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利用者‐会話:Toy-Tad

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カール・バルト (その生涯と神学の総体像)が「独自研究」であることについて異議申し立てをします。

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申訳ありません、もう一度だけお聞きします。私は、「独自研究」とは、例えば記述対象とするカール・バルトの著作の言葉(思惟と語り)や彼を論じた神学者たちの言葉(思惟と語り)に依拠し即して論じるのではなく、恣意的独断的に論じることだと思っております。したがって、私は、徹頭徹尾、客観的なバルト自身の著作の言葉(思惟と語り)や神学者の言葉(思惟と語り)に依拠し即して論じているのですが、それでも「独自研究」と言われるのでしょうか。逆に言えば、バルトの著作やある神学者に言わせれば、全く間違っている記述であっても「独自研究」ではないのでしょうか。例えば、「カール・バルト――ウィキペディア」には、客観的に言って明らかな誤謬があります。それもただ単なる誤解や誤謬ではなく、バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである」という客観的に言って明らかな曲解をしています。この場合は、「独自研究」とはならないのでしょうか。というのは、その記述にある誤解・誤謬・曲解は、私だけの見解ではなく、バルト自身の見解でもあり、J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』の翻訳者の蘇光正の見解でもあります。したがって、私は「ノート」で執筆者に対して、バルトの最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)とJ・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』加藤常昭・蘇光正共訳の「訳者あとがき」(蘇光正)を精読され速やかに修正をされるように依頼したのですが、まだなお依然として客観的な正当性と妥当性をもった仕方で修正がなされていません。私は、客観的な正当性と妥当性をもったより良い記事にして欲しいのです。ただそれだけです。したがって、私が今回投稿しようとした理由は、近代において最善最良の神学を構成したカール・バルトの神学的成果を、出来得る限り客観的な正当性と妥当性をもって、貴「百科事典」に時間蓄積しておきたいと考えたからです。ただそれだけです。それで、最後にお聞きしますが、(1)客観的なバルト自身の著作の言葉(思惟と語り)や神学者の言葉(思惟と語り)に依拠し即して論じている私の投稿記事が「独自研究」と断定されているそうですが、前述したようにバルトの著作の言葉(思惟と語り)や神学者の言葉(思惟と語り)に即していない「カール・バルト――ウィキペディア」と私の今回投稿した記事と比較衡量した場合、どちらに客観的な正当性と妥当性があるのでしょうか? (2)「『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者が言うように、バルトは晩年、本当に、内容的な意味で、「近代神学」・「近代主義神学」(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、自然神学)に「回帰」・逆行・復古・退行したのだろうか?」という記事を除けば「独自研究」ではなくなるでしょうか? それとも批判的論調で書かなければ「独自研究」ではなくなるのでしょうか? 私の批判的論調は、否定の否定ではなくヘーゲルやマルクスや吉本隆明がいうような否定的媒介という意味で、そういう仕方で今よりももう一段高めていきたいというという願いを込めたものです。したがって、私は、私だけの恣意性と独断性で「独自研究」記事を書いていません。したがってまた、私は、客観的な正当性と妥当性を保つために、常にバルト自身の著作の言葉(思惟と語り)に、様々な思想家や神学者の著作の言葉(思惟と語り)に依拠し即して書いています。それでも「独自研究」なのでしょうか? 私の記事を「独自研究」と言われている方たちのその根拠は一体何でしょうか? よろしければ、私は、前述したような意味で、近代において最善最良の神学を構成したカール・バルトの神学的成果を、出来得る限り客観的な正当性と妥当性をもって、貴「百科事典」に時間蓄積しておきたいと考えていますので、教えて頂けるとありがたいのですが……。私のような記事は、貴「百科事典」に載せて頂けることはあり得ないのでしょうか? 真剣にお聞きします。よろしくお願いいたします。--Toy-Tad会話) 2020年4月4日 (土) 08:12 (UTC) --Toy-Tad会話2020年4月4日 (土) 08:18 (UTC)[返信]

独自研究であるかについて

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まず、カール・バルトにおいてあなたと同様の言動をしている利用者:豊田忠義はあなたですか?パスワードを忘れたからやり直したなどの場合はWikipedia:多重アカウントに書かれていることを理解して適切な処理を行ってください。wikipediaは原則一人1アカウントです。

本題に入りますが、カール・バルト (その生涯と神学の総体像)のあなたが書いた内容は[1]のコピペです。おそらく、あなた自身が書いた文章だから載せても大丈夫と思ったのかもしれませんが、著作権に関するルールがあり、Wikipedia:自著作物の持ち込みというルールに基づかなくてはなりません。他にも、

Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するWikipedia:検証可能性Wikipedia:過剰な内容の整理Wikipedia:著作権Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:引用のガイドライン

などのページを読んで記事作成の際のルールをしっかり理解してほしいのですが、 一番最初の問題として、「引用文中の(≪≫)書きはすべて、私が加筆したものである。(2)既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。(3)十分に注意はしているが、引用上等の不備があった場合は、ご容赦願いたい。その場合は、バルト自身の著作に即して考えて頂きたい。(4)「indem」について、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄訳のように「……することによって」と引用し直している。」

との「凡例」を書いているが引用文に対して加筆している時点でそれは自分の考えを混ぜ込んでいるため、独自研究にあたります。

第二に、、引用量が多すぎてWikipedia:引用のガイドラインを満たしていません。「百科事典」として必要な量の引用にとどめるべきです。その引用した文献の出どころ(どの出版社の何年に出版された誰が書いた本の何ページか)がwikipediaで使われるやり方で書かれておらず、すぐに検証できないうちは「独自研究」と扱われる場合が多いです。

第三に、長すぎる。180キロバイトもの文章量はちょっとした本です。ここは百科事典ですので本を丸写ししたページを作るのではなく「Wikipedia:信頼できる情報源」に則った解説であるべきです。

よって、他の方も独自研究と認識されたものと思います。--Gahukuro会話2020年4月4日 (土) 13:45 (UTC)[返信]