利用者:おいしい豚肉/sandbox/プブリウス・オストリウス・スカプラ
プブリウス・オストリウス・スカプラ(ラテン語: Publius Ostorius Scapula, ?-52†)は二代目のブリタンニア属州総督(47-52)を務めた人物。 抵抗運動の主導者であるカラタクスを捕らえ、凱旋将軍顕彰を授与された。
経歴
[編集]プブリウス・オストリウス・スカプラの父親は恐らく、アウグストゥスによって近衛隊長官に任命され後にアエギュプトゥス属州(エジプト)のプラエフェクトゥスとなったクイントゥス・オストリウス・スカプラである[1]。
初期の経歴については明らかではないが、オストリウスが補充執政官となったのはおそらく西暦46年であった。47年の冬、彼はアウルス・プラウティウスの後任として、クラウディウス帝によってブリタンニア属州の総督に任命された。ローマ帝国によるブリテン島の南部および東部の支配は安定していた。支配領域外のブリトン人諸部族の中には帝国と同盟を結ぶものもあったが、抗戦を続けるものもあった。後者は新任の総督は冬季に遠征に打って出ることには消極的であろうと信じて、攻撃と暴動を展開した。
ところがこの目論見は外れ、オストリウスは彼らに対して断固とした対処を示した。オストリウスは抵抗する諸部族に対して執拗に攻撃を繰り返す事で、敗走した敵から再終結するための時間的猶予を奪った。タキトゥスの年代記の断章を校訂したものに基づくと、オストリウスはおそらくトレント川とセヴァーン川の南東の全ブリトン人への武装解除令を発表した。現代では、武装解除令を受けたのがこの地域であったことから、二つの川を繋ぐフォス街道の役割がローマ軍がこの時期に希望していた軍事境界線だったのではないかとの議論を呼び起こしてきた。
現在のノーフォークに居住しており、自発的にローマ帝国と同盟を結び独立を維持していた部族・イケニ族はこの武装解除令に反発し、近隣の諸部族を率いて暴動を起こした。オストリウスはヒルフォートを襲撃して彼らとの激闘を制した。このヒルフォートはおそらくケンブリッジシャーのマーチ付近のフェンズにあるストウニ・キャンプであろう。オストリウスの息子であるマルクス・オストリウス・スカプラはこの戦いの間ローマ市民の生命を守った功績から、「市民の栄冠」を授与された。イケニ族は敗戦後も独立を維持し、おそらくはプラスタグスがこの時期の王に就任した。
この反乱の鎮圧後、オストリウスは国境を越えて西進し遠征を開始した。48年、手始めに彼はウェールズ北部とチェシャーギャップに居住するデケアングリ族との戦争を開始した。 これは北ブリテンの部族とウェールズの部族を分断する効果的な一手であった。 しかし、その背後でブリガンテス族の中の反ローマ派による新たな反乱が発生したため、オストリウスは東部へと呼び戻された。 ブリガンテス族の反乱はすぐに鎮圧されたものの、ローマの庇護王国(client kingdom)の一つであるブリガンティアで反乱がおきたことから、庇護王国の管理体制に綻びがあることが明らかになった。 ブリガンティアの治安を維持するため、第14軍団ゲミナの一部が分遣されこの地に駐屯した。 同時期、第2軍団アウグスタは東南部を押さえ、第9軍団ヒスパナはトレント川を越え北東地域で開戦した。第20軍団ウァレリウス・ウィクトルはコルチェスターを占拠し、第14軍団はロクセターを拠点とした。
オストリウスはその任期中、より安全なブリテン島南部においてさらなるローマ化を推進した。 49年には退役軍人のためにブリテン島における最初の植民都市であるカムロドゥヌム(現代のコルチェスター)を設立し[注 1]、またおそらくウェルラミウム(セント・オールバンズ)に自治市(ムニキピウム)の地位を与えた。とは言え、政治的洞察力よりはむしろ戦術的な技能こそが彼の強みであった。ローマの勢力圏であったブリテン島南東部は低地であり経済的価値が低く、鉱物資源は未開人たちの土地に眠っていたため、彼は困難な指令を受け取ることとなった。これらの確保には後数年を要した。
一方その頃、ローマ帝国によるブリテン島侵攻の第一段階で打ち破られた部族であるカトゥウェッラウニ族のカラタクスが、ウェールズ南東部とグロースターシャーに居住するシルレス族の指導者として復権を果たしていた。
カラタクスらの抵抗運動はローマ軍が計画的に構築する要塞のネットワークによって抑制され、彼は北のオルドウィケス族の土地へと追いやられた。
