利用者‐会話:Hachidairyuou/過去ログ9
『岐蘇古今沿革志』の情報源としての信頼性
[編集]以下過去ログからの引用。
「吉蘇古今沿革志です。 八大龍王(会話) 2017年12月16日 (土) 14:52 (UTC) そもそもその『吉蘇古今沿革志』にはどの程度の信頼性があるのでしょうか? 武居用拙という人物は歴史の専門家でもなく、1890年の著書でその後の歴史研究で顧みられたこともない著作にどれほどの信頼性があるか疑問を感じます。--203.180.166.195 2017年12月16日 (土) 16:10 (UTC)
岐蘇古今沿革志/木曽■武居正次郎編著■国書刊行会/昭和57年初版原本は大正3年5月2日発行―本書は、「著者(武居用拙)の次子・正次郎により編纂出版されたが、少数予約出版のため木曽谷以外の地に及ばず、すでに数十年の歳月を経た今日、この名著うに接し得た者は稀であり、地に埋もれた幻の稀書としての渇望久しい」。本書は、「木曽に関する古記録・古文書が豊富に収録され、文献的資料価値の高いこの本を、島崎藤村先生は『夜明け前』の執筆にあたって活用され、また作品中に用拙先生も登場させています」。島崎藤村先生は幻の稀書として扱っています。はたして信頼性が無いと言い切れますか?八大龍王(会話) 2019年1月17日(木)17:26 (UTC)
島崎藤村は著名な小説家ではありますが、歴史学については全くの専門外であり、いくら『夜明け前』の執筆に活用しようが、作品中に武居用拙を登場させようが、その『岐蘇古今沿革志』の信頼性を保証するものでは全くありません。それと上記文章を読んでも「幻の稀書」としているのは藤村ではないように思うのですが?--203.180.166.195 2019年3月4日 (月) 16:24 (UTC)
『岐蘇古今沿革志』という書物はこの世に存在しています。貴方一個人の考えで信頼性がないと思うのは自由ですが、その貴方の考えにそぐわないという理由だけで差し戻し削除する行為は、この書物の存在を否定することになります。この書物が世の中に存在する以上、証明として出典されます。貴方は島崎藤村が歴史学については全くの専門外と言いますが、まず専門外という根拠と証明をして下さい。貴方は島崎藤村という人間の何を理解し何を解っているのですか。貴方は『岐蘇古今沿革志』は「信頼性を保証するものではない」といいますが、保証というのであれば全ての書物に保証はありますか。貴方のいう保証とは何ですか。貴方の思想の根拠と信頼性を証明して見せて下さい。八大龍王(会話) 2019年3月6日(UTC)
Wikipedia:信頼できる情報源をお読みください。--203.180.166.195 2019年3月6日 (水) 02:54 (UTC)
他人の発言を改ざんする行為について 他人の発言を勝手に改竄することはウィキペディアでは荒らし行為に該当します。 IP:203.180.166.195さん。貴方は出典、脚注、参考文献なしで、発言を無断で編集しておられましたが、そのような編集はウィキペディアでは他人の発言の勝手な除去・改ざんと見なされることがあり、ウィキペディアでの荒らし行為と認識され、重大問題とされています。 今後は同様の行為はお控え下さいますようお願いいたします。八大龍王(会話) 2019年3月7日(UTC)」
以上過去ログからの引用。返答の続きは次に記します。--203.180.166.195 2019年3月7日 (木) 09:36 (UTC)
(追記)最後の八大龍王さんのご返答は過去ログ化の後になされたものです。念のため。--203.180.166.195 2019年3月7日 (木) 09:37 (UTC)
『岐蘇古今沿革志』は明治年代に出版された書物でありながら、そこに書かれた歴史についての記述はあなたの執筆を見る限りその後の研究では顧みられていないものばかりです。源義仲や中原氏については、その後も現在に至るまで多くの専門的書物が著されていますが、『岐蘇古今沿革志』に書かれている内容は採用されていません。そのような情報源である以上、Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるにもある通り、『岐蘇古今沿革志』の主張について傍証となるような近年の信頼できる情報源が必要です。なお私は「他人の発言を改ざん」などしておりません。「記事の編集」は「発言」ではありません。上記の「他人の発言を勝手に改竄することはウィキペディアでは荒らし行為に該当します」とは文字通り会話ページやノートページにおける他人の発言を改竄することを指しています。--203.180.166.195 2019年3月7日 (木) 09:52 (UTC)
