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村野 弘二

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村野 弘二 (むらの こうじ、1923年 (大正12年) 7月30日 - 1945年 (昭和20年) 8月21日) は、日本の作曲家。東京音楽学校 本科在学中に学徒出陣し、フィリピン ルソン島で自決。在学中に学内で発表し高く評価されたオペラ『白狐』の楽譜が、2015年 (平成27年) 再発見される。

1. 生涯

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1.1 幼少期

1923年 (大正12年) 7月30日、兵庫県 姫路市 北条口にて、当時、日出紡績 (のちに大和紡績) 姫路工場長であった村野 貞朗 (ていろう) と村野 小酉 (ことり) の次男として生まれた。本籍地は、福井県福井市 簸川中町。祖父 村野 文次郎は、福井に羽二重の技術を導入し福井商業会議所副会長を務め、県織物組合より欧州に派遣されている。父の兄 村野 二三男は、陸軍少将。父の姉 房於は文次郎の甥と結婚し、弘二の従兄にあたるその子は村野 正太郎 海軍少佐。なお、父が分家をする前に長男 譲司が死亡していたため、戸籍上は弘二が長男になっている。

一家は大阪勤務となった父の転勤で、兵庫県 武庫郡 魚崎町 (現 神戸市東灘区) に転居する。1930年 (昭和5年) 弘二は魚崎小学校に入学。翌年の1931年 (昭和6年) に同 本山町 野寄 (現 神戸市東灘区 甲南町) に転居。弘二は、そのまま魚崎小学校を卒業する。

貞朗は、手記『弘二の死を知って』に以下のように書いている。

弘二は中学校を出るまでピアノひとつ正規の教えを受けたことはないが、生まれて物心が付き初めてから、音楽は好きであった。三つ位の時、蓄音機の前に坐って、妻や女中にレコードをかけさせて、一所懸命、聴き入っていた。そして文字も読めないのにレコードのマークや文字の形で、一つひとつ何のレコードであるかを覚えて、今度はこれを掛けよ、次はこれと、自分が聴きたいものを指定した。

1.2 神戸一中

1935年 (昭和10年)、弘二は兵庫県立 第一神戸中学校 (現 兵庫県立神戸高校) に入学する。翌年、生母 小酉が結核で死去 (弘二12歳)。1年3ヵ月後、父は継母 ふみと再婚する。さらに弘二が15歳の時に、姉 晴子も結核で死去している。

小学校・中学校の同級生だった加藤 進は、42回生卒業45周年記念誌『おおとり』[1]に弘二の思い出を寄せている。

慈母や姉上が病死され貞朗氏が再婚されたことは、多感な村野君に複雑な陰翳をもたらしたのではあるまいか。彼は余り勉強をしなくなったが、詩や美術へ殊に音楽への傾斜が目立ってきたのである。

中学三年生のころから作曲に熱中し始める。貞朗の手記は以下のようにいう。

毎夜おそくまで二階の自分の部屋で何か作曲して、一部出来上がると夜の夜中でも勇ましく階段を下りてきて、応接室に入ってピアノで演じて見るというあり様で、中学の学芸会には何か自分の曲を演奏していたようである。

この頃、自作の楽譜や練習用の写譜、教本などには、すべて通し番号をつけて整理していた。また、署名には「Koji Felix Murano」を用いている。 1940年 (昭和15年)、日中戦争が長期化する時節にあって、国を挙げて紀元2600年の祝賀が行われた。最高学年 (5年生) となった弘二も、ピアノ独奏曲『紀元二千六百年奉祝曲「大聖代」』を作曲 (11月10日)、同校の学芸誌『晩鐘』[2]に楽譜が掲載された。本人は同誌に以下のような文章を寄せている。

これはかねてより私の念願の一つであった雅楽調によるピアノ小品創作の実現ででもありました。「古典への回帰。」「国民楽派の樹立。」等が盛んに叫ばれている今日この頃、きわめて意義あることと、私自ら、感激を深くしたのであります。

