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利用者‐会話:Dalaibaatur/ダライラマ

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記事ダライ・ラマの根拠をめぐるVapour 氏とのやりとり

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Powers, John. "Gelukpa Tibetan Buddhism" entry in Melton, J. Gordon, and Martin Baumann. 2002. Religions of the World: A Comprehensive Encyclopedia of Beliefs and Practices. Santa Barbara, Calif: ABC-CLIO. p. 533.

"The Abbot of Ganden (Ganden Tripa or Ganden Tri Rinpoche) is technically the spiritual head of the Gelugpa tradition"[1]

"The tradition has been continued in India. It is the Ganden Tripa, not the Dalai Lama, who heads the Gelukpa order." [2]

こちらが何度も指摘したように(名目上は)ゲルグ派の最高位はダライラマでなく総本山のガンデン寺のガンデン・ティパという記述。特に現代のダライラマが他宗の任命権あるいは認可権をなくしたというのは事実だと思います。例えばカギュ派(宗)の継承問題ですがこれはあくまでももめている二派の内の一派がダライラマに介入を依頼したという内情で、さらにダライラマがその一派に梃入れしているにも関わらず問題が解決しないのはダライラマの宗教的権威を示す上では象徴的なことだと思います。あくまでも世俗的権威(他国の強国の肩入れ)あってこその宗教的権威だったわけですから、現在のダライラマをチベット仏教の法王とするのは問題。どの時代にその表現が当てはまるのか示すのが筋でしょう。文献が対立する場合はどちらの見解も公正さを持って記述するというのがWikipediaの方針です。それと「お前の編集が気に入らない」との内容で個人に伝言するのはどうなものでしょうか。もう少し冷静に。Vapour 2009年10月4日 (日) 17:48 (UTC)[返信]

ゲルグ派の最高位はダライラマでなく総本山のガンデン寺のガンデン・ティパという記述

については、「当時の記録(1642年より20世紀初頭までのチベット人自身によるチベット語)をお待ちしております。よろしく。

現代のダライラマが他宗の任命権あるいは認可権をなくしたというのは事実だと思います。

あなたが「事実だと思う」だけでは根拠にはなりません。 ダライラマが「任命権を無くしてゆく」プロセスなどを解明した研究があるならご紹介いただけるとありがたいですね。

カギュ派(宗)の継承問題ですがこれはあくまでももめている二派の内の一派がダライラマに介入を依頼した

これはVapurさんに事実誤認があります。中国人民政府とダライラマ14世が17世ギャルワ・カルマパとしてティンレードルジェを認定した段階では、この派の分裂は生じていません。したがって「二派の内の一派がダライラマに介入を依頼」というのがまず事実誤認です。シャマルパがターイェドルジェをギャルワ・カルマパにたてたのはその後となります。シャマルパは自分の立てたターイェドルジェにダライラマによるお墨付きが欠けているいことを「歴史的にはギャルワ・カルマパの選定にはダライラマの関与はなかった」と述べて正当化しています。形のうえではダライラマの認定をうけたティンレードルジェとダライラマの認定をうけていないターイェドルジェが争っているという形になっていますが、これは基本的にはカルマ派内部の権力争いであって、「ダライラマがその一派に梃入れしている」というのではありません。

あくまでも世俗的権威(他国の強国の肩入れ)あってこその宗教的権威だった

ダライラマの宗教上の権威が伸長したことはムリ寺座主事例で実例をしめし、「安多政教史」の検討をお願いしてありますが。

それと「お前の編集が気に入らない」との内容で個人に伝言するのはどうなものでしょうか。もう少し冷静に。
そのような内容の伝言はおこなっておりません。Vapourさんがある種の記述を繰り返し削除したり書き加えたりすることについて、チベット人によるチベットの著作より根拠を提示するようお願いしただけです。--Dalaibaatur 2009年10月4日 (日) 20:41 (UTC)[返信]

追記

"Even the 13th Dalai Lama at the height of his power could not really be described,however, as the overall spiritual and temporal leader of the Tibetan people. He was the temporal leader of some half of the Tibetan people (after the military defeat of Powo and the flight of the Panchen Lama to Mongolia) and the spiritual leader (if not the formal head) of the Gelugpa tradition(though individual monasteries within the the Gelugpa order retained considerable autonomy). He was very widely respected among the entire Tibetan population, but this does not mean that what he said had binding authority for Tibetans outside the Lhasa state (so-called "Outer Tibet" as defined by the Simla Convention, and roughly equivalent of today's Tibet Autonomous Region). Within that state, his authority over ordinary tibetans was that of a secular ruler.
As such, his government could and did take a role in approving the installation of rincarnate lamas, particularly the more politically important ones, within the Lhasa state (there were perhaps around a thousand reincarnate lama by the mid-twentieth century, and many wre of mainly local significance). This matter is duscussed further below. It should be remembered, however, that more than half the population of Tibet lived outside the Lhasa state, in other states or stateless regions. While the Karma Kagyu head monastery of Tsurphu was within the Lhasa state, the majority of the followers of the Karma Kagyu tradition, and many of its important monasteries, were outside the Lhasa state (see Samuel 1993: 39-154)."Vapour

