利用者‐会話:M3kz36r/サンドボックス
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サンドボックス
[編集]--おりぐちなまぶ 2008年12月1日 (月) 13:22 (UTC)
記述の観点について考えられることについて
[編集]- このたび、堀川運河は、経済産業省より「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」として認定を受けました。この記事の出典;福岡県北九州土木事務所
- 堀川運河が開発された動機、理由とは。
- 黒田長政の功績の件についての注釈を要す。
- 栗山大膳の功績についての注釈を要す。
- 黒田騒動と深い関係があることを記載する。開発に、長年要した理由の一番の理由。そのために、何百、何千の人間が死んだか。
- 川艜、五平太船についての注釈を要す。
- 遠賀堀川の堀川運河としての開発について、「開発年表」の作成を要す。
- 近代化産業遺産としての評価、価値の注釈を要す。
- 堀川運河、遠賀堀川として呼ばれていること。
- 注釈;堀川運河とは、河川管理者の「福岡県北九州土木事務所」の概念規定を明記。
- 遠賀堀川とは、地元の郷土史家、産業考古学者の呼称、遠賀堀川は、遠賀川の水を洞海湾に分流することが開発の目的であった。遠賀川、江川とは切り離して語れない。
- 遠賀堀川がはたした役割
- 遠賀川の洪水確率の高さ。毎年、洪水が起き人が死ぬ。遠賀川の築堤とともに、洞海湾への河川水の分流。
- 筑豊地域の農産物の輸送。芦屋経由か、江川経由であった。それほど、小倉豊前藩は貧しかった。
- 日本の近代文明開花を支えたエネルギー、「石炭」の「運搬」。筑豊炭田と洞海湾の八幡製鉄所。
--おりぐちなまぶ 2008年12月7日 (日) 20:57 (UTC)
暫定記事名「堀川 (北九州市)」
[編集]この河川が北九州市外も流れるため、記事名としてもっと適切なものがないか探しています。この件に関しては曖昧さ回避ページ「堀川」でご迷惑をお掛けしました。
河川の記事名は、PJ河川のルールに沿うのが一番ですが、よいものがない場合は「ノート:桜川 (茨城県南部)#暫定記事名「桜川 (河川)」」のような独自の議論が必要になることもあります。
- 考えられる候補
- 堀川 (北九州地方) - 天気予報区分より。桜川と同様の回避手法。
--Triglav 2008年11月29日 (土) 15:03 (UTC)
かわひらた
[編集]関連項目節の「川ひらた」(赤link)を「かわひらた」(赤link)へ差し戻されましたが、大手の検索結果ですと前者のほうが多いですが、なにかこの川特有の理由があるのでしょうか?--Triglav 2008年11月30日 (日) 03:43 (UTC)
- なにかこだわりをお持ちのようで。でしたらそれで記事を起こしてください。後日、改名提案が提出されるような事になったら、またお話しします。--Triglav 2008年11月30日 (日) 11:11 (UTC)
- いえいえ、ただ淡々と、事実を書いているのです、本文の主文には一切、記述しません。すべて、管理人さんたちで協議され、管理人様方で協議、普遍化を図ってください。出所は、九州産業考古学会です。お好きなように、加除訂正されてください。しばらく、加筆を休止します。ご迷惑をおかけしました。 --おりぐちなまぶ 2008年11月30日 (日) 15:26 (UTC)
- 「こだわり」という部分には深い意味はありません。威圧的に感じられたらのでしたら失礼しました。このノートページでの整理が終わりましたら、どんどん本文に上げてください。詳しい方たちから書き加えていただけることでしょう。ちなみに私はM3kz36r様と同じ一般利用者です。--Triglav 2008年12月1日 (月) 02:07 (UTC)
