利用者:かず坊/作業用/国鉄20系客車(形式)
形式
[編集]新造形式
[編集]原則として車両番号は製造メーカーで区別され、下2桁が1 - 49は日本車輌製造、51 - 99は日立製作所となっていたが、のちに例外が生じた[1]。なお、日立は1963年の「みずほ」用を最後に製造から撤退したため、大部分が日車製である。
おおむね共通の設計で製造されたが、食堂車と個室寝台車のナロネ20については内部デザインを各社に委ねる形となった。日立製の食堂車は斬新なデザインで外部からの評価は高かった。
寝台車・座席車・食堂車・その他の順に記述する。
ナロネ20形
[編集]1958年に製造された1人・2人用一等個室寝台車。下り方は中央に通路を挟んで1人用個室「ルーメット」が10室あり、内部は腰掛と補助腰掛があり、寝台は壁に垂直に埋め込んであるものを腰掛上に倒して用いる構造。上り方は2段式2人用個室が4室設けられていた。そのうちの東京よりの2室は仕切り壁を折りたたむことにより4人用として利用できた。
各室とも洗面台・電気カミソリ用コンセントが設置されており、さらに洋式トイレが2カ所、荷物保管室、給仕室が設置されているなど、「走るホテル」の名にふさわしい設備を誇った。登場時の等級は全車2等A寝台。1・2・51の1次車3両が製造されたのみで、終始品川客車区(後の品川運転所。現在は閉所)所属で「あさかぜ」専用で使われた。
1975年に運用を外され、1976年までに形式消滅した。
ナロネ21形
[編集]1958 - 70年にかけて製造されたプルマン形開放式一等寝台車。通路を挟んで2段の寝台が線路方向に28人分設置、喫煙コーナーも設置されていた。そのほかに、給仕室・荷物保管室・和式。洋式トイレが設置されていた。
一等寝台としては標準的な仕様であり、1 - 4・51 - 55・101 - 147・151 - 153の59両が製造された。100番台は「みずほ」にナロ20形の連結がなされなくなったため、基本番台からレイアウトを変更し、給仕室を専務車掌室に、荷物保管室を給仕室へ変更したものである。また、荷物保管室の給仕室への変更に伴い、730mmの小窓を設置した。後に基本番台も1969 - 1970年にかけて、大船工場にて100番台と同様に専務車両室の取り付けなどの改造が行われ、500番台に改番された。のちに一部が座席車ナハ21形に改造されている。
1978年に形式消滅した。
ナロネ22形
[編集]1959 - 63年にかけて製造された1人用個室・開放式合造一等寝台車。1959年の「平和」を改称した「さくら」の運行開始にあたり登場。下り方はナロネ20形と同じ1人用個室を6室設置し、喫煙コーナーを挟んで上り方には開放式の寝台が16人分設置されていた。1 - 3・51 - 55の8両が製造され、「さくら」のほか、東京 - 九州ブルトレ各列車に連結された。
1969 - 1970年にかけて乗務員室を専務車掌室に、荷物保管室を乗務員室をハシゴ置き場に、乗務員室に730mmの窓を新設する改造が大船工場にて行われた。改造によって、その全車、原番号+100となった。
ナロネ20形同様、終始品川客車区所属でであったが、「はやぶさ」が24系客車に置き換えられ、オロネ25形が製造されると引退し、1978年に形式消滅した。
ナハネ20形
[編集]1958 - 70年にかけて製造された二等寝台車。車内は側廊下式の3段式寝台が9ボックス54人分並ぶ。寝台の幅はナハネ10形と同じ520mmであるが、冷暖房完備で快適性に優れていた。車端部の和式便所が2室と洗面台は3基が、出入り口付近に給仕室が設置されている。
1 - 49・51 - 91・101 - 149・201 - 249・301 - 364と本系列中最多の253両が製造された。1968年にナロ20形のうち6両を小倉工場と幡生工場にて当形式へ改造、501 - 503・506 - 508と区分された。また、1971年には土崎工場にてナハフ20形のうち3両を当形式へ改造、510 - 513に区分された。1972年にはナハフ20形2を改造し、513とした。1978年には急行用として12系との併結を可能にするために改造を実施し、1000番台・2000番台が誕生した。
