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林 忠次郎(はやし ちゅうじろう、1879年 - 1940年)は、臼井甕男が靈氣療法(レイキ)のすべての内容を教える資格である「師範」を与えた20人(または21人) のうちの一人。元海軍大佐。[1]

1925 年(大正14年)に海軍を退役して東京信濃町(現在の新宿区)に靈氣(レイキ)の診療所を開いた。診療所は8台の治療台があり1人の患者を2人の霊気療法家によりで施術する方式であったと伝えられる。[2]臼井が設立した「臼井靈氣療法学会」とは別に1930年に「林靈氣研究会」を設立し、靈氣を日本各地及び1938年にはハワイにおいても研修会を行うなどの普及活動を行った。 第二次世界大戦前の1940年(昭和15年)5月11日 に自刃。林の死去後、知恵夫人が「林靈氣研究会」を継いだが夫人が靈氣から遠ざかったこともあり、間もなく研究会は無くなっている。

現在、日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、林からレイキを伝授されたハワイ在住日系人の高田ハワヨ(たかたはわよ)から海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、 日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」 と区別する。

日本国内では高田ハワヨと同じく林忠次郎から師範を伝授された最後の1人である山口千代子が長年、家庭生活の中で実践してきた靈氣(レイキ)がある。それが現在の「直傳靈氣研究会(じきでんれいきけんきゅうかい)」(山口千代子の息子、山口忠夫設立)が普及しているレイキであり、「直傳靈氣(じきでんれいき)」という名称が使われている。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 軍医であったとの説もあるが詳細は不明。
  2. ^ "The Hayashi Reiki Manual"(Frank Arjava Petter,山口忠夫共著)によれば治療台は10台まで置くことが可能だったとある。

de:Chūjirō Hayashi en:Chujiro Hayashi fr:Chujiro Hayashi he:צ'וג'ירו הייאשי it:Chujiro Hayashi nl:Chujiro Hayashi

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hawayo takataの英語記事 

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Hawayo Takata From Wikipedia, the free encyclopedia

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Hawayo Takata (December 24, 1900 - December 11, 1980), a Japanese-American born in Hanamaulu, Territory of Hawaii, introduced the spiritual practice of Reiki to the Western World.[1]

高田ハワヨ(1990/24/12-1980/12/11)はハワイのホノルルで生まれた日系アメリカ人であり、レイキを西洋社会に紹介した人物である。

As a Nisei fluent in the language and culture of both Japan and the United States, she was well-suited for this task and her contributions in this area are widely-acknowledged. Takata, however, remains a source of controversy in the Reiki community for her efforts to maintain the practice as a sort of franchise under her leadership.

彼女は日系二世として日本とアメリカの言語と文化に通じていたため、西洋に日本のレイキを伝えるという役割に適しており業績は広く認められている。しかしながら高田はレイキを彼女の影響下に於て、ある意味「フランチャイズ」的に守ろうとしたとしてレイキ界では今でも論争が続いている。


[edit] History

Hawayo Takata in later life

The daughter of Japanese-born parents, Takata grew up on the island of Kaua'i where her father worked in the sugar cane fields. She left school after second or third grade and went to work in the plantation house. She was given increased duties as she grew older and was eventually was put in charge of the other household staff.

高田は日本生まれの両親の元に生まれ、カウアイ島の彼女の父が働く砂糖きび農園で育った。彼女は学校を小学2、3年でやめ、農園で働くようになった。年齢と共にさらに働かなくてはいけなくなり、家政婦として働くようになった。

On 10 March 1917 she married Saichi Takata, the bookkeeper of the plantation where she was employed. They had two daughters together before October 1930 when he died at age thirty-four in Tokyo where he had gone for lung cancer treatment. After this, Takata worked hard to support her family on her own and this contributed to her suffering from lung problems, a variety of serious gastrointestinal ailments and severe depression leading to a nervous breakdown.

1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていた高田さいちと結婚。1930年10月東京でさいちは肺ガンの治療中に34才で亡くなったが、この時高田夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのために肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重い鬱病にもなり苦しむことになった。

Soon after this, one of her sisters died. Takata journeyed to Japan via steamship with her sister-in-law for the dual-purpose of informing her parents and seeking medical care. After visiting her parents, she went to a Tokyo hospital and was diagnosed with several life-threatening conditions including gallstones and a tumor. She was given some weeks to recuperate from emphysema before being admitted for surgery for appendicitis and her other gastrointestinal problems.

この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、高田は両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と蒸気船で日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。

On the operating table, just before the surgery was to begin, Hawayo heard a voice. The voice said, "The operation is not necessary. The operation is not necessary." She had never heard a voice speak to her like this before. She wondered what it meant. The voice repeated the message a third time even louder. She knew she was wide awake and had not imagined the voice. It was so unusual, yet so compelling that she decided to ask the doctor. She got off the operating table, wrapped a sheet around herself and asked to speak to the doctor.

