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利用者‐会話:Selbst

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ウィキペディアにようこそ!

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こんにちは、Selbstさん、はじめまして!Suisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Suisui 2006年11月29日 (水) 21:30 (UTC)[返信]

こんにちは。リバイバル1998といいます。

早速ですがプラネタリウムにおけるあなた方の編集合戦が収まらないばかりか、コメントアウトで書かれているノートで議論してくださいを無視した編集が続いているため、保護依頼に出させていただきました。--リバイバル1998 2007年2月10日 (土) 09:11 (UTC)[返信]

利用者‐会話:鳴海での議論について

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こちらで反論して欲しいとのことですので唐突ですがこちらに移動しました。あまり本質的ではない部分ですのであまり長引かせたくないのですが反論させていただきます。まず相手を無視するというのはWikipedia:礼儀を忘れない#インパクトを減らすにはにある手法を参考にした物であり、一種の暴力ではありますが相手によっては必要な場合もあると思います。私も議論を優先したいと考えますが、論理的な回答が得られない人に対して論理的なものを求めるのは難しいですし、この場でIP氏を教育するつもりもありません。また彼が辞書を調べろといっているからといって彼が正しいわけではありません。辞書の内容は正しいですが、彼による辞書の解釈は間違っていると思います。それを彼に説明して理解してもらうよりも、それ以外の人たちだけでコンセンサスを得る方が、最終的に記事を守ることになる近道である考えます。言葉の端々にこだわらないという点についてはまったく同意ですし、そのように対応しているつもりです。むしろそれを他の人に求めようということが利用者‐会話:鳴海さんのノートでの私の発言の趣旨だったわけです。--Uiweo 2007年3月8日 (木) 03:53 (UTC)[返信]

もう1点だけ追記させてください。私は辞書を何度も調べています。それを表明していないのは、表明したところでIP氏の考え方は変わらないだろうということが、これまでのIPの発言を読んで容易に推測できたからです。--Uiweo 2007年3月8日 (木) 04:06 (UTC)[返信]

私がそう言っていたのは、「彼が辞書を調べろといっているから」なのではなく、純粋に言葉の使い方に関しては、IP氏の方が原義的に正しい用法で使われているので、そのように言ったまでです。辞書にある記述は、原義そのものや、それに従った派生的使用方法等なので、「辞書にある記述を、それ以上解釈する」ということは、本来できません。一応、私は言語学・哲学を専門に勉強していますので、そのようなことについて、ある程度の知識を持っているつもりです。IP氏は、議論の中で、相手の揚げ足を取るような形で挑発を行い、相手の冷静さをわざと奪うような手法をとっているものと思われますので、そのような挑発には乗らず、無理に反論はなさらずに、素直に認め、本題の部分へ議論を引き戻されることを行われる方が得策かと思います。
それに、どちらが論理的かと言いますと、私の個人的な観方では、IP氏の方が分があります。因果関係という点においては、向こう側の方がハッキリと示されているので、表現方法や言葉遣いにかなり問題がありますが、どちらが論理的かと言われれば、向こうの方が論理的と言わざるを得ません。もともと事実の内容自体が、偏りを持った内容ですしね。
彼の発言に熱くなられる気持ちもわかりますが、熱くなった方の負けです。第三者から見て、反ってUiweoさんの印象を悪くしてしまいます。--Selbst 2007年3月14日 (水) 15:26 (UTC)[返信]

IP氏の論理的な矛盾については例のノートの2007年3月6日 (火) 04:17 (UTC) で論理的に指摘したつもりですのでこちらをご参照いただきたいと思います。手持ちの電子辞書に入っている広辞苑で「客観的」を調べますと、「特定の個人的主観の考えや評価から独立して、普遍性を持っていること」とあります。また集英社の国語辞典ではこれに加え、「客観性-主観を離れ、誰が見ても一様に認められる性質」「客観的-主観を排し、誰が見ても納得のいくような立場から物事を見るさま」とあります。彼の言うように、「特定の個人的主観の考えや評価から独立して、ある種の普遍性・一般性を含んでいる」というような記述はありません。彼はそうした辞書のミスリードを軸に持論を展開していると考えていましたので彼の主張が論理的とか言葉の使い方が正しいということは甚だしく受け入れがたいです。--Uiweo 2007年3月15日 (木) 01:43 (UTC)[返信]

それは、単に言葉の言い回しの違いであって、本質的な違いは無く、何処がミスリードなのかよくわからないのですが、一応、言葉の原義を説明させていただきますと、本来、主観・客観という言葉は、主体・客体と同義の言葉、すなわち英語や独語のSubjectやObjectに対応します。よって、客観とは、主観で認識される対象のことを指す言葉です。あと、「普遍」という言葉は、「特殊」の対義語として使われる言葉なので、これも「一般」とほぼ同義です。IP氏が執拗に指摘を行っていたのは、皆さんが、「普遍」と「不変」という言葉の意味の違いを混同した形、もしくは曖昧な形で使用していたからなのではないかと思われます。--Selbst 2007年3月15日 (木) 02:06 (UTC)[返信]

