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利用者:くろとんこだ

兒玉光雄(被爆者)

{{Otheruses|hoge|スポーツ}}兒玉光雄(こだま みつお、1932年9月24日2020年10月28日)は広島市出身の被爆者。旧制中学1年生 だった12歳の時に爆心地から876mという至近距離で、校舎内で被爆した。307人の同級生のうち288人が被爆直後に死亡。兒玉も放射線障害により生死の境をさまよった。その後回復したが、60歳の時に大腸がんを発症し会社を退職。以来、胃がん、甲状腺がん、皮膚がんとの闘病を続けることとなった。

2008年、76歳の時に研究機関に血液を提供し、被爆の影響による染色体の異常が判明する。それ以降、主に放射線被ばくという視点から、被爆者としてのメッセージを積極的に発信すべきと考え、あらゆる機会と媒体を通じて訴え、記録も始めた。修学旅行生や医学部の学生、海外の人などに向けて、亡くなる数か月前まで証言を続けた。2020年10月28日、腎臓がんのため死去。88歳。

兒玉が訴え続けたのは「原爆の非人道性を知りたければ、私の染色体を見りゃあええ」「放射線は、こんなにむごいものだ」ということであった<ref>ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビューinterview.tsuguten.com/interview_kodama/</ref>


==被爆体験==

 兒玉は、空襲を避けて疎開していた旧戸坂(へさか)村から汽車で広島駅へ行き広島県立広島第一中学校(以下、広島一中)<ref>現・広島国泰寺高等学校</ref>に通学していた。1945年8月6日も、戸坂村在住の同級生とともに朝7時半ごろに登校した。

2年生以上は学徒動員のため、近くの軍需工場へ働きに出ていた。登校したのは兒玉ら1年生307人のみだった。その日は防火帯を作る建物疎開作業に当たることになっており、1組、3組、5組の奇数クラスが作業を開始した。この3つのクラスのおよそ150人は屋外で被爆し、全員が死亡することとなった。残りの偶数クラスは教室で自習をしながら作業を待機するように命じられた。6組の兒玉は待機組であった。

教員がいなかったため、教室は雑談する生徒で賑やかであった。しばらくするとB29が飛来する音がした。当時、降伏を促すビラなどが上空から撒かれていたため、兒玉は同級生とともに外へ出ようと、窓際の自席から反対側の廊下へ向かおうとした。その途中で、学校への持ち込みが禁止されている「少年倶楽部」という雑誌を見ている一団が目に入り、足を止めた。この一瞬が生死を分けたと、兒玉はのちに振り返っている。「わしにも見せてみい」と一団に割り込もうとしたその時、「巨大な黄金の火柱」が見え、気を失った。

どれくらいの時間が経っていたのかわからないが、激しい咳と嘔吐に襲われ意識を取り戻した。屋根や梁などの下敷きになっていたが、木材を割りながら何とか外に這い出ることができた。晴天だった空は夜のように暗く、瓦礫の下から「助けてくれ」という声が上がっていた。数人を助け出したものの、火災が発生し炎と煙でその場にいることは困難だった。自力で脱出した同級生の中には、兒玉と同じ窓際の席だったため、ガラスを浴びて全身裂傷を負っている者もいた。下敷きになっている同級生たちは、覚悟を決めたように「君が代」や学校の愛唱歌を歌い始めた。兒玉は謝りながら、その場を離れた。同級生の低い歌声は、兒玉の耳に終生残り続けることになった。

 その後、火災を避けながら市内電車が走る広い道路を目指した。道に横たわる死体や、やけどを負い、わが子を抱きながら息絶えようとする母親、眼球が飛び出た青年など、無数の重傷者を目にした。兒玉は塀の下敷きとなった中年女性に足を掴まれ、瞬間的に振りほどいて逃げてしまった。離れていく兒玉を見つめる女性の視線は心の傷となって生涯残ることになった。

 兒玉は戸坂村の疎開先に帰ろうと、放射線障害と思われる嘔吐を繰り返しながら駅を目指したが、この頃には真夏の太陽が照り付ける状態になっており、丹那駅の近くで意識を失った。気が付いた時には、見知らぬ家に寝かされていた。広島一中に通う3年生の甥をもつ女性が、一中の制服を着ていた兒玉を保護したのだった。この女性の親切がなければ、「道端で死んでいただろう。まさに地獄に仏だった」と兒玉は回顧している。

