利用者:げえさん/sandbox1
アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson,1767年1月29日-1824年12月9日)は、フランス人の画家である。新古典主義を代表するルイ・ダヴィッドの弟子で、代表作に『エンデュミオン‐月の印象』や『洪水』がある。
アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson | |
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生誕 |
1767年1月29日 フランス モンタルジ |
死没 |
1824年12月9日 フランス パリ |
国籍 | フランス |
著名な実績 | 絵画 |
代表作 | 『エンデュミオン-月の印象』、『アタラの埋葬』、『洪水』 |
運動・動向 | 新古典主義、ロマン主義 |
影響を受けた 芸術家 | 新古典主義、ジャック=ルイ・ダヴィッド |
生涯
[編集]出生
[編集]ジロデは、1767年、フランスの首都パリより下方に位置するモンタルジで生まれる。ジロデは、良心を生まれて早くに亡くし、医師トリオゾンの養子となる。「トリオゾン」という名は、ジロデがこの育ての親である養父からとったものである。1773年より地元の師から美術の指導を受け、1780年まではパリにおいて、新古典主義派の建築家であるエティエンヌ・ルイ・ブーレーのもとで、建築を学んだ。1783年、ブーレ―の勧めにより、ジロデは新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドに紹介され、彼の画塾に入塾する。ルイ・ダヴィッドの画塾で成功を収めたジロデは、『ホラティウス兄弟の誓い』などを含む師匠が描いた大作の模写に没頭し、ダヴィッドが実践した新古典主義のスタイルから強い影響を受けた。
ローマ賞
[編集]1786年から1789年にかけてローマ賞に出品されたジロデの作品には、ダヴィッドの影響の名残りが見られる。1786年においてジロデはローマ賞1位を受賞することはなく、1787年にいたっては、審査委員であったフランソワ=グザヴィエ・ファーブルより不正があったと非難され、失格となる。ジロデはこの仕打ちに対して鮮明に不快感を露わにし、この出来事が後々彼を執念深い、傲慢な性格へと助長し、パトロンや仲間の画家との関係を難しくすることとなる。『タティウスの死』で1788年にジロデはローマ賞第二位を受賞し、翌年、『ヨセフと兄弟たち』でローマ賞1位を受賞した。
ローマへの留学
[編集]ジロデのローマのフランスアカデミーへの留学は1789年のフランス革命勃発によって延期となり、師匠のルイ・ダヴィッド同様、バスティーユ牢獄や革命の余波が残るパリの様子をキャンバスに描いた。1790年にイタリアに到着し、政治変動や病気による問題を抱えながらも、1795年までローマに滞在した。ローマへの美術留学中である1791年にジロデの作風は、大きく変化するのだが、1791年に制作した『エンデュミオン-月の印象』がその例を示している。本作品における月の光がもたらす非現実的で神秘的な印象は、ダヴィッドの技法から離れて、後々ロマン派へと傾倒してゆく前兆を見せている[1]。
フランス、パリへの帰国
[編集]1799年、当時有望な女優であったアン・フランソワーズ・エリザベス・ラングから肖像画を依頼されるも、モデルを前にしたジロデは制作の段階で口論となり、契約の資金が支払われないとわかると元の作品を破壊してしまう。代わりにジロデは、仕返しと中傷の意味を込めて、女優であるラングをギリシア神話に登場する女神ダナエに扮して描いた作品を、サロンにおいて展示した。18世紀の画家たちは肖像画を制作するうえで、神話に登場するキャラクターと合わせて描くことで、その人物を称揚した。反対にジロデは、ラングを中傷すべく寓意性をを持たせて、本作品を描いたのである。これは大きなスキャンダルとなり、ダナエの女優としてのキャリアを失墜させ、ジロデは画家としての面目を失うこととなる。また、本作品においてはダヴィッドの基準である絵画表現とはかけ離れて、ジロデはマニエリスム期に活躍したアーニョロ・ブロンズィーノの技法を採用しており、新古典主義との乖離の様子が窺える。
10年賞
[編集]1804年、ジロデはパリにおけるサロンで『洪水』という作品を展示した。ジロデは本作品の主題や表現を聖書に依拠したのではなく、あくまで自身の独創性に基づいて描いたと主張した。不必要に恐怖的な要素が強調されているとの批評を受けたものの、ミケランジェロの力強さとラファエロの優美さを併せ持つとして評価され、「十年賞」において師であるダヴィッドを凌いで、グランプリを勝ち取った。古典に価値を見出す正当な歴史画の手法とは相いれた、本作品や『フランスの英雄たちの亡霊を天に迎えるオシアン』を見たダヴィッドは、十年賞を逃したことと相まって「自分には絵画というものがわからなくなった」と述べている[2]。文学に造詣が深かったジロデは、シャトーブリアンの文芸作品に着想を得ると、『アタラの埋葬』を制作した。ジロデの絵画作品とと詞的で異国風なシャトーブリアンの作風は相性がよく、『アタラの埋葬』は1804年のサロンにおいて傑出していた[3]。
後年
[編集]ジロデによる大型の絵画制作は、1810年以降激減する。1815年には、養父である医師トリオゾンが亡くなり、ジロデは莫大な遺産を相続することとなった。これを境に、肖像画の制作が多くなるとともに、
作風
[編集]
ジロデがおかしいのか、自分には絵画というものがわからなくなった。
恵まれた才能を持ち合わせながら、彼(ジロデ)はこの先愚かな作品を除いて何も生み出さないだろう。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Harry Thurston, PechSelim Hobart PeabodyCharles, Francis Richardson(1900). The International Cyclopædia: A Compendium of Human Knowledge. Revised with Large Additions, Volume 6. Dodd, Mead & Co., p702.
- ^ 鈴木杜幾子『画家たちのフランス革命:王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』、KADOKAWA、2020年、422~423頁。
- ^ The dictionary of Art Volume