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利用者‐会話:Hikari mukau

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失礼な投稿により削除--Hikari mukau会話) 2013年9月16日 (月) 03:03 (UTC) 伊邪那岐の文字の件は失礼しました。訂正しようとしましたが、先を越されてのわずか1時間での訂正ありがとうございます。--Hikari mukau会話) 2013年9月16日 (月) 05:06 (UTC) ただ伊耶那岐、伊耶那美の書き方も以前から存在しました。--Hikari mukau会話2013年9月16日 (月) 05:32 (UTC)[返信]

これは私の認識不足で失礼いたしました。--Saigen Jiro会話2013年9月16日 (月) 05:50 (UTC)[返信]

いえいえ、休日までの書き込みお疲れ様です。--Hikari mukau会話2013年9月16日 (月) 05:56 (UTC)[返信]


Claw of Slimeへの公開質問

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まずは日本の記事での(個人的な意見を除去)と言う失礼極まりないレスについて個人的に謝罪を要求したいと思う。

次に日本と言う国について

確かに『新羅本紀』や『旧唐書』などで対外的に倭から日本へと国名を変更したのはわかる。 だから大宝律令がその元だとの主張もありだろう。 大宝令公式令詔書式によって日本名が初めて引用されたとするあくまで説である。

また『新羅本紀』も『旧唐書』も白村江の戦いで日本を破った側の唐・新羅連合軍の書物であることを考慮に入れるべきだろう。 日本の対外的に示した国号変更の時期もその敗戦後であるという事を考慮に入れるべきだ。

そもそも国内的には日本書紀においては当初から日本と言う文字は使われている。 その筆頭が日本書記である。

日本書記の編纂が開始されたのは天武天皇の時であり、大宝律令の文武天皇よりさらに古い時代である。

確かに、古事記は倭(ヤマト)と称しているものの、日本書紀では初めから日本を日本と書いている。 日本書記を見てみると日本という国名はかなり以前から存在していたように記されている。

そして対外的には日本は元々は倭(ワ)と呼ばれていた。 日本人もその事を知っていた。

しかし200年代の卑弥呼の時代に日本人は既に自らをやまたいこくと名乗っている。 これは対外的な倭と言う通称と日本人自身が日本を呼ぶ時の名称がそれ以前より異なっていたことを示している。

また、やまたいこく、やまとなどと言う言葉は倭、それが大倭に代わり、大和に変わった時のあて文字であり大和をヤマトと発音することは元来はなかった。

また一部の説では「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)としているが、このもとは本とも読むことができる。 そして魏以前の発音では日の中国語の発音がniya若しくはjya、と呼ぶこともあり、これが日本の元だったとする説もある。 このjyaの発音がジャパンの元となった事は容易に理解できよう。

ここで話を元に戻すと日本書記が初めから書いているように古代から日本は国内では日本を自称していた可能性が高い。

そして引用も何も日本書紀では元から日本を日本と呼んでいるのである。 記紀を肯定するならばこのような解釈が出てくるのは必然。 むしろ、『新羅本紀』や『旧唐書』に比重を置きすぎた解釈(一説)だけを正論とするのには無理があるだろう。

そもそも記紀に重心を置いた解釈を個人的な意見と呼ぶのはずいぶんと失礼な書き込みではないのか?

いつから記紀のすべてが妄想になったのだ?おかしくはないのか? 津田左右吉でさえ神武天皇の存在は否定していないのにおかしいだろう?


これが俺の考え方だ。

君の返答を待つ。

一つの文献に固執する愚かしさと見苦しい排他的な行為

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『隋書』倭国伝 「樂有五弦琴笛。男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。無文字,唯刻木結繩。敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。」 文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。

この一説をして当時の日本にはもいがなかったと主張する者がいるが、(607年)遣隋使の小野妹子の日本からの隋皇帝煬帝に宛てた国書、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。つまり隋の時代に日本には文字があったのは明白な事実。 さらに一般に認知されている仏教伝来以前の438年に倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)これらの事からも当時日本に文字がなかったとはいいがたい。 更には200年代の卑弥呼など数多くの日本人が既に文書による交流を行っていたと思われる。

このようにただ一つの古書をもって日本の歴史を決定するのには問題があるように思われる。

また『新羅本紀』も『旧唐書』も白村江の戦いで日本を破った側の唐・新羅連合軍の書物であることを考慮に入れるべきだろう。 日本の対外的に示した国号変更の時期もその敗戦後であるという事を考慮に入れるべきだ。

記紀、特に日本書記は日本の正式な歴史書であり、これをないがしろにするのはどうか?と思う。 上記の通りに明らかに間違えている海外の日本国についての文献の一説を日本国の文献を無視してまで持ち上げる事に何の意味があるのかと思う。 またその一部の説に固執するあまり、他の説に対して非常に排他的な行為を取るのはいかがなものか?

Claw of Slimeなどの日本書記への悪質で失礼なアンチぶりにはいささか不快感を覚えるのである。

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