1000番台は、1978年に幡生・高砂・月崎の3工場で改造が行われ、変圧器の取り付け・ジャンパ連結器の交換などが実施され、改造された車両は原番号+1000とされた。2000番台は、1978年に大宮・高砂・幡生の3工場で改造が行われ、戸締め装置と車側灯が新設された。改造された車両は原番号+2000とされた。
1984年には、団体臨時列車「ホリデーパル」用に幡生で5両が改造され、700番台に区分された。(701 - 705)
これらの車両は、JRに継承されたが1997年までに形式消滅した。
ナハネフ22形
[編集]1964 - 70年にかけて製造された二等寝台緩急車。全車寝台化の方針変更により、ナハフ20形に代わって製造を開始した。ナハフ20形と同様に非貫通式となっており、車掌室と展望室が設けられている。寝台はナハネ20形と同様の3段式が8ボックス48人分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置されている。1 - 26が日本車輌製造のみで新造されたほか、ナハフ20形から5両が改造され500番台に区分された。なお、ナハフ20形からの改造車は車体を新製しており差異はない。
1978年には急行用として12系と併結するための改造が、大宮・高砂・幡生の3工場で行われた。改造された車両は、原番号+1000とされ、1000番台として区分された。ナハネ20形と同様に戸締め装置と車側灯が新設されたほか、車掌室と業務用室に車掌スイッチを取り付けた以外変化はない。
1984年には、団体臨時列車「ホリデーパル」用に幡生工場にて1両が改造され、701と改番された。
JRに継承された車両も1996年には廃車となり、同年に形式消滅した。
ナハネフ23形
[編集]1964 - 70年にかけて製造された二等寝台緩急車。ナハフ21形同様、編成分割を前提としているため切妻・貫通式となっている。寝台はナハネフ22形と同様の48人分だが、ナハフ21形にあった売店はない。1 - 20が日本車輌製造のみで新造された。
1968年にはナハフ21形(54 - 56)を高砂工場にて改造し、500番台とした。(501 - 504)500番台は、切妻貫通型の部分を新製しており、基本番台と外見はほとんど変わらない。1978年には、「だいせん」用として12系と併結するための改造が大宮・高砂・幡生の3工場で行われた。改造された車両は、1000番台として区分されたれ、ナハネフ20形1000番台と同様に戸締め装置と車側灯が新設、車掌室と業務用室に車掌スイッチを取り付けられた。
JRに継承された車両も1997年までに廃車にされ、同年に形式消滅した。
ナロ20形
[編集]1958 - 60年にかけて製造された一等座席車[2]。20系は当初全車寝台ではなく一部を座席としていたため設定された。当形式は全席がリクライニングシートを備え、定員48名。座席部分の床が通路よりも100mm高くなった構造になっていたほか、白熱灯を使ったスポットライト式の読書灯を1席分毎に設けていたのも特徴である。出入り口付近に、洋式便所・洗面台・荷物保管室・車掌を、前位よりに和式便所・洗面所が設けられていた。
1 - 5・51 - 54の9両が製造されたが、1968年に3両を残してナハネ20形に改造され、ナハネ20形501 - 503・506 - 508となった。残った3両はナロネ20形とともに「あさかぜ」に1975年まで連結され、1976年に形式消滅した。
ナハ20形
[編集]1958年に製造された二等座席車。ナロ20形と同様の座席車。回転式クロスシートを装備、定員は64名。座席部分の床はナロ20形と同じく100mm高くなっている。また当形式は、国鉄としては初の売店設置車両。売店にはショーケースが設置され、弁当・土産・新聞などを販売した。また、その向かいには電気式のジュースクーラーと物置を設置した。また、ホームからの物品の搬入の便を図るために、物置と売店の側面に鋼鉄製の扉が設置された。
