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利用者:いかけん/sandbox


正門
正門は本瓦葺四脚門で、当時城側から撃たれたと思われる弾痕が、正門の柱などに生々しく残っている。これは「弘道館戦争」の折に被弾した跡である。松岡藩の報告書(「松岡藩記」)によれば、若松城落城直前に、会津を脱した二百五十名ほどの市川勢は、9月29日水戸城入城を果たし、三の丸北側へ通し進むも、藩兵には阻まれ10月1日に弘道館を占拠したてこもった。10月1日から2日かけ、市川勢と迎え撃つ中山隊(水戸藩の附家老で独立した松岡藩)との激しい銃撃戦があり、その名残である。[1][2]


正庁(学校御殿)
正庁(学校御殿)は弘道館の管理棟である。正庁の北と南にそれぞれ文館(居学・講習・句読・寄宿の四寮と、教職詰所などからなる)と武館(北側の撃剣場、間の槍術道場、南の居合・柔術・長刀などの稽古場、計三棟からなる)を、南庭に武術訓練のための対試場を配している。

正庁の北東に位置する四室は至善堂と呼ばれ、藩主の控室、その子弟の学習の場として使用された。襖や壁面には、和歌の扇面を掲げたと言われる。現在、襖には要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられている。弘道館では、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた。[3]


至善堂
正庁の北東に位置する四室は至善堂と呼ばれ、藩主の控室、その子弟の学習の場として使用された。襖や壁面には、和歌の扇面を掲げたと言われる。現在、襖には要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられている。弘道館では、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた。[4][5]




間取り
1階
菊の間
桃の間
躑躅の間
松の間
紅葉の間
竹の間
梅の間
清の間
萩の間
櫻の間
橋廊下
烈公御座所
3階
楽寿楼



史跡名勝 常磐公園内 好文亭及び庭園復旧工事報告書 昭和36年3月 発行兼編集者 茨城県


正門
正門は本瓦葺四脚門で、当時城側から撃たれたと思われる弾痕が、正門の柱などに生々しく残っている。これは「弘道館戦争」の折に被弾した跡である。松岡藩の報告書(「松岡藩記」)によれば、若松城落城直前に、会津を脱した二百五十名ほどの市川勢は、9月29日水戸城入城を果たし、三の丸北側へ通し進むも、藩兵には阻まれ10月1日に弘道館を占拠したてこもった。10月1日から2日かけ、市川勢と迎え撃つ中山隊(水戸藩の附家老で独立した松岡藩)との激しい銃撃戦があり、その名残である。

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水戸市史 中巻(五) 水戸市史編纂委員会編集 平成2年3月12日

水戸弘道館小史 鈴木暎一 著

 茨城大学五浦美術文化研究所 「五浦論叢」分冊・歴史編 3 平成15年5月25日


1 書  名:『近世日本の学問・教育と水戸藩2        ―世界遺産暫定一覧表記載資産候補「近世の教育資産」に係る平成22年度調査・研究報告書

  1. ^ 水戸市史 中巻(五). 瀬谷義彦. (1990). p. 790~791 
  2. ^ 鈴木暎一 (2003). 「五浦論叢」分冊・歴史編 3 水戸弘道館小史. 茨城大学五浦美術文化研究所. p. 132~133 
  3. ^ 鈴木暎一 (1990). 「五浦論叢」分冊・歴史編 3 水戸弘道館小史. 茨城大学五浦美術文化研究所. p. 21 
  4. ^ 弘道館資料輯. 北沢 彦一. (1972). p. 13 
  5. ^ 近世日本の学問・教育と水戸藩 ―世界遺産暫定一覧表記載資産候補「近世の教育資産」に係る平成21年度調査・研究報告書ー. 水戸市教育委員会. (2010). p. 76~77