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利用者‐会話:Zakennaa

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Zakennaaさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。お互い良い活動をできるようがんばりましょう! --R28Bot 2008年1月23日 (水) 10:08 (UTC)[返信]

伊勢神宮関連の記述の除去について

[編集]

中立的な観点を理由に大量の記事について除去を行っておられますが、記事との関連性の強い記述まで除去されているように思います。除去理由について、詳細な説明をいただきたく思います。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 10:52 (UTC)[返信]

年表は伊勢神宮のためのものではございません。関連性の強いものは残しているつもりです。--Zakennaa 2008年1月23日 (水) 10:53 (UTC)[返信]
たとえば、丹下健三からの記述除去はどういった理由によるものでしょうか。脚注によれば、伊勢神宮を参照したというのは本人の言であり、またこれを除去するなら正倉院などについても除去すべきだと思いますが。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 11:00 (UTC)[返信]
丹下の言に伊勢神宮はございません。要出典。--Zakennaa 2008年1月23日 (水) 11:06 (UTC)[返信]
そうであるなら脚注からも除去すべきであり、その旨きちんと説明すべきではないでしょうか。はんぱな編集はやめていただきたいな、と。あと、無言でのリバートは申し訳ないです。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 11:08 (UTC)[返信]
脚注から除去の方法がわかりません。ご教示願います。--Zakennaa 2008年1月23日 (水) 11:10 (UTC)[返信]
Help:脚注をご参照ください。あと、最初から出典不明を理由とした除去であれば、この項目については私は差し戻さなかったと思います。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 11:32 (UTC)[返信]

(インデント戻します)あ、あと江戸時代については私のミスです……が、あれ、中立的な観点が理由じゃないですよね。最初から要約欄でそう言ってほしかったな、と思います。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 11:35 (UTC)[返信]


こんにちは。私は丹下健三の項目を主に編集している者です。(丹下の言に伊勢神宮はない。要出典)の言のもとに、「伊勢神宮」の語が削除されておりますので、出典を明示致します。

丹下健三「広島計画1946~1953 とくにその平和会館の建設経過」『新建築』1954年1月号 によりますと、丹下自身の筆になる「丹下の言」として、

「私たちと一緒に指物大工が50分の1の木の模型を作つては、こわして並行して進めてくれた陳列館が競技設計のときから変わつて来たのは、何か感じとして、わたくしの頭の中に、プロトタイプがしだいに強く現れてきたためのように思われる。言つてみれば、廃墟のなかから立上がつてくる力強いものをコンクリートを頼りにして創つてみたかつたのだと言えるであろう。単なる高床の校倉ではものたりなかつたのである。私たちは木の模型を頼りに、ー 何か形にはならないが、強く心の中にあらわれてきたそのプロトタイプを探しあてようとしたのである。いつの間にか、それは伊勢ではなかつたのだろうかと私には感じられるようになつてきた」

とあります。さらに、

『建築雑誌』1986年1月号 丹下健三インタビュー:聞き手 藤森照信・松葉一清「焼け跡から情報都市まで駆け抜けて」には、「丹下の言」として、

「丹下:何となく伊勢神宮みたいなイメージもあったり、コルビュジエのマルセイユのアパート、一連のピロティのものがありますね。そういうものからヒントを得ていると思います」

とあります。

また、高名な建築史家で東京大学生産技術研究所教授の藤森照信先生が、丹下研究の定本ともいうべき『丹下健三』丹下健三・藤森照信 著 新建築社 2002年 に書かれていることですが、

「焼け跡から立ち上がる力強さは伊勢のなかにあると思うようになり、まず細い丸柱を太い壁柱に変えた。伊勢の本質は立ち上がる柱の太さにあると見ていたのだろう」

とあります。ただ、形態的には正倉院と桂離宮の影響が顕著だと言えます。伊勢の影響は、その精神性に認められ得ると評すべきでしょうか。しかしながら、その精神性こそが建物の核となる建築の本質と言えるかと思います。--茶々 2008年1月23日 (水) 14:31 (UTC)[返信]

  • 元首記事中の伊勢神宮に関する記述を差し戻しました。また「特筆に価する」に関する誤解に発する大量の削除があるようですが、Wikipediaは検証可能中立の編集が維持可能な出典があり、独自研究でないものなら、ある読者が瑣末であると感じる情報でも執筆可能です。特筆に価する記事についてはWikipedia:著名性(草案)で議論していますので、宜しければご参加ください。--125.205.189.66 2008年1月25日 (金) 11:48 (UTC)[返信]