回転式クロスシートは車両基地などでの転換を想定していたもので、デビュー当時は乗客が任意に回転させることはできなかった。1・51・52の3両が製造されたにとどまり、「あさかぜ」以降は1964年運転開始の「はくつる」に連結された。運用移管によって、1966年に尾久客車区(現・尾久車両センター)に異動。
1971年にナハネ20形 510 - 512に改造され、形式消滅した。
ナハフ20形
[編集]1958 - 59年にかけて製造された二等座席緩急車。最後部に連結される非貫通式・流線型の緩急車で、最後部は半分が車掌室、半分は展望室として乗客に開放されていた。客室はナハ20形に順じており、定員は68名。1 - 6・51 - 53の9両が製造されたが、1 - 3と51・52は当時の製造技術面の問題で妻部の窓ガラスが平面4枚窓、それ以外は曲面ガラス2枚窓が採用された。「あさかぜ」用では腰掛けを単独で回転させることはできなかったが、「さくら」用からは背ずりをおこすことにより回転させることができる構造になった。
1965年以降寝台車に改造され、ナハネフ20形に3両、ナハネ20形500番台に1両、ナハネフ22形500番台に5両が改造され形式消滅した。
ナハフ21形
[編集]1959 - 63年にかけて製造された二等座席緩急車。編成中間に挟み分割併合に対応するため、切妻・貫通式とした形式。「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の基本編成に使用された。客室はナハ20形に準じ、定員は60名。売店も設置された。1 - 4・51 - 56の10両が製造されたが、1965年以降ナハネフ21形に6両、ナハネフ23形500番台に4両が改造され形式消滅した。
ナシ20形
[編集]1958 - 70年にかけて製造された食堂車。厨房は完全電化され、冷蔵庫や電気レンジが設置されるなど近代化された。食堂部分は通路を挟んで片持ち式の4人掛けのテーブルが設置され、定員は40名。1 - 29・51 - 57の36両が製造された。
食堂満席時に待合室となる喫煙室は、営業終了後は座布団と背ずりを引き出して従業員用の寝台とした。また、車端部には公衆電話設置のための準備工事が行われ電話室が設置されていた。1968年以降に製造された車両(17 - )は、電話室を車内販売準備室に変更し折りたたみ式のテーブルを設置した。
日車製と日立製で内装に違いがあるのが特徴である。
- 日車製は、照明は中央と窓側にカバー付の蛍光灯を照らす方式、冷房の吹出口は連続タイプ、食堂と厨房の仕切りは営団地下鉄6000系などで採用されたキノコ形貫通路に似た形状の比較的シンプルなデザイン。
- 1968年以降の増備車である17 - 29では、食堂部分のテーブルが跳ね上げ式になり、椅子のFRP化、蛍光灯が中央部のみになるなどのモデルチェンジが行われた。外観では厨房部の業務用扉が外吊り式になり、将来の列車電話の使用を見越して設置されていた電話室が実際の使用実績がなく、以後の計画もないため車販準備室に変更された。そのため該当部分の窓が廃止された。
- 日立製は照明は間接照明とダウンライトを使用、冷房の吹出口はビルに多く見られる円形のもので、食堂と厨房の仕切りは円弧を描いたモダンなデザインであった。
1978年の「あさかぜ」編成の置き換えより定期列車から撤退し、24系の増備により1980年前後には全車が休車となった。しかし財政管理の都合上、国鉄分割民営化直前まで車籍を残していた車両もあった。1987年に全車廃車となり形式消滅した。
マニ20形