 徒歩と汽車で戸坂村に戻った時には深夜になっていた。戸坂駅の空は広島を焼く炎で赤く見えたという。兒玉は、涙を流しながら残してきた同級生に「すまん」と手を合わせた。


==放射線の影響==

兒玉が被爆した地点は爆心地から876メートル付近と推定されている<ref>広島大学・原爆放射線医科学研究所の調査により推定</ref>。校舎の中にいたため、降り注いだガンマ線や中性子線は減衰したものの、教室内には4.6グレイの放射線が降り注いだと考えられる。被ばくすると半数の人が死亡する「半致死線量」を超える値であった。

被爆から4日後、広島一中の様子が気になっていた兒玉は、親戚とともに広島へ向かった。しかし、広島駅に着くと気分が悪くなり、嘔吐を繰り返した。その後、頭髪が抜け、歯茎や目、鼻、耳の穴から出血、血便、血尿も出るようになった。小豆大の斑点が体中に広がり、40度を超える高熱が出た。大量の放射線を浴びた後に起こる急性障害であった。

兒玉と同じように校舎から脱出して帰宅した生徒の多くが、急性障害で命を落としていたことが、のちに分かっている。<ref>兒玉さんの同級生、原邦彦さんのご努力で判明した事実</ref>

兒玉は危篤に陥り、医師から「棺桶を用意した方が良い」と言われたが、母はドクダミの葉で煎じ薬をつくり、徹夜の看病を続けた。

ようやく危険な状況を脱したのは9月中旬であった。しかしその後も頭髪は伸びず、胃腸の不調に悩まされることになった。

 健康を回復したと感じたのは、被爆から数年後だという。その後、原爆を生き延びた同級生は、十代後半から血液の異常やがんなどで次々と亡くなっていくが、兒玉は「自分は大丈夫」と言い聞かせた。原爆のことは考えたくないと、被爆者健康手帳も敢えて取得しなかった。

 異変が起きたのは被爆から48年が経った60歳の夏だった。人間ドックで大腸がんが見つかり、30から40センチ切除する手術を受けた。

 63歳の時、胃壁にできたポリープの先端ががん化。65歳の時、右頬にできた小さな腫瘍が「基底細胞上皮腫」と診断された。この皮膚がんが、背中や頭部になど全身で見つかるようになった。驚いた医師が「放射線関連の技師などをされていたんですか」と尋ねるほどだった。70歳のときには甲状腺がんの手術を受け、甲状腺機能低下を防ぐ薬を一生飲み続けることになった。

兒玉のがんは「転移」ではなく、それぞれの器官の細胞ががん化したものだった。放射線を全身に浴びたために、体中の細胞が損傷を受けたためと考えられる。「重複がん」あるいは「多重がん」と言われ、至近距離で被爆した人に多い事が分かっている。

この間、同級生たちも次々とがんで亡くなっていき、兒玉は自分の病気が被爆の影響であることを自覚するようになっていった。

76歳の時、兒玉はABCCの後身である放射線影響研究所を訪れ、染色体の検査を受けた。100個の細胞のうち102個で「転座」<ref>人の染色体は23組あり、それぞれ形が異なる。転座とは、ある染色体の一部が切断され、他の染色体と結合し形を変える事を言う。兒玉の場合は、放射線によって染色体が切断されたと考えられる。</ref> と呼ばれる異常が見られた。転座は加齢などによっても起こるが、多くても2~3個で、兒玉の異常数の多さは研究者も驚くほどであった。「回復の見込みはない」と告げられた兒玉は、ショックを受けながらも「私のような人間を二度とこの地球上で創らせてはいけない」という強い決意から、「被ばくの怖さの実相を、生かされている限りは世の中に伝え続けていきたい」と確信した。

84歳の時に腎臓にがんが見つかる。手術を見据えて検査をしたところ骨髄異形成症候群(MDS)と診断される。被爆の影響により骨髄で正常な血液をつくることができなくなったと見られ、血小板が異常に少なかった。このため、手術を断念することとなった。

兒玉ががんと診断された回数は22度に及んだ。


==経歴==

1932年(昭和7年)9月24日広島市荒神町で生まれた。父・静人は逓信局の電話技手、母・菊子は和服の仕立てをしながら技術を教える教室を開いていた。光雄は長男で、2歳下に妹の啓子がいる。