カラタクスらは数年間ゲリラ戦術で抵抗したが、どうにかオストリウスは野戦へと持ち込んだ。戦場となったのはおそらくセヴァーン川の近くであり、ひょっとすると Caersws の側であったかもしれない。西暦51年、この地で帝国はブリトン人の指導者を打ち破った。 オルドウィケス族は川の上流にある急峻な丘の背を要塞化しており、地形的な問題からローマ側は包囲戦術を採用することができなかった。 オストリウスは堅牢に見えるこの砦に気をもんだが、タキトゥスの記録によれば軍隊の士気と忠誠心の高さからオストリウスは攻撃を決意し、ふたを開けてみればブリトン人らは容易く蹴散らされた。カラタクスの妻と娘は捕獲され、兄(あるいは弟)は降伏した。カラタクス本人はブリガンテス族の領域へと逃れたが、ブリガンテス族の女王カルティマンドゥアは親ローマ派であり、カラタクスを捕縛してローマに引き渡した[注 2]。
この戦いの功績によりオストリウスは凱旋将軍顕彰を授与されたが、勝利によってウェールズ国境における抵抗運動が完全に終息した訳ではなかった。 ローマ軍を特に悩ませたのがシルレス族であり、 After the battle, Ostorius was honoured with triumphal insignia but the victory did not entirely quell resistance in the Welsh borders. The Silures especially continued to harass Roman troops, supposedly after Ostorius had publicly said that they posed such a danger that they should be either exterminated or transplanted.
シルレス族の領土に建築中の要塞を占拠した使用していた大規模なローマ正規軍の部隊は包囲攻撃を受け、なんとか助け出されたものの夥しい損失を出した。 シルレス族の一派のこうした死に物狂いの攻撃は、ピーター・サルウェイが「オストリウスの政治的判断能力の欠如」と呼ぶ物への反応が原因であろう。 オストリウスが検討不測のまま行った脅迫のため、これに刺激されたシルレス族はローマ軍を打ち破り、ローマ人捕虜を人質とみなして近隣の諸部族に分配した。これは諸部族を一つにまとめ上げ新たなレジスタンス運動を形成する効果があった。
オストリウスはブリトン人との国境上における深刻化する問題をローマ帝国に積み残したまま、西暦52年に急死した。死因はおそらくタキトゥスが記すように「心労に消耗しきった」ことであった。彼の遺体はウェールズ南東のヴェール・オブ・グラモーガンにある Clawdd Coch に葬られたとする主張がなされてきた[1]。彼の死後もシルレス族からの襲撃は継続し、オストリウスの後任の総督アウルス・ディディウス・ガルスが赴任する前に、ガイウス・マンリウス・ウァレンスに率いられた正規軍団を破っている。25年が経過してようやく、10代目ブリタンニア属州総督フロンティヌスの手によってこの地に完全な平和がもたらされた。
公職 | ||
---|---|---|
先代 アウルス・プラウティウス |
ブリタンニア総督 西暦 47–52年 |
次代 アウルス・ディディウス・ガルス |
脚注
[編集]- ^ カムロドゥヌムを占領したローマ軍は当初はこの地を第20軍団の要塞用地としていたが、第20軍団はウェールズへと侵攻することになり、この土地は退役軍人のための植民都市として使用されることになった。退役軍人はここに農地を与えられ、平時にはブリトン人のエリート層にローマの統治システム・文化・法律を浸透させるというローマ化の為の役割を担い、一方戦時には予備兵力としての役目が期待された。(pp.37,42f,148f)
- ^ なお、カラタクスは同じような境遇でローマ帝国に捕らえられ絞首刑に処されたウェルキンゲトリクスとは異なり、赦免されたと伝えられる(p.43)
- ^ Cambrian Archaeological Association (1851). Archaeologia cambrensis. W. Pickering. p. 144 27 January 2011閲覧。