手術が始まる直前の手術台の上で、ハワヨは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。

Takata asked the chief surgeon about non-surgical alternatives and was given the address of the clinic near the emperor's palace run by Dr. Chujiro Hayashi, later described by Takata as Reiki's "Grand Master". Under Hayashi's care: Mrs. Takata received daily treatments and got progressively better. In four months, she was completely healed. Impressed with the results, she wanted to learn Reiki. However, it was explained that Reiki was Japanese and that it was intended to stay in Japan. It could not be taught to an outsider. Mrs. Takata talked to the surgeon at the hospital and convinced him to ask Dr. Hayashi to allow her to learn Reiki. Since Dr. Hayashi wanted to teach Reiki to another woman besides his wife, and since Mrs. Takata was so persistent, he decided that she should be the one. In the Spring of 1936, Mrs. Takata received First Degree Reiki. She worked with Dr. Hayashi for one year and then received Second Degree Reiki.

高田は手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎の診療所の連絡先を教えてもらった。林は後にレイキの「会長」とされた人物である。林の治療により高田は毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒した。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと希望することとなった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、高田は病院の手術医と話し、この医師が高田がレイキを学ぶことを許すように林を説得した。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたのだが、高田がとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。彼女は林と1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。

In 1937, Takata returned to Hawaii in good health to set up what soon became a very successful Reiki practice. Hayashi and his daughter visited her there when Hayashi went on a tour to promote his art. In the Winter of 1938, Takata became the thirteenth and last Reiki Master initiated by Hayashi.

1937年健康になった高田はレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。林が自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、林と彼女の娘は高田を訪ねた。1938年の冬、高田は林からマスターの伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。

Takata returned to Tokyo in 1940 as World War II was imminent led, she said, by a dream in which Hayashi appeared to her. There, by Takata's account, Hayashi announced that she would be his successor as Grand Master. Hayashi, a reserve officer in the Japanese Navy, was called to active military duty. As a Buddhist and pacifist, Hayashi performed seppuku rather than participate in the bloodshed of war.

高田は夢に林が現われたと言い、1940年第2次世界大戦が差し迫っていた東京に戻った。そこで林は高田の実績を評価して自分の後継者とした。林は日本海軍の予備役将校であり軍に復帰するように求められていたが、仏教徒であり平和主義者として多くの血が流される戦争に加担するよりは、と切腹した。

She returned to Hawaii and taught Reiki for the next thirty years. Until 1970, Takata taught only the first and second level of Reiki instruction. Although she trained scores of people to be Reiki practitioners, Takata did not create any Reiki masters.

高田はハワイに戻ってから30年間レイキを教えたが、1970年まではファーストとセカンドディグリーのみを教えた。彼女は多くのレイキの指導者を養成したが、マスターは育てようとしなかった。

Between 1970 and her death in 1980, Takata taught the third level of Reiki instruction and initiated twenty-two Reiki Masters. She charged $10,000 U.S. for this training and has been criticized for making Reiki mastery an elite club for the wealthy. Takata defended this as an appropriate "exchange of energy" and cited a tale she said was told to her by Hayashi, the point of which was that those who had not paid for their healing had no incentive to stay well.

1970年以降、亡くなる1980年までの間に高田はレイキのサードディグリーを指導し、22人にマスターを伝授した。彼女はマスターを受けるために10,000USドルを科したため、レイキマスターを富裕層のためのエリートクラブにした、と非難された。林は妥当な「エネルギーの交換」だと弁明して、林に言われたとする、治療のためにお金を支払わない者には、良くなろうとする動機が無い、という趣旨の言葉を引き合いに出した。

Her legacy is mixed. Certainly those in the Western world who have had the blessing of Reiki in their lives are grateful to Mrs. Takata for bringing Reiki to our society. Yet [...] Independent researchers traveling in Japan in the past 10 years have discovered that it is quite unlikely Dr. Usui ever designated a successor or even claimed the title of Grand Master himself. Apparently he did initiate several Reiki Masters, of which Chujiro Hayashi was one, but they were all equals. None was of a higher rank than others. Dr. Usui did set up an organization to carry on the work of Reiki but he did not set up a Grand Master system.

彼女の残したものは今は様々な形になっている。確かに西洋社会において人生でレイキの恩恵を受けている人々は彼女が西洋にレイキをもたらしたことに感謝している。しかし過去10年の間に日本に渡って独自に調査した人々は、臼井が言われているような継承者とは違うということ、また会長という地位に彼自身が不満であったということを発見している。彼は数名のレイキマスターに伝授をし、林忠次郎もその1人であったが、彼らは全員平等であったのは明らかである。誰も他のマスターより上の地位にはなかった。臼井はレイキの指導を続けるための組織を設立したが、会長制度は作らなかった。

Takata's insistence that there was a single leader among practitioners of Reiki, and her failure to name a successor, has been the focus of discord within the Reiki community for decades and led to the development of traditional and non-traditional factions.