1938年(昭和13年)、父が日中戦争に出征。


1939年(昭和14年)4月、比治山尋常小学校に入学。成績は優秀で度々級長をしていた。


1945年(昭和20年)4月、県下一の名門と言われた広島一中に進学。

6月、空襲を避けるため兒玉家は市内から旧戸坂村へ移り、父の友人宅の離れを借り疎開生活を始めた。

8月6日、兒玉ら1年生は、防火帯をつくる建物疎開の作業のため登校した。6クラスのうち、3クラスずつが交代で作業にあたり、兒玉らは教室で待機していた。原爆によって校舎は倒壊、兒玉は自力で脱出し、数人の同級生を助け出した後、夜に戸坂村へと戻ったが、放射線障害に倒れた。

秋ごろに、小学校の校舎を借りて授業が再開され、兒玉は復学したが、被爆の影響で頭髪が抜け、下痢と食欲不振に悩まされた。

1946年(昭和21年)、兒玉は父の実家がある向原町に転居し、汽車通学となる。食料不足やインフレに加え、農地改革によって兒玉家は農地を失った。この時の「飢え」の記憶が、後の進路に影響を与えることになる。


1947年(昭和22年)、アメリカが設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)<ref>ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)は原爆が人体に与える長期的影響を 調査するため、アメリカが広島と長崎に設置した研究機関である。後に放射線影響研究所になり、日米合同の研究機関となり、現在も被爆者の調査を行っている。詳しくは。若尾祐司・木戸衛一編『核と放射線の現代史 開発・被ばく・抵抗』(昭和堂)の 第二章「ABCCの被爆者調査」を参照のこと。</ref>により広島一中からジープで連行され、様々な検査を受ける。その後、麻酔なしで骨髄を採取され、その痛みと憤りから、ジープが来ると隠れて二度とABCCには協力しなかった。


1948年(昭和23年)、新たな学制「6・3・3制度」が始まり、広島一中は鯉城高校と名称が変わった。兒玉は美術部に入部。画家になる夢を抱く。


1951年(昭和26年)、学区制の導入により編入していた向原高等学校を卒業。美術大学への進学を望んだが挫折。

その後、逓信局を退職した父が自宅で養鶏を始めた。画家への道に迷いを感じ始めていた兒玉は、畜産や酪農に関心を抱くようになる。終戦直後の「飢え」を思い出し、朝鮮戦争の特需景気に沸く日本の食卓を豊かにしようと志し、画家の道を断念した。


1953年(昭和28年)、広島大学水畜産学部に入学。学部長の山根甚信教授が述べた「乳と蜜の流るる郷」という言葉に感銘を受け、向原町のあり方を変えるのは自らの使命だと感じた。


1957年(昭和32年)、広島大学を卒業。卒論は「反芻獣における粗繊維の給与形態が消化率に及ぼす影響について」。向原町役場に就職し、産業育成等の業務に取り組んだ。


1961年(昭和36年)5月、桝川美恵子と結婚。若者に先進農業を学ばせる農林省の外郭団体による海外農業研修事業を知り応募。


1962年(昭和37年)、スイスでの研修に出発。ヨーロッパ各地を回りながら、牧場経営、酪農、畜産、ハムやチーズ作りを学ぶ。


1963年(昭和38年)、1年8か月の研修を経て帰国。


1966年(昭和41年)5月、父・静人死去。向原町の農協が経営する大草田牧場の牧場長に就任。


1970年(昭和45年)、人間関係の軋轢から牧場長を辞職。向原町を離れる。

関西に移り住み、西武化学工業に就職。その後、西武都市開発に転籍。


1982年(昭和57年)、沖縄事業所長として石垣島や西表島の開発に従事。

この間、妻・美恵子の勧めで、初めて「被爆者健康手帳」を取得。その後、美恵子の病気治療のため、東京へ転勤。


1986年(昭和61年)、美恵子死去。その後、広島へ転勤、海岸地区の再開発や空港建設に、現地事業体の役員として取り組む。


1992年(平成4年)、原田淑子と再婚。還暦を機に受診した人間ドックで大腸がんが見つかる。手術後、1日十数回もトイレに駆け込む状態となったため退職した。


1995年(平成7年)、胃がんを手術。


1997年(平成9年)、皮膚がんを手術。その後、皮膚がんが度々見つかるようになる。


1998年(平成10年)、知人の勧めで、平和記念資料館による「被爆者証言ビデオ」で証言。


2002年(平成14年)、甲状腺がんを手術。


2005年(平成17年)、NHK広島放送局制作のNHKスペシャル「被爆者 命の記録」の取材を受ける。度重なるがんが、至近距離で被爆した人に多い「重複がん(多重がん)」であることを知る。


