利用者‐会話:Fushikiz
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Fushikizさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。--Garakmiu3(会話) 2024年3月11日 (月) 05:56 (UTC)
出典提示のお願い
[編集]Fushikizさん、こんにちは。あなたが投稿された内容はどのような資料を根拠にされたものでしょうか? ウィキペディアの内容は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」が重視されており、「Wikipedia:検証可能性」が基本方針の一つとして定められていますので、出所不明な情報を投稿することはできません。また、「Wikipedia:独自研究は載せない」に明記されているとおり、個人的な見解に基づいた記述はウィキペディアでは歓迎されません。
投稿される際には「Wikipedia:出典を明記する」を参照し、信頼可能な解釈・評価・分析などの根拠となる出典を示してください。あわせて「Wikipedia:信頼できる情報源」もよくお読みいただき、適切な編集投稿をしていただきますようお願いいたします。--Garakmiu3(会話) 2024年3月11日 (月) 05:56 (UTC)
以下はまったく根拠もない説であり、歴史的な証拠はまったくなく、NHKですら採用しなかった説である。この部分は削除すべきである。
wikiは一部の特定人間のサロンとなっており、根拠のない記載、だれも信じていない説が延々と採用されている。倫子が道長が987年に婚したときに紫式部は生年が788年なら9歳、いろいろある生年説の中央をとっても13歳であり、女房として参内することは不可能にもかかわらず、延々と徳満澄雄氏のみが唱える珍説が紹介されている。また親の為時は花山天皇が出家したとき失職し兼家や道隆と不仲であったので、その娘が道長の女房として参内することも考えにくい。しかも紫式部はこのあと996年に父にならって越後に下向し998年には藤原宣孝と結婚し一子を設けている。
女房の名前にしても。和泉式部は越前国司の娘だったが領地の名前でなく式部と呼ばれていたし、清少納言も周防国司の娘であったが任地の名前でなく少納言とよばれていた。このように、親や夫の任地の名前がついていないからそれより前に参内したとする根拠には全くなく、大部分の学者もこの説を信じていない。このように、根拠のない、あのNHKですら採用しなかった珍説を長々とwikiに書くのは不適切と考える。だからこそ、過去だれもこんな珍説を顧みる人はいなかったのである。この説を掲載しつづけるなら、徳満澄雄の説を補強するほかの証拠を要求するべきである。
この徳満澄雄氏のみが信じている珍説を長々と記載するのはwikiとしては不適切である。wikiに書く以上、複数の研究家の根拠があり、それが一般的にかなり認められている説が書かれるべきであり、私のことをどうこう言うまえに、このような珍説が残り続けるシステム自体がwikipediaの信頼性が疑われることとなる。またなんども、私は根拠を追加したにもかかわらず何度も削除されており、それこそwikipediaに対する背信行為である。
以下削除部位。
「なお、これに先立ち、近代以降の伝記では顧みられることになかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。しかし、他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である<ref>徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」(『語文研究』第62号、1986年)pp. 1-12</ref」」
- そういう事はノート:紫式部に書いて下さい。ここに書いても無意味です。--Gruppetto(会話) 2024年4月20日 (土) 12:32 (UTC)
- 横からですが、Fushikizさんの編集姿勢が分かりました。
- 私も含めて複数の方からも、貴方の編集姿勢について注意するコメントを前からしていますが、一向に変える気配はありませんでした。
- そして今回の削除と、それを差し戻した方へのこのこの暴言
- 徳満氏の説を「珍説」と断じるのは個人個人の考えでしょうが、そう断じる理由も説明せずに、いきなり独自の考えで削除する行動に出るのはWikipediaのルールを全く理解していないし、恐らく理解する気もないと思います
- 投稿ブロックを申請することも視野に入れた方がいいかもしれませんね Thsbhseven(会話) 2024年4月20日 (土) 13:52 (UTC)
出典提示のお願い(再)
[編集]Fushikizさん、こんにちは。私からもGarakmiu3さんと同じことを、改めて書かせてもらいます。
「Wikipedia:独自研究は載せない」に明記されているとおり、個人的な見解に基づいた記述はウィキペディアでは歓迎されません。編集する際は出典等をきっちり明記することを守ってください。また個人見解を記載するのもお控えください。 貴方の編集履歴を見る限り、Garakmiu3さんのご指摘後も、「光る君へ」「紫式部」「源氏物語」などの項目で、出典のない記事を書き続け、他の方が修正するという事例が起こっている事は把握しています。
このまま同じことを続けるのなら、荒らし行為とみなされて編集ブロック等の制裁を科される事もありますので、今後ご注意ください--Thsbhseven(会話) 2024年3月29日 (金) 01:28 (UTC)
プレビュー機能のお知らせ
[編集]こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。
Fushikizさんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを表示」のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。詳しくはHelp:プレビューを表示をお読みください。
これを使うことで
などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存じのことでしたら、悪しからずお願いいたします。--Gruppetto(会話) 2024年3月22日 (金) 06:22 (UTC)
無出典記述の中止のお願い
[編集]こんにちは、Fushikizさん。Fushikizさんは記事を加筆する際に、無出典で記述を繰り返されておられるようですが、そのような行いはウィキペディアでは推奨されておりません。
詳しくはウィキペディア日本語版の公式方針に含まれる
をお読みになり、理由をご理解下さい。
また、理由をご理解いただけましたら、今後の加筆の際には加筆内容の信頼性を上げるために、加筆と同時に出典を明記することを心がけていただけますと助かります(Wikipedia:出典を明記する)。
加筆時に出典を追加することは、Fushikizさんが記事の信頼性を向上させるということになり、ウィキペディアへの貢献に直接的に繋がります。
お願いとなりますが、以上のこと、よろしくお願いします。--2400:4051:82A0:2500:F9EA:49A9:54ED:144B 2024年4月12日 (金) 01:23 (UTC)
かつて倫子出仕説を記載した者です。Fushikizさんは紫式部の生年を根拠に否定されますが紫式部の生年そのものにはっきりとした根拠はなく、結婚や出産の頃に無理のない年齢か、源氏物語執筆の頃にそれなりの年齢になっているはずである、紫式部日記執筆の頃に将来の老眼を予感するくだりがある、その程度から判断されています。最も有力な説というのは存在しません。978年生まれでは都合が悪くても970年なら問題なくなってしまいます。また幼くても女童として出仕してもおかしくないでしょう。山本淳子氏や上原作和氏など倫子出仕説を否定されている方も生年は問題にしていません。出仕させる経済力がなかったはずともおっしゃいますが禄を受けるための出仕であればむしろ経済力はあったらおかしいのでは。
為時が兼家や道隆と不仲だったというのはそれこそ何か資料などの根拠がおありでしょうか?
和泉式部が式部と呼ばれたのは拾遺和歌集が初出で、父親が越前守になったのはそれより後の1010年ですし、清少納言の女房名は由来が判然としないうえに少納言も周防守も位階は従五位下で変わりません。元の論文では式部丞は六位、右衛門権佐や越前、山城は従五位下という国名や官職名に付随した位階のほうを重視しているのですが、そもそも論文のほうは目を通しておいででしょうか?
あなたは根拠があって否定しているとおっしゃっていますが、決定的な矛盾や不都合な点などは存在せず、根拠と言っているのはどれも根拠になっていないのはおわかりいただけましたか?
特定人物のサロンになっているなどというのもとんでもない思い違いで、私など関連項目に数年間投稿していませんでしたが普通に受け入れられています。ただルールを守っているかいないかだけです。そもそもの倫子出仕説も論文を盾に「源倫子に出仕したといわれている」などと書けば差し戻されてしまうでしょう。「という説がある」という紹介で、しかも直接その論文に当たることができるように書いているのです。閲覧者もその真偽は自分で論文に当たって判断されるでしょう。
「自分はこう思うからこうだ」というのを開陳したいのであれば、ご自分でホームページなりブログでおやりになってはいかがでしょうか。--Yan-er(会話) 2024年4月23日 (火) 08:42 (UTC)
- 年齢ですが、仮に970年生まれとすると出仕は987とすれば満年齢で16か17になります。すでに天才として有名であり若年で出仕したことで有名だった伊勢大輔の989年出生で出仕が1008年の満18か19で、出仕そうそうに奈良から献上された八重桜を受け取る役目で有名な句を詠み有名であったのにくらべると、無名であった紫式部が16か17に出仕するのは無理であり、それを証明する伊勢のような八重桜にかかわるような事件はつたわっていないので、根拠とはならない。
- 父親の官位と宮中での呼び名と出仕時期と父親の官位の関係は個々の例でさまざまであり定説とはなっていない。だから清少納言でさえ、少納言との根拠なないのである。だから紫式部の名前が式部だから、出仕した時期が為時の国司就任前という根拠にはまったくなっていない。宮中において、官位のなかで、知識職である式部、少納言という地位は官位にかかわらず知識人しか就任できない尊厳をもった地位である。官位は猫や犬でもついているし、あの国宝級の槍の日本号にも官位はある。当時は官位が低くとも知識人は歌をよくするものは宮中のさまざまな場面で官位にかかわらず催しものに呼ばれていた。和泉式部や紫式部、清少納言などの名前は和歌や漢籍をよくする知識人の尊称をふくめた呼び名であり、国司の地位等と親の任官の時期とかとの関係は薄い。その薄さは定子が清少納言と呼ぶといってその後清少納言と呼ばれたという記載をよく吟味されたい。
- 「為時が兼家や道隆と不仲だった」父為時は花山天皇の式部丞・六位蔵人として教育係についていた。兼家一門のはかりごとにより花山天皇は出家させられ同時に為時はお役御免となり、兼家一門から冷遇されのちに道長がとりなすまで除目からははずれていた。その時期で父親が兼家一門から冷遇されていた紫式部が道長と源倫子の婚姻に従って出仕した可能性は低い。中宮に出仕するには反兼家勢力である花山天皇に連なる家の娘をとりたてるはずものなく、また出仕にはお手付きなどの可能性も含めて、兼家家に反感をもっている兼家の娘を出仕させる理由が乏しい。また歴史上源倫子と紫式部の間で歌などを教育した等の記録はなく、定子-清少納言、彰子ー紫式部のような関係をしめした記録はない。
