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利用者‐会話:Komatta1

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 試論「さらば太宰師様」

 それは神亀五年の四月、庭先の楝(オウチ)の花が咲き誇って香しい匂いが辺り一面に漂っている或る夕方の事でした。  いつものように、九州各地から訴訟や陳情や上納、また報告のために太宰府政庁に来られた人達を相手に、両親が営んでいる食事所でご飯やおかずやお酒を運んでいると、先刻から別室で私の両親と話し込んで居られた筑前守山上憶良様が私を手招いて居られました。  何事かと思って別室へ参りますと父が申しました。 「お前、明日から太宰師様のお屋敷へ行ってお食事の用意やお掃除をして、太宰師様と家持様の身の回りのお世話をしなさい。」 「お前に出来るかどうか心もとないが、憶良様が是非にとおっしゃるので、出来るだけのお世話をやってあげなさい。」  母もそう言いました。  私が答えに窮して憶良様を見ますと、 「いや、これは私のたってのお願いだ。ご承知の通り太宰師大伴旅人様の奥方郎女様がお亡くなりになって太宰師様も悲嘆にくれて居られ、そのお気持ちも良く分かるし、それはそれで仕方ないが、お食事やら身の廻りが滞り政務に支障が出ては困るので、せめて日常の身辺のお世話をして貰いたい。何れ都より刀自の女人がお出でになるので、せめてそれまででも宜しくお願いしたい。」  私も新しく着任された太宰師様の奥方郎女様が、寒い冬季の長旅で体調を崩され、到着以来薬師の世話を受けられていたのが、薬効も得られず、お亡くなりになったと言う事は、食事やお酒飲みに立ち寄る舎人の噂で聞いていたのです。そして太宰師様が 「世の中は、空しきものと知る時し、いよよますます悲しかりけり」 との歌に詠まれたと聞いていました。  官邸の生活様式などは皆目分かりませんでしたが、事態の重大な事や、憶良様のたっての要請と太宰師様の窮状に少しでも役に立てればと思って、私は太宰師様の官邸に参る決心をしました。  太宰師様の身の周りのことは役所の舎人の奥様や娘さん達が交替でお世話しておいでになりましたので、私は専ら台所で太宰師様と家持様のお食事を作って差し上げました。  九歳になられたばかりの家持様は活発で利発なお子様で、毎朝、そして毎夕、太宰師様のお出かけとお帰りの時刻に大声で漢詩を読んだり、歌を作って朗詠されていました。  帰宅された太宰師様は、時折、その歌を手直しされたり、朗詠の調子をご教示されたりしていました。  家持様は、また、好奇心旺盛な方で、私の台所へ来て、釜のご飯の出来具合や野菜の調理の様子をつぶさに御覧になりお手伝いをされることもありました。 「家持様、駄目です。太宰師様に見つかったら私が怒られますから、止めて下さい。」 とお願いしても、 「なーに、構わないよ。女人の仕事に就いて理解しておくことは何れためになるんだ。」  そうおっしゃって一向に気にされませんでした。  一度大野山へ薪取りに行った時、家持様が是非にとおっしゃって同行されましたが、大野山からの雄大な展望やら道端の草花にいたく興味を示され、その後も度々薪取りに同行されました。  そしてその時の事を歌に詠まれ太宰師様に御覧に入れて居られましたが、私もその頃から歌がどのようにして出来るのか、おぼろげながら分かるようになりました。  ある時、太宰師様が家持様の歌作りのご指導をされているのを聞くともなく聞いていましたら、 「児島、お前も歌を作って見ないか。」 と言われまして、一度事態したのですが、面白そうなので下手な歌を作って披露致しましたら、 「うーん、なかなか素質があるじゃないか。これから、どんどん作って持って来なさい。」 と言われました。  その頃、太宰師様も郎女様の悲しみから少しずつ立ち直っておいでの様子でした。  お陰様で私も歌作りを教えて頂きながら、歌作りの面白さが分かり、朗詠も出来るようになりました。