遠賀堀川について(地元市民の私見にすぎません)
[編集]- 土砂を掘って河川をつくったというところから、堀川といわれるようになったと、「九州産業考古学会」では説明している。だから、全国津々浦々に「堀川」が沢山あるが、遠賀川と洞海湾とを12KMにもわたって、固い岩をノミで掘削した河川であることから、これを「遠賀堀川」と呼んで、全国の他の「堀川」と区別して呼称している。(出所;九州産業考古学会会報)
- また、近代化産業遺産として指定された、この通称、「遠賀堀川」は、当初は、筑豊の穀物、そして近代はかわひらたによる石炭の運搬媒体として、かわひらたが通過できるように、堰を随所に設けて、運河としての諸機能を有していたことから、河川管理者の福岡県北九州土木事務所は、「堀川運河」と呼称していることも理解できる。(出所;九州産業考古学会)
- そこで、「遠賀堀川」と「堀川運河」とは、同一概念ではなく、異なった概念と理解して、目的に応じて使用したほうが良いと思われる。また、現在は、「遠賀堀川」は川水がながれない川であり、「運河」としても機能はしていない。折尾の街の象徴として存在している。
文責--おりぐちなまぶ 2008年12月1日 (月) 17:01 (UTC)
遠賀堀川の概説
[編集]- 九州の北部は、英彦山川水系といわれている。この英彦山川水系の最大の河川である遠賀川は、英彦山川水系の下流域にあたるが、いまの、直方市から以南は広大な範囲にわたり分流していた。それは、現在の鞍手郡、遠賀郡、八幡西区西部、若松区西部、芦屋町などが遠賀川の下流の一体であって、この一体を、地元の郷土史家としては、昔から「遠賀平野」として、「遠賀」という漠然とした名称で呼んでいた。そして、「折尾」は「遠賀の都」であった。
- 遠賀川は流れがゆるく天井川といわれた時代が長くあり、下流域にある、いわゆる「遠賀平野」では、洪水確率が非常に高く、何度も河川の氾濫を起こしていた。そこから、「川筋気質」という精神的風土が形成された。つまり、「宵越しの金は持たない」という。要は、何時、蔵の穀物が流されるかわからないからだ。
- そこで、徳川の治世になって以来、遠賀川の築堤を行うこととなった。また、遠賀川を分流して洞海湾へ流す計画を立てる計画が持ち上がった。
- 1621年から1804年までの183年間(128年間休止、実働55年間)もかけて堀川の掘削が完成した。休止の間は、遠賀川を直線化する築堤工事を行った。
- 遠賀堀川開通以前の川艜は、遠賀川を経由して筑豊の豊富な農産物を(藩の年貢米、ハゼの実、ロウ、菜種、卵等を芦屋に輸送する。その後、藩内向けの石炭輸送が始まり、石炭需要が拡大するにつれて、石炭輸送の比重が増大する。
- 洞海湾へは、芦屋経由と江川経由がとがあったが、遠賀堀川開通後は、もっぱら遠賀堀川経由となった。1891年(明治24年)に若松~直方間を鉄道が敷設されて、水運と陸運とで石炭輸送を行った。そして、遠賀堀川の川艜通船数が、1899年(明治32年)をピークにして鉄道輸送に変わっていた。
- 遠賀堀川の川艜はついに、1939年(昭和14年)に姿を消した。
- 遠賀堀川の灌漑用水の恩恵を受けた村は、中間、岩瀬、二、吉田、伊佐座、立屋敷、下二、頃末、杁、古賀、猪熊、折尾、本城、御開、陣原、則松の16ヶ村である。
- 昭和初期から「洗炭」による汚濁水がすべて遠賀川に排出された。このため遠賀堀川も黒く汚濁した。昭和40年代から、石油へのエネルギー転換により鉱山の閉山が相次ぎ、遠賀川の汚濁は低下した。しかし、遠賀堀川沿いの市街化が進展し、その生活雑排水が流れ込み、都市下水路として新たな汚濁が始まった。
- 石炭採掘の後遺症であるところの鉱害は至るところで発生し、あらゆるものの陥没を来たらした。そのため大雨による水害があらたに発生した。このため、遠賀堀川も、中間の岩瀬で切断されて曲川に河水が落とされて、そこから下流域は河水が流れない河になる。