[編集]電源荷物車。1958年に最初に製造された電源車。全長17,500mm、自重40.6t。250kVAのディーゼル発電機を2基搭載している。計画段階では、スニ20形とされていたが防音対策の強化による重量増ためマニ20形となった。荷重3tの荷物室を設置していることから、形式の分類は荷物車を示す「ニ」が与えられている。荷物車用扉は、一般的な引き戸ではなく、上昇式の巻き上げシャッターを採用している。
全長が短く、新聞輸送に対して荷物室も小さいためカニ21形に置き換えられ、1・51・52の1次車3両のみの製造にとどまった。主に荷物需要の少ない「はやぶさ」「さくら」などで使用された。1968年に青森に転属した際には、寒冷地仕様への改造・荷物室への明かり窓の追加などの改造をうけている。1977年に全車廃車で形式消滅。
カニ21形
[編集]電源荷物車。1959年の2次車から登場。新聞輸送の急増のためマニ20形の全長を20,000mmに延長し、荷物室を5t積みに拡大。自重が43tになったため、記号も「カニ」になった。機関室にも明かり窓がもうけられている。また、燃料タンクも700L×1個に変更されている。
1970年増備の3両(123 - 125)は電源装置の無人運転に対応するため遠隔自動制御装置が装備されており、基本番台の続番+100という車番に変更され、100番台に区分された。この3両での制御装置の試験結果が良好だったため、1971年から翌年にかけて基本番台にも同装置が取り付けられた(改造に伴う改番は実施されていない)。そのため基本番台と100番台との差異はなくなっている。1 - 21・25 - 27・51・52・122 - 124の29両が製造されたが、一部は後述するカヤ21形に改造されている。
1985年に形式消滅した。
カニ22形
[編集]電源荷物車。1960・63年に製造。カニ21形と同様のディーゼル発電機を2基搭載しているほかに、MG(MH100電動機・DM64発電機)を併設しており、直流電化区間では屋根上に2基設置したパンタグラフ(PS18)から集電してMGによって給電を行っていた。
切り替えは、同乗している技術員によって手動で行われた。また、パンタグラフの上昇・降下などはEF58から遠隔操作することができた。
主に「さくら」「みずほ」に使われたが、自重が59t(荷物・燃料満載の場合は、64t)にも達し軸重が16tとなるため、線路規格の高い区間でしか使用できないという制約があり、速度制限を受けずに走行可能なのは東海道本線、山陽本線、鹿児島本線の熊本駅以北のみという状況であった。そのほかに、荷物室の荷重も2tと小さいことから、1 - 3・51 - 53の6両が製造されたにとどまった。
線路規格が高い区間でしか使用できないという弱点のため、新製直後にマニ20形・カニ21形と共通の予備車扱いとされた51は軸重軽減のためMGを撤去(改造直後はパンタグラフを残していたが後年に撤去)、2・3も1965年に「さくら」佐世保線入線に備えてMGとパンタグラフを撤去、「みずほ」でMGを使用していた1と52・53も1968年の向日町運転所転属時までにMGとパンタグラフを撤去した。1968年には全車MGとパンタグラフの撤去が行われ、ディーゼル発電機のみ使用となった。全車MGが撤去されたことにより、カニ21形と共通運用となった。なお、旧MG装備位置にはディーゼル発電機用の燃料タンクが増設された。
1975年に2両が24系に編入改造されてカニ25形となった。詳細は後述。
1979年に形式消滅した。
改造形式
[編集]ナハ21形を除き1960 - 69年の二等級制による表示とする。また、登場順に記述する。
マヤ20形
[編集]簡易電源車。1963年(昭和38年)6月に「みずほ」を20系化する際、付属編成を門司駅 - 大分駅間で分割併合運用が生じたことから、分割された付属編成の電源確保のため供奉車460号の改造実績を参考に旧型客車のオハシ30形を小倉工場で改造したマヤ20形1・2が門司客貨車区(現・門司機関区)に配置された。塗色は20系に合わせられたが、車体の大部分は種車であるオハシ30形の状態を残す一方、屋根にはラジエターファンが付くという特異な外観で、旧食堂・調理室側は全て撤去の上電源室と技術員室とし、DMH17CG機関とPAG7発電機が2基搭載され、床下には燃料タンクが2基設置された。短区間用なので荷物室は省略され、形式は職用車記号の「ヤ」となっている。