こちらは理系人間ですので勉強になります。しかし客観=Objectと考えますと、辞書にある「客観的-主観を排し、誰が見ても納得のいくような立場から物事を見るさま」とは意味が変わってきて、言い回しが異なるだけでなく意味的な違いがあると思えます。また「不変」、「特殊」、「一般」といったところについてのご説明は、その説明自体はなるほどと思えますが、しかしながら「客観」という言葉の話とどのような繋がりがあるのかというところが見えません。私の主張は「一般的≠客観的」ということですが、Selbstさんは「一般的=客観的」とお考えのようですので、そのあたりにズレがあることを認識していただいた上でご説明いただければ納得できるかもしれません。--Uiweo 2007年3月15日 (木) 03:18 (UTC)[返信]

「主観を排し」という辞書の説明についてですが、この辞書は少々説明不足ですね。広辞苑の「特定の個人的主観の考えや評価から独立して」の方が丁寧な説明かと思います。「主観を排し」とありますが、これは「個人的な主観」のことで、主観そのもののことでありません。そもそも今生きている私たちの意識が、すなわち主観なので、主観を排除するということは不可能です。では、「主観を排し」とはどういうことかと言いますと、広辞苑に書いてある「特定の個人的主観」、すなわち私個人の意識・意見を、集団の中の一つの意見として、共同性の中に埋没させてしまうということです。具体的な例で言いますと、「Selbstは~だと考える」これは、私の個人的な主観・意見に過ぎないわけです。しかし、主語を変えて「日本人は~だと考える」とすると、これはもはや私個人の意見ではなく、日本人という集団の意見へと変換されてしまっているわけです。しかも、Selbstという固有名詞の特殊性は、日本人という一般名詞の普遍性・一般性の中で完全に覆い隠されてしまっていて、「日本人」という言葉からは、「Selbst」という個人の面影を見ることもできません。このような作業によって、私個人の主観が、いつのまにやら集団の主観へと変換されているわけです。このような作業を普遍化・一般化と言い、広辞苑にある「特定の個人的主観の考えや評価から独立する」行為に当たるわけです。そして、後者のような記述の仕方で語られている事象を「客観的」という風に表現します。
しかし、抽象的内容を論の前提として据えて、そこから具体的内容へと展開する場合、上記のものとは逆に、この具体化の作業のことを客観化とも表現したりもします。
前回、客観とは英語や独語でObjectだと言いましたが、ここで重要なのは、Objectの直訳である「対象」や「目的語」という意味ではく、その根幹は、あくまでSubjectの対立概念だということです。英語のobjectionが「反対」「異議」という意味であることからもわかると思います。もちろんその対立軸の基本は、主体―客体の関係ですが、広辞苑にある「特定の個人的主観に基づく様」のことを端的に「主観的」と表現した際、それに基づかない様を対立軸の中で言い表そうとした場合に、主観の対義語である客観を用いて「客観的」という言葉で表されたものであると考えられます。逆に、自らが述べる論の主旨のことを主観と表現し、その主旨の具体的事例のことを客観的内容と表現する場合もあります。西洋思想では、思索の中心が「主観」であり、それが軸になっています。
このように、本来は同じ語源なのに、派生を繰り返すことによって、意味が若干変化してしまう事例はいくつかあります。他の例では、英語のvirtuなどがその代表的な事例でしょうか。--Selbst 2007年3月15日 (木) 07:46 (UTC)[返信]

う~ん、かなり深いですね。非常に納得させられるものがありました。コンピュータ業界という自分の仕事柄、仕様を策定したり、データを読んだり、不具合を追求したりといった業務を行うときに、そうした情報をどのように取り扱うかというところで、主観的か客観的かという話がたびたび出てきます。こうした私の(そして恐らく私みたいな理系人間の)感覚では、「日本人は~だと考える」というのはまだ十分に客観的ではなく、「A社が2000年に実施した5万人を対象にしたアンケートによると日本人の85.2%が~だと考えている」というくらいに「反論の隙がない状態」でないと客観的とは認められないと考えます。集英社の国語辞典にある「客観的-主観を排し、誰が見ても納得のいくような立場から物事を見るさま」という記述を素直に受け取った考え方であるといえます。データに基づかないで「日本人は~だと考える」と表現した場合、「日本人は~だと(私は)考える」という意味を含んでいる点で主観が含まれていますし、またもし仮に日本人の5%の人がそれに納得できなければ「誰が見ても納得のいく」ものとはいえません。しかしながらこうした考え方は主観・客観という概念の本来の使われ方ではなく、どちらかというと派生的な用法であるということが今回理解できたと思います。ただ例のノート中でも私の解釈に同意する人がいましたし、私のような解釈をしている人は恐らく理系を中心に少なくないであろうということは、Selbstさんにもご理解いただければと思います。末筆ながらSelbstのノートで元の話から離れた枝葉の部分で長々と話を続けてしまったことをお詫びします。非常に勉強になりました。--Uiweo 2007年3月15日 (木) 10:58 (UTC)[返信]