利用者‐会話:Matsuyama7
「わが国」という書き方はやめてください
[編集]日本語が分かれば世界中どこからでも見られることを忘れないこと。--North land (会話・履歴) 2019年5月25日 (土) 07:14 (UTC)
書誌情報の記載方法について
[編集]末の松山において出典書誌の記載を「著書名刊行年(数字のみ)・論文名・書籍(雑誌)名・参照ページ・刊行者」という順序で記載されていましたが、ウィキペディアにおいては出典記載の書式がWikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)に定められております。そこには記載の順序について「著者名、著書(論文)名、雑誌名、巻数、発行所名、叢書名、刊行年、参照ページの順で記す。」とございますので、これを守っていただくようお願いします。--Unamu(会話) 2019年5月25日 (土) 11:32 (UTC)
一点確認させてください
[編集]末の松山の中で、仙台藩が提出させた『八幡社家御百姓書出』の引用として「社人ともに利府町へ取り移り候者もこれあり」とございますが、これは原文に「利府町」と書かれていたのでしょうか? 江戸時代ですから市町村制施行前であり、明治初の宮城郡の村名としては「利府本郷村」「利府森郷村」の2村であったと『旧高旧領取調帳』にはございます。単に「利府の町場」という程度の意でそのように記されているのであればよいのですが、念のため教えてください。--Unamu(会話) 2019年5月26日 (日) 00:08 (UTC)
回答
[編集]原文は利府町となっていますが、別伝の『般若寺書出』では利府加瀬村の八幡町となっています。『利府村誌』(1963)によりますと、「大昔の大津波の時、加瀬の小林主膳の遠い遠い先祖の人が、加瀬の一本杉のあったあたりで、八幡村の八幡さまの御神体を泥から取り上げ、お祀りしていた。利府ではこの八幡さまを「流れ八幡」と呼び、多賀城では「泥八幡」と呼んでいる。八幡町の大昔の村民は、この「流れ八幡」さまを慕って多賀城の八幡から移って来たひとたちである。」としています。現在の利府町中央3丁目にある八幡社のことです。ご祭神は大鞆分命です。小野寺正人1972「宮城県の漂着神伝承について」『東北民俗』第7輯、9-15頁、東北民俗の会も参考になります。--Matsuyama7(会話) 2019年5月26日 (日) 09:26 (UTC)
アカウント、転載などについて
[編集]ぱたごんと申します。はじめまして。縄文海進など歴史記事へのご投稿ありがとうございます。ただ2点ほど確認したいことがあります
- (1) Matsuyama7さんは過去にTagajou7やArchae7などのアカウントで投稿されていされておりましょうか?もしもこれらのアカウントと同一でしたら、今後はアカウントは一つだけにしていただきたいと思います。Wikipedia:多重アカウントをお読みください。過去のアカウントのパスワードの紛失などが理由でしたらその旨利用者ページに書く必要があります。
- (2) もしもMatsuyama7さんが過去にTagajou7やArchae7などのアカウントで投稿されていましたならば、縄文海進でArchae7さんが投稿したこちらはこの資料の5ページ目からの丸写しです。ご自分の文章であっても第三者には著作者とwikipedia投稿者の関係はわかりませんので剽窃の可能性を考えないとなりません。もしもご自身の文章であれば自著作物持ち込みの手続きというものがあります。ご案内しますのでご自身の文章かどうか教えてくださるようお願いいたします。現在、削除依頼にかかっていますので何もしないと当該部分は削除となってしまうかもしれません。--ぱたごん(会話) 2019年7月22日 (月) 13:06 (UTC)