「みずほ」時代には事故対応で東京まで臨時編成の電源車として使用した実績もあり、1964年(昭和39年)10月に「みずほ」の付属編成が「富士」として独立した際は、定期運用から外れ1を休車とし2は予備電源車として門司に待機[3]させた。
1965年(昭和40年)10月ダイヤ改正で早岐客貨車区に転属し、長崎本線・佐世保線で「さくら」・「あかつき」の付属編成用としての使用が廃止されると、スハ32形丸屋根車から3が追加改造された。
さらに1968年にも増発により、スハ32形丸屋根車から3両が改造されている。この時の車両は電源室を車体中央部に設置することにより重量配分の適正化が図られ、発電用エンジンが過給機付きDMH17S-Gへ変更され、出力向上が向上した。また、前位となる機関車連結側に荷物室が設けられた事で扉が2箇所とも残る窓割のため10 - 12に区分された。
1972年3月15日国鉄ダイヤ改正で長崎客貨車区に転属したが、「さくら」が14系に置き替えられ、「あかつき」も運用数減少で1974年までに2・3・10が廃車された。その後も「あかつき」・「はやぶさ」用の付属編成用として1・11・12が使用されたが、1975年3月10日国鉄ダイヤ改正で運用を失い、同年4月末には小倉工場で順次解体された。1975年に形式消滅した。
- スハ33044→スハ32 381→スシ31 2→オハシ30 4→マヤ20 1
- スハ32907→スハ32 244→スシ31 5→オハシ30 5→オハシ30 2005→マヤ20 2
- スハ32941→スハ32 278→マヤ20 3
- スハ33275→スハ32 612→マヤ20 10
- スハ33450→スハ32 787→マヤ20 11
- スハ32860→スハ32 197→マヤ20 12
ナハネフ20形
[編集]二等寝台緩急車。1964・65年にナハフ20形2 - 4の3両を改造した形式。車体を流用しているため、2窓分で1ボックスとした窓割から寝台の1ボックスあたりの幅が従来車の1,560mmより230mm広い1,790mmとなっている。寝台はナハネフ22形に比べ1ボックス6名分少ない42名分。便所・洗面所・物置・乗務員室が競ってされていた。以後の改造は車体を載せ変えたナハネフ22形500番台に移行。1975年に形式消滅した。
ナハネフ21形
[編集]二等寝台緩急車。1964・65年にナハフ21形を改造した形式。ナハネフ20形同様、車体を流用している。売店は撤去し、7ボックス42名分の寝台を設置した。1964・65年に小倉工場で1・3・4・51 - 53の6両が改造された。改造方法はナハネフ20形とほぼ同じ。「日本海」「つるぎ」で使用された後、青森へ転属し「ゆうづる」などで使用された。晩年には尾久に転属し「天の川」で活躍した。やはり残りはナハネフ23形500番台に移行。1978年に形式消滅した。
カヤ21形
[編集]電源車。1976 - 78年にカニ21形を改造した形式。20系の急行列車への格下げにより、一般型の荷物車を連結する事情により機関車からの増圧圧縮空気の供給に支障が生じ[4]たことと、P形改造未施工の機関車(主にEF58形[5])での牽引が想定されたことから[6]、これを補うため電源車の荷物室に空気圧縮機を搭載する改造が行われた。18両が改造された。
改造には、同時期に廃車となったクハ181形から、C3000形空気圧縮機が流用された。改造対象により荷物車を示すカニから職用車を示すカヤに改められた。番号は原番号を引き継いでいる。
1998年に形式消滅した。
ナハ21形
