利用者‐会話:Tokugawa
ウィキペディアにようこそ!
[編集]こんにちは、Tokugawaさん、はじめまして!Suisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!
- ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
- よろしければ自己紹介してみてください。
- お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
- 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
- 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。
あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Suisui 2006年6月18日 (日) 23:40 (UTC)
蔚山城の戦い と と立花宗茂
[編集]どうもお世話様です。史料批判をものともしないIPユーザ氏の編集には困ってしまいます。--yasumi 2009年1月28日 (水) 11:54 (UTC)
- どうもyasumiさん、こちらこそお世話になっております。三路の戦いの中での立花勢の蔚山救援の話はちょっとどうかなと思いますね。これはいまひとつ信頼性の置ける史料に記載がないのと、当時の状況として、立花勢はこのとき固城在番で、付近の泗川で島津勢が交戦していますよね。元々泗川攻撃の明・朝鮮軍では、泗川より先に固城を攻撃すべきという意見もあったぐらいで、そんな危ない状況でわざわざ固城を離れて最も遠い蔚山まで救援にいくとは考えられないですね。でも気になるのは宣祖実録や明史では、泗川の戦いについて固城から倭の援軍が到来したと明記されてますね。なので、意外と立花勢は泗川に救援に行ったかもしれないとか、その話が混同してしまい蔚山救援に置き換わってしまったのではないかなどと考えることがあります。まあ、これは独自説になりそうですけど。--Tokugawa 2009年1月28日 (水) 12:48 (UTC)
私家版で質問
[編集]- 2期;5月初めの第一次漢城会議の方針(朝鮮全土制圧)に沿って慶尚道南部では九番隊(+α諸隊含む)及び紀ノ国衆(藤堂・桑山・堀内・杉若)が釜山から西方に向かって水陸から支配域の拡大を目指す。
- これなんですが、出典は何なんでしょうか?この辺に進出していた人物で日本側で確認出来るのは蜂須賀軍を上陸させた後の森、亀井、堀内ぐらいだと思うんですが?藤堂の所在は日本ですよね?--yasumi 2009年2月17日 (火) 12:07 (UTC)
- 現段階の「慶尚道南部水陸の戦い」項は私の“思いつき”を書いてみただけと思ってください。私の頭の中でも未だ考えが固まってません。なので私ページのみの記載に止めていますので、軽く流してもらえれば幸いです。
- それで“思いつき”の根拠ですけど、慶尚道南部で行動する日本軍について考えると1、2、3、4、5、6、8番隊は違う方面の各道の平定に当たっているのであり得ないですよね。7番の毛利軍は慶尚道の北部中心に活動しているようなので、これも除きました。後に残るのは、九番隊(+α諸隊含む)になるんです。この隊のメンバーが別の地域で行動している形跡も見当たりません。個々の大名についての明確な史料は判明してませんが、亀井が行動しているということは、他の九番隊(+α諸隊含む)も近辺で行動している可能性が高いのではないでしょうか。また堀内が行動しているということは他の紀伊国衆もこの地域で行動している可能性が高いのではないしょうか。卯月19日付朱印状に「紀伊国警護船を藤堂に被仰付」とあるので堀内は藤堂の配下で行動し、また他の紀伊国衆も同様にこの地域で行動しているのではないでしょうか。紀伊国衆は文禄期において共に大和中納言豊臣秀保の配下であり一体性を有しているとも考えられます。5月7日の玉浦海戦(巨済島)で日本水軍の指揮官は藤堂としている解説書が多いですね。もっとも藤堂家の史料にこの海戦の記述が無いようなので、本当に藤堂の軍かはかなり怪しいと思っていますが。ところで藤堂の所在が国内であったとする出典について差し支えなければ教えていただけませんか?
- 繰り返しになりますが、ここの記述について今後よほど確度が高くならない限りは私ページのみの記載に止めますので軽く流してもらえれば幸いです。--Tokugawa 2009年2月17日 (火) 15:16 (UTC)
- 現在、細かい引用をする時間を持てないのですが、中野等「秀吉の大陸侵攻と軍令」などを見ても舟奉行達は概ね名護屋-壱岐-対馬-釜山の間の輸送管理にあたっているようです。亀井は少し毛色の違う動きをしていて、私見ではあれは侵攻と言うよりも冒険なんじゃないかと思います。堀内はそれに付随した情報ですし。閑山島が始まるまで、日本に海上決戦を前提とする艦隊という物があったのかさえ疑問です。--yasumi 2009年2月18日 (水) 20:44 (UTC)
>現在、細かい引用をする時間を持てないのですが
中野等「秀吉の軍令と大陸侵攻」を私は読んでません。近辺の図書館の蔵書を検索してみましたが置いてませんでした。価格が高価なので買うにはちょっとって感じですね。なので中野等がどのような根拠を以って主張しているか、原典史料を提示するのど、時間に余裕ができた時で結構ですので、なるべく具体的な引用をした上で書き込んでいただきたいです。私は早急な返答を求めてはいませんので。
>舟奉行達は概ね名護屋-壱岐-対馬-釜山の間の輸送管理にあたっているようです。
舟奉行の当初のメンバー(高麗が早川長政、毛利高政、毛利重政)(対馬が服部一忠、九鬼嘉隆、脇坂安治)(壱岐が一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎)(名護屋が石田三成、大谷吉継、岡本宗憲、牧村政治)のままで輸送管理任務が続くのは、ごく初期の内だと私は思ってました。脇坂は京畿道に進出しますし、石田、大谷も漢城に入ってますので。中野等「秀吉の大陸侵攻と軍令」では、5月・6月まで脇坂が対馬舟奉行を続け、石田、大谷が名護屋舟奉行を続けていることになっているのでしょうか? 舟奉行の中で、ここで焦点となるのは紀伊国衆の一人である藤堂だと思いますが、藤堂は壱岐舟奉行をいつごろまで継続していたのでしょうか?
