巻町に生まれる。本名、明(あきら)子。姉1人、弟1人があり、生家は祖父の代からの酒屋であった。
1947(昭和22)年、西蒲原郡巻町立巻小学校に入学。
1953(昭和28)年、西蒲原郡巻町立巻中学校に入学。在学中より詩作をはじめる。以後、死の間近まで断続的に書き続けた。
1956(昭和31)年、新潟県立巻高等学校に入学。美術クラブでは丸山清六の指導を受ける。
1959(昭和34)年、武蔵野美術大学洋画科に入学。山口長男、井上長三郎、麻生三郎に師事。
1963(昭和38)年、武蔵野美術大学洋画科卒業。
日米仏―美術・デザイン大学作品展に選抜され、卒業制作(「コンポジション」)を出品。
1964(昭和39)年、東京新宿の椿近代画廊でグループ展に参加。
1965(昭和40)年、4月より武蔵野美術大学図書館に司書として勤める。
国立で「げげんの会」グループ展に参加。
椿近代画廊で「げげんの会」グループ展に参加。
1966(昭和41)年、新潟市でのグループ展に参加。
1967(昭和42)年、3月、母の病状悪化のため、休職し看病にあたるも、7月に母死去。
9月に復職するとともに、素描、水彩、油彩の大作など憑かれたように制作に取りくむ。
1968(昭和43)年、4月1日~13日、東京銀座のサトウ画廊で、最初で最後となった個展を開催。
1969(昭和44)年、同年6月にサトウ画廊で2度目の個展を開く準備を始める。
3月、新潟大学医学附属病院で手術。胃癌の末期で余命3ケ月と診断される。
4月23日、一時退院するも、症状は悪化の一途をたどる。
6月26日、再入院。
8月27日、同病院で死去。享年28歳。
死後の評価
[編集]1970(昭和45)年、8月、「田畑あきら子遺稿集」が友人たちの尽力で刊行され、東京日本橋の田村画廊で遺作展が開催。
1971(昭和46)年、遺稿集が発端となり、8月27日~9月8日、イチムラデパート新潟店で「田畑あきら子遺作展」が開催。
晩年の素描類が、一括して新潟県美術博物館に収蔵される。
1976(昭和51)年、2月、「芸術新潮」での洲之内徹の連載随筆「気まぐれ美術館」に作家と作品が紹介。
1977(昭和52)年、7月4日~17日、巻町立郷土資料館で「田畑あきら子遺作展」が開催。
9月12日~10月8日、東京銀座のかんらん舎で「早逝の画家達 田畑あきら子展」が開催。遺稿集より抜粋の「田畑あきら子詩集」が発行され、あわせて「みづゑ」11月号に、吉増剛造「田畑あきら子の絵画(火だるまのなかの白い道)」が掲載。
10月24日~11月15日、新潟市の康画廊で「田畑あきら子展」が開催。
1987(昭和62)年、1月、新潟市美術館で「夭折の画家たち展」が開催。
1996(平成8)年、5月、ギャラリー川船(東京・京橋)にて「田畑あきら子展――絵画たちと言葉たち」が開催。
11月、新潟県立近代美術館にて「田畑あきら子展」が開催。
1997(平成9)年、8月、『白い雲の中へ――田畑あきら子詩画集』(新潟日報事業社)が刊行。