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利用者:いがらし緑/sandbox

松平 照(熈) (まつだいら てる) 天保3年(1832)~明治17年(1884)
   父は上総(千葉県)飯野藩主・保科正丕。母は側室の佐々木民。天保14年(1843)、親戚筋の会津松平家8代藩主・松平容敬の養女となる。会津藩9代藩主・松平容保の義理の姉。

 嘉永3年(1850)、豊前(大分県)中津藩主・奥平昌服に嫁ぐが安政元年(1854)離縁。江戸の会津松平家藩邸に戻る。

 慶応4年(1867)2月、鳥羽伏見の戦いの後、会津藩の江戸総引揚げで会津若松城(鶴ヶ城)に入った。容保正室の敏姫は死去しており、家中最も身分の高い女性として、戊辰戦争の籠城戦(8月23日~9月22日)では城内の婦女子の総指揮にあたった。

 降服開城により郊外の妙国寺に移され謹慎。翌年2月に東京青山の紀州藩邸にお預けが決まり上京。この年の12月に飯野藩の尽力で実家に預け替えとなり飯野藩邸に移った。これ以降実弟の保科正益に庇護され、明治17年2月、東京で死去。照桂院。


逸話
 書・和歌に堪能。明治2年5月、会津藩の家老だった萱野権兵衛が戦争責任の罪を引き受け斬首になった時(実際に執行した飯野藩保科家によって切腹の形式がとられ、武士らしい最後をとげさせたという)、照姫は萱野に「夢うつつ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」の和歌を贈り、遺族には見舞金を贈った。


参考文献

  • 小島一男『会津女性人物事典』歴史春秋社
  • 『会津若松市史7 会津の幕末維新』