IP:203.180.166.195さん、上記の内容を見る限り、貴方が信頼性がないと思うから差し戻し編集を勝手にしましたとしか見受けられません。残念ながら貴方の行った勝手な差し戻し編集は改竄、荒らし行為に該当します。もう、返信は結構です。管理者に報告しました。八大龍王(会話) 2019年3月7日(UTC)」
利用者‐会話:Hachidairyuou/過去ログ5でも指摘されてますが、議論の途中なのに過去ログ化を使って議論自体を貼るごとまるごと除去するような真似はおやめください。それこそ「他人の発言を改ざん」ととられかねませんよ。--203.180.166.195 2019年3月8日 (金) 11:51 (UTC)
IP:203.180.166.195さん、 何度もいいますが、貴方と会話にならないので管理者へ報告しました。したがって会話は終了しました。返信はいりません。貴方と毎日会話する時間はないです。非常に迷惑です。貴方は私に注意、警告をされたから私に執着しているわけですよね。貴方は日本語わかりますか?これ以上私のページを勝手に差し戻し行為を続けたり、しつこい返信を続けるならば警察へ貴方のIPアドレスを伝えストーカー行為として被害届を提出します。八大龍王(会話) 2019年3月8日(UTC)
私は『岐蘇古今沿革志』の情報源としての信頼性に疑問があるからあなたと議論しようとしているだけです。それにもかかわらずあなたは過去ログ化によって継続中の議論をすべて除去したり、私の発言を丸ごと除去したりといった行為を繰り返しておられ、その上で『岐蘇古今沿革志』を情報源として用いて記事の編集を強行されています。これは議論の存在自体を隠蔽して自分の望むように編集をしようとしていると受け取られかねない行為だと注意・警告をさせていただきます。管理者に報告とか、ましてや警察に通報とかいったい何を言っておられるのでしょうか? はっきり言いまして私の行為が管理者に問題視されるとは思えませんし、ましてや警察がそんなことを相手にするわけないでしょう。どうか冷静になられて議論に復帰されますようにお願いします。--203.180.166.195 2019年3月8日 (金) 12:47 (UTC)
(追記)この手の議論における返答は、編集者の日々の多忙なども考慮して1週間程度は待つことは普通と思われるので、即日の返答は求められてはおらず、毎日会話する必要はありません。--203.180.166.195 2019年3月8日 (金) 12:51 (UTC)
貴方には何度も何度も同じ事をいいますが、『岐蘇古今沿革志』に疑問があると言う理由だけで、貴方は版を勝手に差し戻し削除を行なっているでしょう。そこに問題があると何度も何度も伝えていますが、貴方は過去ログなどの話をされるでしょう。要するに話が噛み合わないので、管理者へ報告しました。貴方との会話は終了しているので、過去ログに残す行為は私の自由でしょう。貴方には権限はないですよ。Help:過去ログ 利用者の会話ページについては、「過去ログ」をつくることは必須ではありません。ウィキシステムの特性上履歴が保存されていますので、自分の会話ページの白紙化も認められます。(過去の議論を追いやすくするために過去ログ化が推奨されています。)以上、貴方に何を話しても伝わらないので、二度と返信しないで下さい。八大龍王(会話) 2019年3月8日(UTC)
最後に、貴方の質問に今までの文書を確認すれば、私は既に答えています。 しかし、貴方は私の質問に全く答えていません。 貴方が『岐蘇古今沿革志』に納得行かないのはわかりました。今一度、貴方が差し戻し、編集、削除をされるなら納得いかない理由として脚注、参考文献などの証拠を記載してから行なって下さい。八大龍王(会話) 2019年3月8日(UTC)
過去ログ化というのは分量が肥大化した場合に行うもので、なおかつ現在進行形で継続中の会話がある場合に行うのは好ましくありません。また、あなたは私の質問に返答してはおりません。「『岐蘇古今沿革志』は明治年代に出版された書物でありながら、そこに書かれた歴史についての記述はあなたの執筆を見る限りその後の研究では顧みられていないものばかりです。源義仲や中原氏については、その後も現在に至るまで多くの専門的書物が著されていますが、『岐蘇古今沿革志』に書かれている内容は採用されていません。そのような情報源である以上、Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるにもある通り、『岐蘇古今沿革志』の主張について傍証となるような近年の信頼できる情報源が必要です。」という私の返答にあなたは全く答えておられません。『岐蘇古今沿革志』という書物がこの世に存在しているからなんだというのでしょう? それなら竹内文献や東日流外三郡誌のような偽書だってこの世に存在しますし、義経ジンギスカン説のような奇説だってこの世に存在します。だからといってそれらに信頼性があるわけではないことは言うまでもないでしょう。また小説家の島崎藤村が歴史学について専門外でないというのなら、あなたの方がそれを証明しなければなりません。あなたの会話ページでこのまま続けるのも何なので、ノート:中原兼遠に立項しましたからそちらで議論いたしましょう。--203.180.166.195 2019年3月8日 (金) 14:09 (UTC)