高田はレイキのプラクティショナーにはリーダーは1人であるべきと主張し、彼女が後継者を指名しなかったため、 それが何十年もの間のレイキ界内の不協和の原因となり、伝統派と非伝統派が分かれるに至った。

[edit] References and notes

^ "Takata" is her surname by marriage. Sources used for this article did not reveal her birthname. There is no logical justification for the capitalization of "Reiki", except perhaps that its practitioners regard it as a proper noun. It is, however, almost universally capitalized and this article follows that form.

「高田」は結婚後の姓である。この原稿の元になった出典では彼女の旧姓を明らかにされていません。おそらく「レイキ」を職業とする者が「レイキ」を固有名詞とみなし用いる以外に、「レイキ」の資金源化を論理的に正当化する根拠はありません、しかしながら「レイキ」には一般的に金銭が支払われます。そして本稿はそれに従います。

[edit] See also Reiki

Timeline of Reiki history

Mikao Usui

Complementary and Alternative Medicine

Alternative Medicine

Glossary of alternative medicine

US National Center for Complementary and Alternative Medicine

Meiji Restoration

Meiji Emperor

Chujiro Hayashi

Retrieved from "http://en-two.iwiki.icu/wiki/Hawayo_Takata"

Categories: 1900 births | 1980 deaths | People from Hawaii

高田ハワヨ(1990/24/12-1980/12/11)はハワイホノルルで生まれた日系アメリカ人であり、[[レイキを西洋社会に紹介した人物である。

彼女は日系二世として日本とアメリカの言語と文化に通じていたため、西洋に日本のレイキを伝えるという役割に適しており業績は広く認められている。しかしながら高田はレイキを彼女の影響下に於て、ある意味「フランチャイズ」的に守ろうとしたとしてレイキ界では今でも論争が続いている。[1]

人生

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高田は日本生まれの両親の元に生まれ、カウアイ島の彼女の父が働く砂糖きび農園で育った。彼女は学校を小学2、3年でやめ、農園で働くようになった。年齢と共にさらに働かなくてはいけなくなり、家政婦として働くようになった。

1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていた高田さいちと結婚。1930年10月東京でさいちは肺ガンの治療中に34才で亡くなったが、この時高田夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのために肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重い病にもなり苦しむことになった。

この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、高田は両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と蒸気船で日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。

手術が始まる直前の手術台の上で、ハワヨは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。

高田は手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎の診療所の連絡先を教えてもらった。林は後にレイキの「会長」とされた人物である。林の治療により高田は毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒した。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと希望することとなった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、高田は病院の手術医と話し、この医師が高田がレイキを学ぶことを許すように林を説得した。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたのだが、高田がとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。彼女は林と1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。

1937年健康になった高田はレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。林が自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、林と彼女の娘は高田を訪ねた。1938年の冬、高田は林からマスターの伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。

高田は夢に林が現われたと言い、1940年第2次世界大戦が差し迫っていた東京に戻った。そこで林は高田の実績を評価して自分の後継者とした。林は日本海軍の予備役将校であり軍に復帰するように求められていたが、仏教徒であり平和主義者として多くの血が流される戦争に加担するよりは、と切腹した。

高田はハワイに戻ってから30年間レイキを教えたが、1970年まではファーストとセカンドディグリーのみを教えた。彼女は多くのレイキの指導者を養成したが、マスターは育てようとしなかった。

1970年以降、亡くなる1980年までの間に高田はレイキのサードディグリーを指導し、22人にマスターを伝授した。彼女はマスターを受けるために10,000USドルを科したため、レイキマスターを富裕層のためのエリートクラブにした、と非難された。林は妥当な「エネルギーの交換」だと弁明して、林に言われたとする、治療のためにお金を支払わない者には、良くなろうとする動機が無い、という趣旨の言葉を引き合いに出した。

彼女の残したものは今は様々な形になっている。確かに西洋社会において人生でレイキの恩恵を受けている人々は彼女が西洋にレイキをもたらしたことに感謝している。しかし過去10年の間に日本に渡って独自に調査した人々は、レイキの創始者であり林への伝授者である臼井甕男が言われているような「継承者」とは違うということ、また「会長」という地位に彼自身が不満であったということを発見している。彼は数名のレイキマスターに伝授をし、林忠次郎もその1人であったが、彼らは全員平等であったのは明らかである。誰も他のマスターより上の地位にはなかった。臼井はレイキの指導を続けるための組織(臼井靈氣療法学会)を設立したが、会長制度は作らなかった。

高田はレイキのプラクティショナーにはリーダーは1人であるべきと主張し、彼女が後継者を指名しなかったため、 それが何十年もの間のレイキ界内の不協和の原因となり、伝統派と非伝統派が分かれるに至った。

脚注

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  1. ^ 「高田」は結婚後の姓である。この原稿の元になった出典では彼女の旧姓を明らかにされていません。おそらく「レイキ」を職業とする者が「レイキ」を固有名詞とみなし用いる以外に、「レイキ」の資金源化を論理的に正当化する根拠はありません、しかしながら「レイキ」には一般的に金銭が支払われます。そして本稿はそれに従います。