また、12月3日には、校内学芸大会において、『故 西園寺公望公之御霊前に呈げまつる Funeral March』を発表した。楽譜に「昭和十五年十二月三日、神戸一中 秋季校内学藝大会に於いて発表せり。因みに翌々日五日は、公の国葬当日であった。」と本人が記載している。

音楽ばかりに熱中して進路を一向に決めない弘二を心配した父 貞朗は、音楽家としての才能があるかどうか専門家に判断してもらうことに決める。亡き長女 晴子の通った甲南女学校の音楽教師であり、隣町の住吉に住んでいた池尻景順のもとを弘二を連れて訪れた。自作の楽譜を見、ピアノ演奏を聞いた池尻は、「作曲のメロディーには一風面白いところがあって、有望だと思います」と評した。それから一年間、弘二は池尻宅に週2回通い、ピアノと作曲の指導を受けた。

なお、貞朗の手記ではこの年は東京音楽学校を受験していないことになっているが、音楽学校には受験の記録がある。

1.3 浪人時代

浪人した1年間は、作曲・編曲やピアノの練習に明け暮れていた。

1941年(昭和16年) 7月4日、村野家で第3回家庭音楽会が行われる。隣に住んでいた関西歌劇団のソプラノ歌手 小島 幸が歌い、従兄の村野正太郎がアコーディオンを弾き、弘二がピアノを弾いたと思われる。現存する肉筆のメンデルスゾーン『歌の翼に』の楽譜の表紙に、弘二が以下のように書いている。

昭和16年7月4日、第3回家庭音楽会に先立ちて小島幸先生のソプラノと、村野正太郎氏のアコーディオン助奏とのために編曲したるものを、再び改編して独奏ヴァイオリンとセロ及びピアノのために、即ち、ピアノ・トリオ用の曲となせり。尚、独奏ヴァイオリンの代わりに声楽を以ってなすも可なり。

この1年間に自作として楽譜が残っているものは、島崎藤村の詩による独唱曲『小兔の歌』( 6月3日) 、詩曲『秋はむなしうして』(9月27日)、オーバネェル詩 (上田敏訳) 歌曲『海のあなたの』(11月6日) がある。

1.4 東京音楽学校

1942年 (昭和17年) 春、東京音楽学校を受験し合格、予科に入学する。同期の「作曲志願の者」は、弘二の他、團伊玖磨大中恩島岡譲、鬼頭恭一、友野秋雄、竹上洋子の計7名である[3]

弘二は下総 皖一の作曲の授業を團と二人組で受けていたことが、下総の時間割から分かる。

東京では、江古田にあった伯母の婚家に下宿した。慶応義塾大学に進学した同級生 伊藤 淳二の日吉の寄宿舎を訪ねたことがあり、終日、芸術論に花を咲かせた思い出を伊藤が『おおとり』[1]に書いている。

1943年 (昭和18年) 10月、戦局悪化により学生の徴兵猶予が取り消され、弘二も繰り上げ卒業、12月1日に入営することになった。この直前、11月13日に音楽学校の奏楽堂にて第149回 報国団 出陣学徒壮行演奏会が催され、弘二は、歌劇『白狐』第二幕『こるはの独唱』を発表する。アルト独唱は戸田 敏子、ピアノ伴奏 太田 道子。

2. 作品

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2.1 歌劇『白狐』第二幕『こるはの独唱』

『白狐』は、信太の森(現 大阪府和泉市)に伝わる「葛の葉伝説」をもとに、岡倉天心が最晩年にボストンにおいて英語で書いた歌劇である。親交のあったチャールズ・マーティン・レフラーに作曲が依頼されたが、結局完成しなかった。弘二の作曲は、清見 陸郎による邦訳[4]にもとづいている。

  1. ^ a b 兵庫県立第一神戸中学校42回生卒業45周年記念誌(1980)『おおとり』
  2. ^ 県立第一神戸中学校 校内誌『晩鐘』 (1940)
  3. ^ 東京音楽学校『東京音楽学校一覧 自昭和十六年 至昭和十七年』1943年
  4. ^ 『岡倉天心全集 決定版 第二巻』六藝社 (1939)