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利用者‐会話:Uaa/下書き2

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ドイツ[編集]

ドイツに見る制服用略綬のバリエーションと装着法
(参考)ドイツの下級勲章
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ファイル:Württembergische Militärverdienstmedaille.jpg
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  • 画像 1:名誉十字章(前線戦士)
  • 画像 2:ドイツの下級勲章各種。3:東部戦線従軍章。4:1939年略章付きの二級鉄十字章1914章。5:二級鉄十字章1939年章。
  • 画像 3:戦功十字章各種
  • 画像 4:東部戦線冬期戦闘従軍章 1941/1942
  • 画像 5:ヴュルテンベルクの戦功章
  • 画像 6:名誉十字章とヴュルテンベルクの戦功章の連装。
  • 画像 7:マウントされた名誉十字章(前線戦士)
  • 画像 8:名誉十字章(リボンが付いた2点)。前線戦士用(左)とリボンが巻かれた近親者用(左)。
  • 画像 9:ナチス時代の市民用各種記章と略綬板(左上)。略綬板右端の青いリボンが公共機関25年勤続章(手前左から2番目)のもの。
  • 画像 10~11:連装された第一次世界大戦~ナチスドイツ時代の勲章・記章。
各種の略綬板
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時代別の着用例
19世紀
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第一次世界大戦
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ファイル:Rudolf von Freudenberg.jpg
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ワイマール共和国~ナチスドイツ
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ファイル:Franz Ritter von Epp2.jpg
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第二次大戦後
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19世紀から第二次大戦までのドイツでは、二級鉄十字章等の下級勲章や記章(画像 1~4 )の多くが綬を上着のボタンホールに通して着用するのが本来の佩用式になっており(画像 20,23)、他の国では一般的な左胸に着用するものと比べて綬が細長く、他国のものの殆どが幅・長さ共に32~38ミリ(1.25~1.5インチ)なのに対して幅は25~30ミリで長さが100ミリ前後あった。そして、そのリボンのみをボタンホールに掛けて略綬としていた。

普墺戦争プロイセン軍幹部(画像16)は左の二人が二級鉄十字章又はそのリボンのみを第2ボタンの穴に通しており、普仏戦争に於けるセダンの戦いを描いた絵(画像17)でも、モルトケは第2ボタンの穴にリボンを通して二級鉄十字章を吊しているが、ビスマルクはリボンのみをボタンホールに巻きつけている。第一次世界大戦中の幹部の集合写真(画像 32~33)や第二次大戦中の武装親衛隊将校(左)と下士官の写真(画像 56)でもボタンホールに二級鉄十字章(画像 2:4が第一次世界大戦で5が第二次大戦のもの)を吊している人物とリボンのみを巻き付けている人物が見られる。また、19世紀末のメクレンブルク=シュヴェリーン大公(画像18)やバーデン大公(画像19)はプロイセンの勲章である二級鉄十字章のリボンをボタンホールに着けており、別の写真ではバーデン大公が同じ場所に本章を吊している(画像20)。1928年の海軍将官(画像 40)はフロックコートの襟にあるフラワーホールに略綬を通している。

一方、ヴュルテンベルク将校(画像 28)や、集合写真(画像 33)の人物のうち後列右から二人目と五番目のプロイセン将校ではない2名は鉄十字章以外の勲章をボタンホールに吊していいる。また、集合写真後列右から五番目の人物は二級鉄十字章を左胸に付けて別の勲章をボタンホールに吊している。そして、別のヴュルテンベルク将校(画像 26 )はその略綬のみを付けている。第二次大戦中の陸軍兵士(画像 55)は東部戦線従軍章(画像 4)のリボンのみをボタンホールに付けている。

ナチス党の記章である1923年11月9日記念メダルは綬にボタンホールが空いており、制服右胸ポケットのフラップに綬を巻き付けてそのボタンホールにフラップボタンを通して止めるようになっていた(画像 36)。そして、普段は綬のみを略綬として同様に着用した。1936年のハインリヒ・ヒムラー(画像 37)は右胸にメダルを吊しており、1942年のハインリヒ・ヒムラー(画像 38)は同じ部位に略綬を着けている。ナチスの記章には、この1923年11月9日記念メダルや勤続章(画像 9 手前左から2番目)のように、国際標準とも言える35ミリ幅の綬が付いたものも多い。

しかし、これらの勲章・記章を複数受章した場合、それら全てを同じ場所に着用するのは難しい上に見栄えも悪いので、左胸に並べて着用するために各自でリボンを改造してマウンティング(勲章・記章をブロ-チが付いた連結金具に装着すること)をした。画像 8(左)の近親者用名誉十字章のように綬を巻き、これを金属板に連装した勲章・記章を左胸に着用した人物が集合写真(画像 33)の人物の中に数名見られる。

画像 7 は名誉十字章(画像 1)を台形にマウントをした状態である。

マックス・インメルマン インメルマンが着用しているのはリボンを長いまま並べたタイプで、第一次世界大戦中まで見られた。インメルマンの他に、ルートヴィヒ3世や下記のフランツィスクスが着用していたことが確認されている[P]

プロイセン画像 23,24:プロイセン将校 バイエルン下士官(画像 25) :ヴュルテンベルク将校(画像 26~31)

戦前のドイツでは、勲章・記章を左胸に並べて着用するためにはをしなければならなかったので[2]、日本軍のように勲章用に別の糸掛りを作るケースは見られない。ドイツの空軍と陸軍将校は何れも秩父宮のものと同様の糸掛りを着けている。1942年のカイテルは略綬を2段にしており、上段の略綬板の向かって左側に糸掛りが見える。2段にする前の1940年には略綬板はそこまでの長さがあったのだが、勲章を付けるために糸掛りを残していると思われる。

帝政時代は勲章・記章が領邦毎に発行されており、取付方法も統一されていなかった。

やや斜めから見える右のナチスドイツ将校の略綬板は、横から見ると半円形になっているのがわかる。ドイツ軍では多く見られるタイプだが、他国の軍隊ではあまり見られない。リボンの幅がオリジナルの綬と比べて狭いが、他国の軍隊では幅に関して規定されていることが多いので、これもあまり見られない。ハーマン・フォン・フランツィスクス(Hermann von François)は、数年前の写真では上のインメルマンと同じタイプの略綬を付けていた[P]
エップは略綬を棒状に連結していない。上に勲章の連結金具を取り付けるための糸掛りが見えるが、そこには取り付けていないので、単体の略綬にブローチが付いたものと思われる。フランツ・フォン・エップ ドイツ連邦軍の