2008年(平成20年)、ABCCの後身である放射線影響研究所で検査を受け、染色体の異常を知る。その後、証言活動に精力的に取り組む。


2010年(平成22年)、公益財団法人・広島平和文化センターの「被爆体験証言者」となる。船で世界一周する「ピースボート」に参加し、各国で証言活動。フランスの「ル・モンド」

紙の取材を受ける。


2011年(平成23年)、広島市立基町高校の生徒に体験を語り、「原爆の絵」を制作する取り組みに参加。


2013年(平成25年)、広島市の被爆体験伝承者養成事業に証言者として参加。被爆者に代わって体験を伝える伝承者の育成に取り組んだ。2年間の研修を受けた1期生~5期生が兒玉の伝承者となり、活動している。


2016年(平成28年)、ハワイで催された北米放射線影響学会で講演。


2017年(平成29年)、腎臓がんと骨髄異形成症候群(MDS)を発症。


2020年(令和2年)7月、広島大学医学部の学生に向けた講義を収録。これが最後の証言となった。


10月28日、左腎細胞がんのため死去。享年88。


==人物==

広島一中でともに被爆した同級生たちは、血液の異常やがんなどで早世していった。兒玉は、被爆のことは極力考えないように生きていたが、根底には「原爆に負けてたまるか、なにくそ」という気持ちがあったという。

60代となり度重なるがんに苦しむようになってから、「死んでいった同級生のために、何もしてこなかったバチが当たった」と思うようになり、どのように生きるかを深く考えるようになったという。

さらに、兒玉と同じ重複がんで同級生が亡くなっていく中で、「死んでいった仲間の事を伝えるために生かされている」と感じるようになった。70歳を過ぎてから、自らの体験や若くして亡くなっていった友人の事を、広島を訪れる修学旅行生やメディアに語るようになった。

証言の際、兒玉は身の回りの事実をていねいに語って、悲しみや苦しみを表に出すことはなかった。事実を知ってほしい、伝えたいという思いからだった。

人柄が明るく朗らかで、証言を聞いた人や兒玉の体験を「原爆の絵」として描いた高校生、マスコミ関係者など多くの人から慕われた。

ヨーロッパ留学の際に覚えたワイン、チーズをたしなんだ。俳句や書に凝り、向原の実家では鯉や蜜蜂を育てるなど、多趣味だった。

 学生時代から語学が得意で、英語、ドイツ語を話した。


==発言==

・「核と人類は共存し得ない」 <ref>2013.8.5東京新聞1面「筆洗」</ref>


・「人間の骨の髄まで傷めてしまう、この放射線のむごさ、これを私は訴え続けているんですから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の地獄絵の世界が、ただ、いちばん悲惨だ、悲惨だというよりか、人間の生態系、もっと極論すれば、人間の生殖機能そのものを破壊してしまう、ああいう染色体の状態を知ってこそ、本当に人間が人間でなくなる状態を私は知ってほしいと思って訴えている」

<ref>NHK戦争証言

www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130277_00000</ref>


・「私のような人間を二度とこの地球上で創らせてはいけない」と言う強い決意から「核被曝の怖さ」の実相を、生かされている限りは世の中に伝え続けていきたい。<ref>兒玉光雄著『被爆者 ヒロシマからのメッセージ』p.54 </ref>


・「地獄を見せつけられた原爆に、その後の人生まで支配されてたまるか!」<ref> www.shinchosha.co.jp/book/352861/</ref>


・「彼ら(死んでいった同級生たち)はまだ冷たい石の下で苦しみよる。それを知らんもんがまだおる。全部あからさまになるようにならんもんかのう」<ref>2020年7月26日、広島一中(現在の国泰寺高校)での慰霊祭に車いすで参加した際の発言。</ref>


==被爆体験などの発表とそのメディア==

・自作のホームページで被爆体験を発信した。

「被爆者・ヒロシマからのメッセージ」www.geocities.jp/mk32924

「被爆者・命の記録」plaza.rakuten.co.jp/kinokogumo/

plaza.rakuten.co.jp/kinokogumo/diaryall/


・NHKスペシャル 「被爆者 命の記録」

NHK広島放送局制作。2005年8月6日放送。この放送への出演について兒玉は、「被爆体験と闘病経歴を赤裸々に語ることで、次世代伝承のお役に立てるならば」とカメラの前に立つ決意をした。第32回「放送文化基金賞」を受賞。