島崎藤村について、過去ログを見ればわかりますが、島崎藤村が歴史学については全くの専門外と言い出したのは貴方ですよ。だから散々批判している貴方が専門外だという証明をするべきです。
また、武居用拙の岐蘇古今沿革志は顧みられていないとか書かれている内容は採用されていないとか貴方は批判しますが、だからといって、勝手に差し戻し編集はしてはいけないでしょう。貴方が差し戻し編集するのであれば、出典や参考文献を記載すれば済むことじゃないですか?近年の信頼できる情報源が必要という貴方の質問もおかしいですよ。近年の信頼できる情報源が必要と思うなら貴方の思う情報源、参考文献、資料を勝手に記載して編集すればいいじゃないですか?私にいちいち質問や了承を得る必要はないですよ?その信頼できる情報源を貴方が知っているのであれば、それこそ貴方が勝手にその情報源を版に出典や参考文献として記載すればすむことじゃないですか?わざわざこのページで批判や議論する必要はないでしょう。わざわざ議論して私の了承を得る必要はないですよ。貴方は自由に編集すれば良い。しかし、編集するのであれば根拠となる参考文献や脚注を記載して下さいと注意をしているだけです。たったのこれだけのことですよ。わかりますか?他の方は皆さんルールを理解していますしこんな初歩的なことで私と議論する意味はないですよ。貴方がしていることは異常ですよ。ただの個人攻撃に過ぎませんよ。また、貴方の編集ですが(?)「はてな」が多いですが編集するのに参考文献や明確な資料がわからないで編集していませんか?なぜ、?「はてな」と記載するのですか?わからないのであれば編集はやめて下さい。他の方に迷惑です。
武居用拙(江戸時代の儒学者・漢学者)
・舐犢吟抄 刊行年 昭37 著者 武居用拙 ・岐蘇古今沿革志 明治23 著者 武居用拙
武居用拙は尾張藩木曽代官山村氏の家臣教育機関 菁莪館の儒臣、武居敬斎の長男として生まれ、天保7年(1836年)に江戸に出て昌平坂学問所の古賀侗庵(古賀謹一郎の父)や、松崎慊堂の塾に学び、天保13年(1842年)帰郷。菁莪館の助教となり、慶應3年(1867年)には学頭を務めた。その後、藤森桂谷が1871年に私費で将来の人材育成のために南安曇郡豊科村成相新田(旧成相新田宿)の法蔵寺境内に開いた私塾猶興義塾の塾長として家族ごと招かれた。武居はここで、漢学や開明的な学問を教え、自主・自由・民本の思想を伝えた。武居はまた、『孟子』を読みかえて民権論をつくり出した。こうして1880年に松本で奨匡社が発足する際には、猶興義塾がその基礎をつくったと言える。奨匡社の創立委員20名の中には武居も入っている。
明治19年(1886年)には東京在住の島崎藤村に「詩経」「春秋左氏伝」を教授し、そのため藤村の『夜明け前』、『桜の実の熟する時』、『幼き日』、『力餅』、『をさなものがたり』等に描かれることとなった。明治23年(1890年)には西筑摩郡長の要請で『岐蘇古今沿革志』を編纂。
「奨匡社」の名前は、儒者でもあった武居が、『孝経』にある「其ノ美ヲ奨順シ、其ノ悪ヲ匡救ス」に由来して名づけたと、武居が『奨匡社記』に書いている。40歳の時、杜甫の「用拙存吾道」から号を「用拙」とする。 武居の塾生であった松沢求策は藤森と武居の指導で貞享騒動を芝居『民権鑑加助の面影』に書いた。
出典 有賀義人・千原勝美『奨匡社資料集』奨匡社研究会、1963年11月 塚田正朋『長野県の歴史』山川出版社、1974年5月、青木孝寿執筆部分、231~233ページ・253~254ページ 高木俊輔編『街道の日本史26 伊那・木曾谷と塩の道』吉川弘文館、2003年6月、小松芳郎執筆部分、204~211ページ 中島博昭『鋤鍬の民権-松沢求策の生涯』銀河書房、1974年1月 上條宏之・青木孝寿『長野県の百年』山川出版社、1983年4月
日本の儒教」参照 儒教が日本に伝来した古代から中世には、紀伝・明経・明法・算道の四道を講じる者を四道儒者と呼称し、清原氏、中原氏などの博士が儒者のこの頃の儒者の代表例である。ただしこの頃は経典は漢籍の一環として博士・仏僧・神職などの各職域・身分において学ばれており、「儒者」という職業や身分は存在しなかった。儒者の職・社会的身分が成立するのは近世以降のことである。
戦国時代の末から江戸時代初期に、政治・学術的知識が儒学に求められ、中国・朝鮮の漢字文献の輸入・流通が拡大した。それによって儒学の転籍を読解・講釈する専門家が出現し、これが儒者と呼ばれるようになった。江戸幕府が林羅山を登用して以来、幕府に御儒者(おじゅしゃ、おずさ)という役職が設けられた。これは将軍に経典を講じ、文学や学問を司る職であった。