- 生活用の雑排水は、「遠賀堀川」に流したが、河水が流れない遠賀堀川は汚濁が堆積するようになる。水質の汚濁が進んだ遠賀堀川は、一時、廃しするという風説が建つほどであったが、昨今は、地域住民の遠賀堀川の清掃が頻繁に行われている。
- このたび、遠賀堀川は「近代化産業遺産」として経済産業省から指定を受けたことから、この遠賀堀川をまちづくり資源として、折尾地区総合整備事業が進む中で、折尾駅舎とともに、日本の近代化を大きく支えた石炭運搬文化としての産業資産を活用し、「まちおこし」を行う運動が展開されている。
- 遠賀堀川関係年表
- 1620年(元和06)黒田長政、遠賀川を二度視察。
- 1621年(元和07)総責任者の栗山大膳、岩瀬~吉田の遠賀堀川の掘削工事を着工。
- 1623年(元和09)黒田長政死去他の理由により、遠賀堀川掘削工事を中止する。
- 1755年(宝暦05)六代藩主黒田継高が遠賀堀川の工事を届出、本工事再開。
- 1757年(宝暦07)車返三間幅で切貫きが貫通する。
- 1759年(宝暦09)車返半間拡張工事完了。
- 1762年(宝暦12)則松川へつなぐ工事が完了。一田九作備前の吉井川へ派遣、唐戸を視察、作図し持ち帰る。
- 1763年(宝暦13)中間総社山唐戸完成完成。正式に通船が始まる。
- 1804年(文化元)楠橋村寿命唐戸完成。
- 1846年(弘化03)河守宮建築棟上。
- 1891年(明治24)筑豊興業若松~直方間開通する。
- 1895年(明治28)折尾駅完成。
- 1939年(昭和14)最後の川艜が通過。
- 1962年(昭和37)県立折尾高等学校の中庭に展示されている「川艜」は、福岡県有形文化財指定。
- 1971年(昭和46)寿命唐戸、北九州市の文化財指定。
- 1983年(昭和58)中間総社山唐戸、福岡県文化財指定。
- 1989年(平成02)曲川との交叉地点で分断、下流に河水が流れなくなる。
(加除訂正中) 文責--おりぐちなまぶ 2008年12月1日 (月) 13:03 (UTC)
関連する事柄
[編集]- 川艜(かわひらた)
- 「遠賀堀川」の「堀川運河」を通過して、古くは穀物を、近代は石炭を「筑豊」から「洞海湾」へと運搬した。石炭は、若松港、八幡の新日鐵、そして一部は、門司港へと運搬された。その船を「川艜」と言った。「九州産業考古学会」としては、漢字で、「川艜」と統一して表現するようにしているが学会では、「川ひらた」と書いている人もいるが、「ひらた」の漢字が難しいので「ひらかな」で記載しているのではとの説もある。また、地元住民としては、江戸時代は漢字が書けなかたこともあるのだろうが、庶民の多くは、ひらがなで「かわひらた」と書いたのでひらがなで表記すべきだという郷土史家もいる。学会の規定の「川艜」とするか、地元住民が使用する「かわひらた」にするかについては、筆者は、「かわひらた」の方が日常用語としてなじみがあると思う。「川艜」の大きさは、大型で長さ10㍍、横幅2.7㍍、深さ66㎝、積載量約6トン余り。小型で長さ8㍍、横幅2㍍、深さ54㎝、積載量約4トン位。「川艜」は、五平太船(ごへいたぶね)とも呼ばれている。その由来は、藩主の用船に「御」をつけ、「御艜」となり、御平太(ごひらた)から五平太(ごへいた)と呼ばれた。五平太については、各地で諸説がいろいろあり確定できないが、遠賀地域ではそのように言っている。
- 黒田騒動
- 遠賀
文責--おりぐちなまぶ 2008年12月2日 (火) 02:46 (UTC)
資料の出所など
[編集]- 基本資料;九州産業考古学会「会報」
- ヒヤリング;郷土史家の語り、「堀川を愛する会」
- ヒヤリング;九州大学の研究者の語り
- 川艜の資料;県立折尾高等学校保存資料
- 年表関係資料;「堀川探訪12KMの旅」(編集;「堀川再生の会・五平太」会長)