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二七山不動院(にしちざんふどういん)は東京都千代田区麴町にある仏教寺院である。
由来
[編集]江戸時代に旗本の桜井遠江之守の石仏不動明王を僧(松本民次郎)が27日の間断食して荒行したことから二十七不動尊と呼ばれるようになった[1]。
歴史
[編集]文久・元治の頃松本民次郎が、霊夢の中で石不動様から「京都泉湧寺の前住福海湛念より霊像をもらい受け、此処に安置したらどうだ」とのお告げを受けた。それから27日の間、断食水行をして祈願をし、その後湛念坊を訪ね尊像を懇請し帰庵した。それを小堂に安置し奉ったのが二七の不動様である。
明治43年1月15日より、戒厳尼が品川寺住職の仲田順海師の推薦を受け、二七不動院を守護することとなった[2]。
特徴
[編集]この不動尊の特徴は特定の人の信仰と被護によるものではなく、町内の人々によって守り続けられてきたという点である。
また、麴町には寺社が少なかったため、この不動を目当てに多くの人が集まった。縁日は多数の商人が出て、植木屋の夜店は大変賑やかになった。麴町が発展した背景にはこうした要因がある[3]。
その他
[編集]- 二七不動の境内にはキリシタン燈籠がおかれている。番町のある自宅から出土したもので、供養のために移したとされるが謎は多く、なぜこの場所にあるのかは不明である。都内の数少ない遺物で、貴重な文化財。
- 御朱印は、大正12年、関東大震災で焼失した二七不動が、再興した折に東郷平八郎が奉納した書の写し[4]。
東郷平八郎と二七不動尊
[編集]明治27年、「浪花」の艦長として日清戦争に出征することになった東郷元帥の武運長久を、母親が二七不動尊に祈願しお百度詣をしている。また、日露戦争で東郷元帥が勝利をおさめた明治37年の5月27日は、妻のテツが二七不動の御縁日であるこの日を満願の日と定め、毎朝出陣した兵の無事と勝利を祈願していた。
大正12年9月1日、関東大震災に見舞われたことで二七不動堂は全焼したが、御本尊の不動明王は無事だったため、大難を免れた東郷邸の正面玄関に奉納された。この御本尊は不動堂再建落慶の日まで八十余日もの間奉安されていた。その後、大正12年11月に東郷元帥は二七山に「南無大聖不動明王」と書いて奉納した。
毎年5月3日に開催されている二七不動火渡り修行の道場となっているのは東郷元帥記念公園である。(※平成17年以降は中止されている)[4]
参考文献
[編集]・ 『わが町あれこれ』千代田区富士見地区町会連合会、1981
・ 小笠原長生『思ひ出を語る』実業之日本社、1929 p86-89
・ 「二七山不動院 縁起と略歴」九段・二七山不動院発行
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