追記2

上記の論文を読んでいたんですが、内容はダライラマが「チベット民族の国家的、精神的指導者」となるのは現在のダライラマがインドに亡命政府を打ち立ててから後だそうです。それ以前はその力がもっとも強かったといわれる13代においても他のラマの任命に明確に介入したとの記述も乏しいと書いてあります。特別な項目を設けて詳しいことを書くので、序文で現在のダライ・ラマ十四世は「チベット民族の国家的、精神的指導者」であるは構いません。ただし、過去のダライ・ラマも含めて法王であるというのは問題だと思いますので「歴代のダライラマのの権威は政治的および宗教的理由で変遷した」が妥当でしょう。Vapour 2009年10月4日 (日) 19:19 (UTC)[返信]

私の投稿した文面でも、1642年以前の歴代のダライラマは単に「ゲルク派の有力名跡」と述べてあります。1642年以降については、五世以降のダライラマが「宗派を超えた全チベットの最高位の宗教的権威」であり、かつ「ゲルク派の長」となっていたことを、当時の当事者であるスムパケンポという人物の記述によって示してあります。--Dalaibaatur 2009年10月5日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

同日以内に三回連続して削除あるいは書き戻しをしてはならないというルールがちゃんとあります。こちらがまったくの無知であるとの先入観があったのではないですか。「1世紀にわたる日本人のチベット認識・ダライラマ認識をくつがえす大変斬新なご主張です。」は文体は丁寧ですがこちらの無知と自分の見識を知らしめようという気概が感じられます。先ほどの記述でちゃんとこちらも専門家による百科事典からの引用も含めた学者の著作をソースにした編集が出来ることが理解してもらったと思います。ついでにWikipediaでは独自研究は禁止されていますので、あくまでも専門家の原文の解釈が引用の基本になります。もちろんそちらが「ダライラマはチベット仏教の法王である」との日本人の学者の見解を記事で引用されるのは問題ありませんが、これが世界的観点から見て主流であるかはこれからの編集で明らかになっていくと思います。Vapour 2009年10月4日 (日) 21:49 (UTC)[返信]

「百科事典からの引用も含めた学者の著作」とか「日本人の学者の見解」とかの対決ではらちがあきませんので、ソースとしては、当事者による当時の記録(1642年以降20世紀初頭までのチベット人自身によるチベット語の記録)をご提示いただくようお願いしてあるはずですが。私のほうは、手始めとして、1748年のゲルク派の学者スムパケンポの記述を詳細にご紹介してあります。--Dalaibaatur 2009年10月5日 (月) 00:14 (UTC)[返信]

Wikipediaは独自の研究を行う場所ではありません。これはWikipediaの三原則の一つです。あなたが独自に収集した一次資料を元にした解釈を記事にするのは問題だと思います。Vapour 2009年10月5日 (月) 01:09 (UTC)[返信]

中華人民共和国の蒲文成さんや才譲さんが1642年以降のダライラマを「教法之主」、「全藏区的大教主」、「全藏区的救主聖士」、「格魯派教主」等と呼ぶと、どうして私が「独自の研究を行」ったり、「あなたが独自に収集した一次資料を元にした解釈を記事にする」ことになってしまうのでしょうか?--Dalaibaatur 2009年10月5日 (月) 02:11 (UTC)[返信]

「手始めとして、1748年のゲルク派の学者スムパケンポの記述」を挙げられたからです。残念ながらこれは一次資料に当たるため、Wikipediaにおいてはこの資料に関する現代の学者の解釈の引用にとどまざるえません。別に中華人民共和国の蒲文成さんや才譲さんがダライラマを「教法之主」、「全藏区的大教主」、「全藏区的救主聖士」、「格魯派教主」等、あるいは日本のダライラマの団体が彼のことを法王と呼ぶことを記述するのは問題ありませんが、一方で前述した欧米の学者は別の意見を出しているわけですから、われわれとして出来ることはこれらの意見の紹介です。真実を探求する義務は学会にあってWikipediaにはありません。Vapour
Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:検証可能性を確認。「1748年にゲルク派の学者スムパケンポが執筆した仏教史「パクサムジョンサン」は、18世紀に木版刷で刊行されたのち、現代の学者たちの校訂により、戦前にイタリア、1970年代にインド(日本ではイタリア版の復刻)、1992年に中国で校訂本が刊行されました。たとえば中国版の場合、貢却才旦氏が[ ]( )〈 〉〔 〕[ ]などの括弧を使い分けて、原本で割注だった記述を本文に組み込んだ箇所、氏が訂正した綴りと原本どおりのつづりなどを表示し分けてテキストの文面を作成しています。これらの刊行本は、いずれも検証に使用可能な現代の書物と見なすべきです。「残念ながらこれは一次資料に当たる」のは、原本である木版本か、スムパケンポの手書き原稿でしょう。図書館で誰もが閲覧・複写が可能な現代の書物、または誰もが書店で購入可能な現代の書物の記述を典拠として示すことは、Wikipediaのいう「独自研究」にはあたりません。--Dalaibaatur 2009年10月14日 (水) 15:31 (UTC)[返信]