・広島大学文書館『原子野を生きのびて』

広島大学文書館が行うオーラル・ヒストリー事業で「日常の中の被爆」プロジェクト第1集に選ばれた。インタビューは平成19年10月14日にスタートし、計6回、月1回のペースで広島大学文書館にて行われた。インタビュアーは広島大学文書館長・小池聖一氏、大学史資料室長・小宮山道夫氏、そして谷整二氏である(肩書は当時)。


・「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」

2015年から被爆者や平和活動を行っている人へのインタビューに応じ、発信している。兒玉は2018年8月2日「語り継ぐVol.14」に掲載された。

<ref>interview.tsuguten.com/interview_kodama/</ref>


・広島平和記念資料館 被爆者証言ビデオ

 <ref>hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=14775</ref>


・NHK戦争証言アーカイブス 「がれきの下から聞こえた歌」

<ref>

www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130277_00000</ref>


・「次世代と描く原爆の絵」

広島市立基町高等学校の「創造表現コース」の生徒が、被爆体験者から体験を聞きながら描いた「原爆の絵」。兒玉は 2011年からこれに参加し、5枚の絵が完成した。

<ref>hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=14775

</ref>


・2010年の「ピースボート」寄港先での証言

4月20日厦門大学にて<ref>hibakushaglobal.net/2010/04/21/3-0421</ref>

 6月2日アウシュビッツにて <ref>hibakusyaglobal.blog.fc2.com/blog-entry-179.html</ref>

新聞記事 <ref>hibakushaglobal.net/2010/09/27/3-0927</ref>


・兒玉光雄著『被爆者・ヒロシマからのメッセージ』2014年 非売品


・兒玉の上記著書を英訳した『HIBAKUSHA』 非売品


・『異端の被爆者 22度のがんを生き抜く男』(2019年 新潮社)

 NHKの横井秀信が、兒玉への取材をもとに生い立ちや被爆体験、数々のがんとの闘病を記録した。


==関係者==

中村 典 放射線影響研究所顧問。元放射線影響研究所遺伝学部長。2006年に施設を訪ねた兒玉に丁寧に応対。2008年に染色体の検査を行った。兒玉は学生時代にABCCでの体験からその後身である放射線影響研究所にも不信感を抱いていたが、中村の心配りある態度と応対に感銘を受け、「わだかまりが解けた」と語っている。


太田昌克 共同通信社編集委員・論説委員。広島支局時代以来のテーマである核兵器の問題

を取材し続ける核の問題に詳しいジャーナリスト。兒玉は核について多くの教えを受けた。

又、太田も兒玉から原爆と放射線に関する多くの教えを受けた。

早稲田大学客員教授、博士(政策研究)。著書は『核の大分岐――既存秩序の溶解か新規秩序

の形成か』(2021年、かもがわ出版)『日米中枢9人の3.11――核溶融7日間の残像』(2022

年、かもがわ出版)など多数。


橫井秀信 NHKプロデューサー。2005年8月6日放送のNHKスペシャル「被爆者 命の

記録」の取材で兒玉と出会い、広島一中で被爆し一命をとりとめた同級生18人の足取りを

ともにたどった。2019年に兒玉の半生を記録した『異端の被爆者 22度のがんを生き抜く

男』(新潮社)を執筆した。


兒玉淑子 平成4年兒玉光雄と再婚。翌年、兒玉に大腸がんが見つかり手術。以来、薬膳料

理を学び、漢方薬を求めて中国に渡るなど、兒玉の体質改善に奔走した。皮膚がんについて

は、初期の異変のほとんどを発見している。

自身も入市被爆しており、兒玉の活動を支えた。28年間の結婚生活で兒玉と共にがんと

闘い、献身的なサポートを最後まで果たした。

多田直彦 兒玉の義弟。被爆体験をホームページで発信する際などに協力した。兒玉は「パ

ソコンのお師匠さん」と頼りにしていた。


==脚注==

<references/>

{{Reflist}}

兒玉光雄(被爆者)会話) 2022年10月25日 (火) 01:23 (UTC) [[User:くろとんこだ|くろとんこだ]] ([[User talk:くろとんこだ|<span class="signature-talk">{{int:Talkpagelinktext}}</span>]])