- あなたの説は以上のように根拠に乏しい。あえてwikiに乗せるほどの根拠もなく、あなた以外が唱えている説でもない。そのような独りよがりの説をwikiのせるのは、一般的なwikiの目的に反する。
- 以上が反論である。というは、紫式部が源倫子の婚姻の時に出仕したなどのということは、あの荒唐無稽なNHKの大河ドラマにすらでてきませんよ。それ以上に荒唐無稽ということですよ。--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 05:30 (UTC)
- 訂正
- 兼家家に反感をもっている兼家の娘を出仕させる理由が乏しい
- ⇔
- 兼家家に反感をもっている為時の娘を出仕させる理由が乏しい--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 05:44 (UTC)
- そもそもの倫子出仕説も論文を盾に「源倫子に出仕したといわれている」などと書けば差し戻されてしまうでしょう。「という説がある」という紹介で、しかも直接その論文に当たることができるように書いているのです。
- なら、貴重なwikiのスペースで12行もさいて、という説もある程度の根拠が薄弱で、その説に反対する学者がいることを書き込まなければいけない理由もない。ようするにあなたこそ思い込みでwikiを私物化している。wikiはリア充の人があまり読みに来ないことをよいことにして、あなたのように根拠の乏しい説を12行も書き込む輩がいるからリア充の学者から重要視されないのである。そそも出征が978年なら9歳、970年としても16歳の女子が女房として出仕すると書くこと常識がない。貴人の女性の女房ならば生活だけでなく恋愛、妊娠、出産などの多くの出来事をヘルプできる能力が問われるわけで、9歳から16歳で出仕するという根拠がない。伊勢大輔の例は特殊であり、だからこそ出仕早々に有名な八重桜の句が歴史にのこっているが、紫式部の出仕でそのような事件はおきていないのである。--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 05:52 (UTC)
- 「「という説がある」という紹介で、しかも直接その論文に当たることができるように書いているのです。」
- 学会で定説となっていないことをwikiに書くなら、
- 「源倫子の道長との婚姻の際に出仕したとする説もあるが(文献)根拠がととぼしいとして反対する意見が一般的である(文献)
- の1行程度しか値打ちがないことを12行もながながと書くなら、それこそあなたに
- 「「自分はこう思うからこうだ」というのを開陳したいのであれば、ご自分でホームページなりブログでおやりになってはいかがでしょうか。--Yan-er」と言いたい。--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 06:01 (UTC)
- もう一つ、官位について説明します。
- 父 為時の官位ですが、花山天皇の式部丞・六位蔵人でした。つまり6位ですが、信用ならないwikiにさえ、
- 「式部丞などの顕官を務めて五位に叙された者には受領に任じられる資格があった。五位となった式部丞のことを式部大夫と称した。また、六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために殿上の丞(てんじょうのじょう)と言われた。」
- つまり6位であっても昇殿を許されるために5位相当であった。通常受領は5位である。式部丞というのは今でいう文部省+宮内庁で漢文や有職故実のに詳しく文書にかかわる仕事や天皇の教育がかかりなど知識人しかつけない職であり、並みの受領よりよっぽど名誉のある職であったということです。だから国司になった時期とか関係なく、和泉式部、紫式部も、たとえば「博士」職と同じように知識人を意味する通称として用いられた。理解できましたか?このことが理解できれば、国司の前だから後だからとかしょうもない論であることは明白です。--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 06:19 (UTC)
- 「出仕させる経済力がなかったはずともおっしゃいますが禄を受けるための出仕であればむしろ経済力はあったらおかしいのでは。」
- これもまた無知をさらしてしまいましたね。
- 女官、紫式部や清少納言は命婦といってほぼ5位に相当します。円融天皇に仕えた高階貴子(中宮定子の母)は掌侍でこれもほぼ5位でした。有力な貴族は女子を出仕させることをきそい、命婦とかは5位ですから下級から中級貴族で国司とほぼ同じくらいになりますから、小さいときから和歌漢籍などを厳しく教育して出仕させた。高階貴子に厳しく教育されていた定子は漢籍にも明るく、帝にも気に入られてまた清少納言の香露峰の雪の段がでてくる。したがって出仕には財力があり教育にも金と暇をかけてまた持参する衣装なども立派なものを用意するので、お給金よりむしろ高い金がかかっている。残念ながら散位だった為時ににはそのような準備ができるはずもないじゃないですか。そのあたりの知識がないのによく12行も無駄な記載をしたものです。ちなみに高階貴子の先祖は在原業平と伊勢斎宮の間の子の高階 師尚が先祖です。伊勢大輔も若くして出仕していますが、親は大中臣輔親
- です。貧乏で散位の10-15歳の娘が出仕するはずがないのです。あなたは古典の常識がたりません。--Fushikiz(会話) 2024年6月16日 (日) 07:31 (UTC)