[編集]二等座席車。1977 - 79年にナロネ21形を改造した形式。「十和田」が20系化される際に座席車が必要になったため、中央通路式であった開放式A寝台の寝台部分と上段部分にあった小窓を撤去。座席は固定し1ボックスを増やした。洋式トイレは1箇所のみとした。寝台車からの改造[7]のため、天井が高く、またシートピッチもゆったりとしている。改造は車種の車体はそのままに、下段寝台は固定し座席に、上段寝台と寝台仕切りを撤去し荷棚を新設している。当形式の改造工事の遅れで「十和田」の置換え時には寝台を座席に戻したままのナロネ21形が使用され、網棚がないなどの苦情が多発した。
全車とも1987年までに廃車となり、同年に形式消滅した。
オニ23形
[編集]1988年(昭和63年)に来日した「オリエント急行」の連結器変換用控車[8]として、国鉄時代に除籍され日本国有鉄道清算事業団が所有していたナハネフ23形8を改造、復籍させた車両である。編成片側端部、スタッフカー側に連結され、ハイビジョンシアターカーとして使用された。
日立製作所笠戸工場が改造施工し、塗色はプルマン車をイメージして上半分が白、下半分が紺に塗り分けられ、また他車と釣り合いを取るべく金色のロゴが書き込まれていた。「オリエント急行」と連結する洗面室側の連結器がねじ式となり、あわせてバッファーも装備された。車内は当時日立製作所が試作していたハイビジョンテレビのデモンストレーションコーナーとなっており[9]、そのため床下は水タンクおよび冷房装置1台が撤去され、ディーゼル発電機が設置された。
日本国内での「オリエント急行」の走行が終了したことで、以後使用されることなく廃車された。
未成形式
[編集]オニ22形
[編集]直流電化区間用の電源車として計画され、図面作成まで終了していたものの、製造は中止された形式。図面では一見してカニ22形に類似した部分があるが、カニ22形と比較してディーゼルエンジンを搭載していないこと、車体長が短いなどの相違点がある(車体長はマニ20形よりもさらに短い13,500mmで計画されていた)。
直流電化区間でしか使えないため、効率性の面でオニ22形の必要性が疑問視されたことなどから、20系客車で唯一計画のみの車両となり、製造はされなかった。
備考
[編集]- 等級については、一等車・二等車の項を参照のこと。
- 1960年以前の三等級制時代においては、一等→二等、二等→三等と読み替えのこと。
- 1969年のモノクラス制以降、座席一等車はグリーン車・座席二等車は普通車に相当。
- 寝台車については、A寝台・B寝台の項も参照されたい。
系図
[編集]形式が多岐にわたるため、図で表す。左端の数字は、製造・改造年を西暦で表す。また、高精細な画像は上記の画像をクリックすることで開くことができる。
脚注
[編集]- ^ ナハネ20 350 - 364は、車番下2桁が50番以降だが日車が製造。
- ^ 旧特ロ。のちグリーン車。
- ^ 予備車時代に数回故障した電源車の代車として使用され、品川から下り列車で手配される電源車と岡山辺りで交換されたこともあり、その後も1968年(昭和43年)頃に新大阪まで代走した記録がある。
- ^ 本系列の増圧圧縮空気は元空気溜め管によって機関車から供給されていたが、荷物車には元空気溜め管の引き通しがないため、荷物車を連結すると元空気溜め管から増圧圧縮空気を取ることができなくなる。
- ^ 変わったところでは山口線でのイベントの際にC57 1の牽引を受けたことがあるが、これが実現したのもカヤ21形への改造が行われていたためである。
- ^ なお、カヤ21形を連結した編成でも、20系のみでの編成、MR管を持つ機関車が牽引に当たる場合は、カヤ21形の空気圧縮機は使用せず機関車のMR管かが引き通される
- ^ この手法は後に583系の419・715系化改造にも引き継がれている。
- ^ さらに控車にはマニ50形2236が使用されたが、オリエント急行の荷物車にあわせ、青15号に塗られていた車体に金色の帯が巻かれ、レタリングが施された。
- ^ 日立製作所は「オリエント急行」来日に際してのメインスポンサーであった。