 郎女様が亡くなられてから凡そ二ヶ月位した頃、都から太宰師様の異母姉になられる坂上郎女様が、太宰師様の身の周りや官邸取り仕切の刀自として御西下になりました。

 私よりも一回りくらい多い三十歳後年のように見えましたが、臈長けた色白の長身の体には知性の溢れた才女の雰囲気があり引き締まった感じが漂っていました。  坂上郎女様のご到着で、私の仕事は専ら台所の賄い、炊事になりましたが、家持様は、坂上郎女様から詩や歌をみっちりと教え込まれて居られるようでした。  家持様の歌の才能は、この頃から急に上達されたように思います。  坂上郎女様は家刀自の仕事と家持様の教育に専念され、自らの歌を作ったり、歌作りのための外出等はごくたまにしかありませんでした。  ただ、筑前守憶良様や太宰大監大伴宿弥百代様らがお見えになり、それぞれの地方巡視の折りの土産物をご持参になり、その時為されるお話を興味深く聞いて、美しい軽やかな笑い声を立てられるのが印象的でした。  また、憶良様は歌作りの事になるととても熱心で、太宰師様と歌の話しなると、こもごも意見を出し合われて意気投合され、肝胆相照らすと言うのか、「酒を持ってこい。」と、お酒を飲み交わしながら、夜の更けるまで語り込んでいられました。  いつの頃か、お二人で、九州の官人を太宰府に集合して歌会を開こうではないかと言うような話しが持ち上がり、早速その計画を立ててお出での様子でした。

 太宰師様は郎女様の喪明け頃から、すっかりお元気になられて、政務も順調で、歌会を開こうとの意欲が出てきたもののようです。

 天平二年の正月十三日、太宰師様の官邸で太宰府在住の官人並びに九州三島の官人合わせて三十二名がお集まりになって、大陸渡来の梅花を愛でる歌会が盛大に催されました。  南向きの日溜まりで官邸の梅は、大方開いて甘い香りを漂わせていましたが、時折、雪が舞い降りる寒い日が続いていました。  太宰師様の官邸の南向きの部屋に一同集合されまして、政務会議の後に、酒肴を準備して、梅花の宴に移りました。  各人に硯と筆と短冊が渡され、官人の人達は、思い思いに庭を眺め梅を見たり、大野山を振り返ったりしながら、歌作りに熱中して居られました。  私はそんな殿方へのお酒を捧げて廻ったり、つたない踊りを披露したりしていました。  坂上郎女様は客人のお持て成しで大わらわであり、家持様は太宰師様の側で皆様の動きを見て、出来上がった歌の短冊を集めて居られました。  全部の歌が集まり、私が舞いを踊り、参加の皆様が再び落ち着かれたところで、歌の披露になりました。  数人の舎人が、席順に、その官人の歌を朗々と詠んでいかれました。  この時の太宰師様の歌は次の様でした。 「わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」  そして憶良様は 「春されば まず咲くやどの 梅の花 一人見つつや 春日暮らさむ」 と詠まれました。  参会の皆様はそれぞれの朗詠が済む毎に拍手を叩き、感嘆の声を上げて居られました。  かくして梅花の宴は盛大かつ煌びやかに粛々と進行し、太宰師様もご満悦の内に終わり、参加の官人皆様方も楽しい一時を過ごされ、お喜び召されて居ました。

 梅花の宴の後、また暫くいつもの通りの平穏な日々が続き、時折、家持様と大野山へ登ったりしましたが、山頂から眺める政庁と町並みが綺麗でした。ただ、観世音寺は造営が中断したままで敷地のみしか見えませんでした。遠くを見ると遥かに志賀島が見え、青い海が広がっていました。

 ところがこの年の秋、太宰師様が大納言に昇進されたとの知らせが届き、俄に慌ただしくなりました。  太宰師様は残務整理の為に、連日遅くまでのお仕事でした。  そして十一月初め、坂上郎女様と家持様が太宰師様より一足先に奈良の都へお帰りになりました。  太宰師様は残務整理を終え、九州三島の官人の挨拶を受け、十二月半ばに都へ出立されました。  前日の雪も止んで、その日は、冬の青空を仰ぎながら、残雪を踏んで、沢山の人と一緒に太宰師様を水城の門まで見送って参りましたが、水城に着いて一休みしながら、太宰師様は感慨深そうに政庁の方を振り返って居られました。  その後ろ姿には、亡くなられた最愛の郎女様への万感の思いがあるようでした。  私は何もお役に立てないまま、太宰師様を見送ることになり、名残惜しくて残念な思いで一杯でした。そこで最後の歌をしたためて舎人に託しました。 「おおならば かもかも為むを かしこみと 振りたき袖を 忍びてあるかも」 「やまと道は 雲隠りたり 然れども 我が振る袖を なめしと思うな」  私の歌をお読みになった太宰師様は、遠くから私の方へ手を振られて何やら歌をしたためてお出でになりましたが、やがて舎人が持参した短冊には 「やまと道の 吉備の児島を過ぎて行かば 筑紫の児島思ほえむかも」 「丈夫と思えるわれや 水茎の 水城の上に 涙のごはむ」 としたためてありました。  やがて太宰師様は、水城を後にして御笠の森の方へ整斉と進んで行かれ、森陰の向こうへ見えなくなりました。  私はこの後、太宰師様の歌を抱きながら水城の堤の上を蹌踉とさまよい歩き、残雪の草の上に倒れ込んで大声を上げて泣きました。  日が暮れるまで泣きました。(終わり)(小松優~~~~)

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