亀井・堀内以外の九番隊(+α諸隊含む)及び紀ノ国衆について、私は慶尚道南部地域において、ある者は陸地で、ある者は海上で、行動していたと推定しましたが、もしそうでないなら、いったい彼等は何処で何をしていたのでしょうか?
また李舜臣が戦っていたいた相手は、森、亀井、堀内だけなのでしょうか? この3人だけにしては数が多すぎるように思えます。私は慶尚道南部で行動していた内の、海上行動をとっていた者達であると推定しています。その中で名前が判明しているのが、九番隊(+α諸隊含む)の一人である亀井であり、紀伊国衆の一人である堀内であるということです。
>閑山島が始まるまで、日本に海上決戦を前提とする艦隊という物があったのかさえ疑問です。
疑問といわれましても、私は海上決戦を前提とする艦隊などといったものについて何も書いてませんので、ここで疑問を呈されても困ります--Tokugawa 2009年2月19日 (木) 12:37 (UTC)
- 失礼しました。九番隊(+α諸隊含む)及び紀ノ国衆(藤堂・桑山・杉若)が本格的に派遣されるのは7月になってからかもしれませんね。もう少しよく調べてみます。--Tokugawa 2009年2月19日 (木) 15:02 (UTC)
- 失礼、引用した中野等氏の書名は「秀吉の軍令と大陸侵攻」の間違いでした。 秀吉自身の渡海計画もあり、6月中の舟奉行はバタバタしています。細かい引用はしませんが確定的な記述は無いようです。 逆に言えば水軍に戦闘せよとの具体的な攻略や作戦の命令もありません。森の場合は蜂須賀軍を輸送揚陸した後の海岸の残敵掃討などの、駄賃の産物に見えますし。亀井は単独行動。堀内は時期的に遅い固城への後詰め? 今回の質問は、単に記述に対するソースを私が知りたいというだけですので、又何か分かったら教えて下さい。--yasumi 2009年2月20日 (金) 22:55 (UTC)
参考文献について
[編集]Tokugawaさんの作成しました黄石山城の戦いを読んで書き込みます。参考文献を挙げるのはけっこうなのですが、それならば本のタイトルだけではなく書誌情報も書くべきです。他にも色々理由はあるのですが、一般的に言って、タイトルだけだと、どこの出版社の誰が書いた(あるいは編集・翻訳した)版を参考にしたのか分かりませんし、資料の新しさも分かりません。これでは参考文献を挙げた意味がありません。大学生のレポートでさえ、書誌情報を書くのは参考文献を挙げる際の最低限のマナーであり常識です。書き方が分からない場合はWikipedia:出典を明記するをご覧ください。--183.76.93.52 2011年9月1日 (木) 02:16 (UTC)
- ご指摘有難う御座います。一応訂正しておきましたが、これで良かったでしょうか? 話は変わりますが、今後ここに書き込む場合はログインして利用者名を明らかにした上で投稿してください。IPは一定のものではないので対話するのが難しくなります。私よりもWikipediaの指針についてお詳しいようなので、利用者名登録を済ませていないはずはないと思います。--Tokugawa 2011年9月1日 (木) 09:47 (UTC)
英語版の編集
[編集]初めまして,Tokugawa 様. 釜山浦の戦いの英語版の編集を開始しました.http://en-two.iwiki.icu/wiki/Battle_of_Busan_(1592)
私は専門家ではありませんので,順次参考文献を自分で評価しなおしているため,編集には時間がかかります. これまでに,「戦闘の結果」の修正,記事の概要部の修正,「日本での議論」の追加を行いました.
今後ですが,日本側の戦闘被害の詳細,戦闘後の補給維持(戦略的に秀吉軍が勝利したことの証左)を 参考文献付きで書いていこうと思います. 同時に,編集前の記事で,参考文献がなく,かつ,こちらの参考文献に矛盾する記述は消去していこうと思っています. --Wiki Humanities Arao(会話) 2013年2月8日 (金) 11:42 (UTC)
- 初めまして、Wiki Humanities Arao様。Battle of Busan (1592)を読んでみました。随分と偏った内容だったようですね。例えば「Impact」の中身ですが、殆ど全部不適当なものになってますね。日本水軍の活動が沈静化した云々は、閑山島海戦の結果、豊臣秀吉が当面海戦禁止したからであって、以前からの現象なので釜山浦の戦いの影響とは違います。この戦闘後、活動が沈静化したのは朝鮮水軍のほうです。小西行長が平壌で停止していたのも以前からの現象であって釜山浦の戦いとは無関係です。その他、晋州城の戦い、幸州山城の戦い、明・朝鮮軍の平壌回復云々も特に釜山浦の戦いとは関係ありません。つまりBattle of Busan (1592)「Impact」の中身はすべて消去したほうが適正ということになります。むしろ「Argument in Japan」の内容のほうが「Impact」の内容として相応しいのではないかと思えてきます。
- 戦闘の勝敗については、釜山攻略に失敗した事実をもって朝鮮水軍の敗退と判断すべきところですが、あえて日本軍の海上補給を断ったかどうかという視点で見ても、海上補給は維持されています。結局のところ停泊船舶にたいする自称大戦果がある以外は朝鮮水軍は何も残していないのです。よって、以前のKorea's decisive victoryは全く適正ではないことになります。もっとも私は英語が得意ではありませんので英語版の編集には加わる予定はありません。Wiki Humanities Arao様の健闘をお祈りしています。もし宜しければ私のブログの(釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討する)や(李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編))を参考にして頂けたら幸いです。--Tokugawa(会話) 2013年2月10日 (日) 14:01 (UTC)