これらの儒者の出身身分は江戸時代初期には浪人、中期以降には商人・医家が多く、武士以下の階層から出て精神的に武士を指導する地位に立つことができた。また中江藤樹や伊藤仁斎のような在野で儒を説く町儒者が出現し、彼らはしばしば窮乏したものの、出仕せずに大名に儒学を講じ社会的地位を得る者もあった。享保以降は儒学の研究が経学・史学・考証学などに分化し、儒者と称するものの一様ではなくなった。中国・朝鮮のように為政者が率先して儒学の担い手になることがなく、儒者の生活基盤は弱いものであり、中には漢学者として儒教以外のテキストを用いて蘭学・兵学などの諸学に転換する者もあった。
ノート:中原兼遠に立項しましたので議論はそちらで行うべきと思いますから、基本的にはこれを最後にあなたの会話ページに書き込みいたしません。まず第1点。島崎藤村は小説家です。歴史学者でもなければ在野の歴史研究家でもありません。それは「島崎藤村」を見てもわかりますよね? あなたが島崎藤村が歴史学の専門家であるというのなら、なぜあなたはそれを証明しないのでしょうか?第2点。各記事の過去ログを見ればわかる通り、先に差し戻しをしたのはあなたの方です。第3点。「?」の記述というのは各記事のボックス中の親族関係のことでしょうか? それは一次史料や二次史料(『吾妻鏡』など)と矛盾する親族関係が、軍記物語類にのみ記されたものに対して信頼性が劣るという意味の表現で「?」をつけているだけです。--203.180.166.195 2019年3月10日 (日) 14:45 (UTC)
コメント 会話ページの方にメッセージを頂戴しましたので様子を伺いに参りました。『岐蘇古今沿革志』ですが、当方が知る限り『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク 木曾義昌参照)や『角川日本地名大辞典 20 長野県』(巻末「長野県参考図書目録」1722ページ「岐蘇古今沿革志 武居正次郎編 発光堂 大正3」(引用)とある、国立国会図書館デジタルコレクションも参照)が参考文献として扱っています。このことから一定の信用はされており、全く当てにならないとまでは言えないと考えております。ただし、やはり古い文献でありますので、現代の定説と齟齬が生じるのはやむを得ないでしょうから、個別の記事のノートで編集者同士、意見の擦り合わせを行うのが宜しいのではないでしょうか。当方としましては挙げられております歴史上の人物に関して知識が豊富にあるわけではありませんので、これ以上のお力添えは致しかねます。申し訳ございません。--Qurren(会話) 2019年3月9日 (土) 00:24 (UTC)
以下、IP 203.180.166.195 の質問より
第1点。島崎藤村は小説家です。歴史学者でもなければ在野の歴史研究家でもありません。それは「島崎藤村」を見てもわかりますよね? あなたが島崎藤村が歴史学の専門家であるというのなら、なぜあなたはそれを証明しないのでしょうか?
回答:武居用拙(儒学者・漢学者)武居用拙は漢学や開明的な学問を教え、自主・自由・民本の思想を伝えた人物。また、『孟子』を読みかえて民権論をつくり出した人物。明治19年(1886年)東京在住の島崎藤村に「詩経」「春秋左氏伝」を教授し、そのため島崎藤村の『夜明け前』、『桜 の実の熟する時』、『幼き日』、『力餅』、『をさなものがたり』等に描かれることとなった。 明治23年(1890年)には西筑摩郡長の要請で『岐蘇古今沿革志』を編纂。「詩経」とは(文学、舞踊、楽曲を伴う歌謡)「春秋左氏伝」とは(歴史書) IP 203.180.166.195 あなたが歴史の専門でも何でもないという証明をして下さい。
第2点。各記事の過去ログを見ればわかる通り、先に差し戻しをしたのはあなたの方です。
回答:確認すればわかりますが樋口兼光を初めに差し戻ししたのは IP 203.180.166.195 あなたです。
第3点。「?」の記述というのは各記事のボックス中の親族関係のことでしょうか? それは一次史料や二次史料(『吾妻鏡』など)と矛盾する親族関係が、軍記物語類にのみ記されたものに対して信頼性が劣るという意味の表現で「?」をつけているだけです
回答:信頼性が劣ると思うだけで勝手に編集してもいいのでしょうか?編集するなら傍証となるような近年の信頼できる情報源を記載して下さい。--八大龍王(会話) 2019年3月12日 (火) 10:15 (UTC)
IP 203.180.166.195 あなたに質問ですが、なぜ編集するのに傍証となるような近年の信頼できる情報源を記載しないのでしょうか?回答願います。--八大龍王(会話) 2019年3月12日 (火) 10:47 (UTC)