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利用者‐会話:BunkajinX

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--BunkajinX会話2023年5月15日 (月) 13:51 (UTC)== プレビュー機能のお知らせ ==[返信]

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。

BunkajinXさんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを表示」のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。詳しくはHelp:プレビューを表示をお読みください。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存じのことでしたら、悪しからずお願いいたします。--Unamu会話2019年1月27日 (日) 13:30 (UTC)[返信]

特筆性のない一般人の氏名を載せないでください

[編集]

あなたは鉛筆部隊に、部隊に関わった当時の学童やその関係者が新たな資料を届け出たという内容を加筆する際、それらの関係者の実名を記載されました。これらの方々は、あなたが編集された時点で存命の可能性のある人物です。Wikipedia:削除の方針#ケース B-2:プライバシー問題に関してには、「積極的に実名を用いて活動している政治家・スポーツ選手・研究者・作家・芸術家・アーティスト・芸能人などの著名人を除き、本名(個人の実名)を含んでいたり、個人が特定できる記述が行われたページは、削除の対象になります。」とあります。きむらけん氏の著書に名前が載っていたとしても、それはきむら氏に対して公表を認めただけであり、不特定多数が編集閲覧するウィキペディアに無条件で載せてよいわけではありません。このため、それらの氏名が掲載された版につきましてはWikipedia:削除依頼/鉛筆部隊を提出させていただきました。今後はそのような編集をなさらないようお願いいたします。また、文体において「…だ。」といった語尾を使用されていますが、百科事典であるウィキペディアはWikipedia:中立的な観点が求められており、強い断定調の語尾はそれにそぐわないと申し添えます。--Unamu会話2019年1月27日 (日) 13:30 (UTC)[返信]

--BunkajinX会話2023年5月15日 (月) 08:11 (UTC)== 下北沢文士町文化地図 ==[返信]

下北沢文士町文化地図(しもきたざわぶんしまちぶんかちず)とは、東京下北沢一帯を中心地域には多くの文学者や文化人が参集するように住んでいる。その彼らの居住痕や寺社仏閣や学校や劇場などあらゆる事象を地図に落としたものである。編集主体は、当地一帯の文化事象を掘り起こしている、「北沢川文化遺産保存の会」である。初版は2007年6月に発行され現在は第8版を配布している。その総発行枚数は7万5千部に達している。行政でも認知するところとなって、8版地図は「下北沢文士町文化地図」として世田谷区のホームページで公開されている。
--BunkajinX会話2023年5月12日 (金) 12:39 (UTC)[返信]

代表的な居住者

ο小説家:横光利一 大岡昇平 安岡章太郎 長與善郎 森敦 坂口安吾 木村荘十 山岡荘八 石川淳 宇野千代 網野菊 大谷藤子 森茉莉 田村泰次郎 小田実 井上友一郎 田中英光 萩原葉子 宮脇俊三 中山義秀 一色次郎 大庭さち子 森瑤子 日野啓三など ο詩歌人:萩原朔太郎 尾山篤二郎 三好達治 福田正夫 北川冬彦 斎藤茂吉 中村草田男 加藤楸邨 中村汀女 渡辺順三 清水乙女 宇田零雨 永瀬清子 宮柊二など ο音楽脚本映画:古関裕而 菊田一夫 服部四郎 武満徹 吉田正 井手俊郎 成瀬巳喜男 ο童話童謡 新美南吉 巽聖歌 與田準一など    、

「文士町」という名称の由来

   この地図の名称は「文士町地図」としている。文士が多く集まるところは文士村という。文士村は中心になる人物がいてその作家を中心として形成されたムラ社会をそう呼ぶものだ。当地一帯も横光利一が北沢に越してきたところからその彼を慕って集まってきたということはある、が、記録された文士達は種々雑多、多岐に亘る。いえば彼らは漂泊者であったといえる。流れ流れて当地にやってきた人々である。着いてみたら知り合いがいた、下北沢は鉄道が交差した、クロスした駅である。言えば鉄道交差の利便性が彼らを集めたといえる、鉄道クロスが文士達を集めたということから、ムラではなくマチだとしたものである。このことから北沢川文化遺産保存の会の主幹、きむらけんが名づけたものである。--BunkajinX会話2023年5月12日 (金) 12:49 (UTC)[返信]

各版の発行

☆初版 名称 下北沢鉄道X交点周辺地図 発行年月日 2006年12月25日

  1. 裏面 ▶「風と光と二十の私と」作品舞台地図 ▶安吾青春文学の傑作 安吾生誕百年
  2. ♦解説文骨子:東京の副都心として発展しつつあった新宿と渋谷、そこからわずか数分で電車に行けるという地の利は大きい。鉄道による直線的な利便性、それと丘と谷が織りなす曲線もみ逃せない。鉄粉とドブと日向が匂う地域、都市と田園の間、物語が渦巻く場だった。

☆第2版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2007年6月6日

  1. 裏面 ▶「風と光と二十の私」と作品舞台地図 ▶付録 森茉莉作品関係舞台地図
  2. ♦解説骨子:文士が多く集まった町を「文士村」と称する。既存の文士村として著名なのは「田端文士村」や「馬込文士村」である。下北沢にもこれらに劣らないほどに文士たちが大勢集まっていた。が、従来の文士村のように誰か中心になる人物がいて集まったわけではない。今日になって調べてみたら数多く集まっていたということである。したがって集まった者どうしが全体で文学サロンを作っていたわけではない。むしろその存在は個別的、党派的であった。

☆第3版 名称 下北沢文士町文化地図(改訂3版) 発行年月日 2009年4月1日

  1. 裏面▶「風と光と二十の私」と作品舞台地図
  2.   ▶付録 森茉莉作品関係舞台地図
  3. ♦解説骨子:下北沢周辺に多くの価値を呼び寄せたのは鉄道だ。農業を中心とした生活を営んでいた地域新屋敷に鉄道が敷設された。小田原急行鉄道は昭和2年に、帝都電鉄は昭和8年に敷設された。下北沢出二つの線路がクロスしたことは大きい。繁華な都市新宿と渋谷からはほどよい距離にある。武蔵野残影の自然も沢や丘に残っていた。丘の眺望、谷の隠れ里、そこにいつの間にか文士を初めとする文化人が集まっていた。(注記:この3版より、地図上に戦災区域が記されるようになった)

☆第4版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2010年8月28日

  1. 裏面 大正六年十二月十日印刷同年十五日発行の「大日本帝国陸地測量部」の「世田谷」を転載
  2. ♦解説骨子:下北沢にクリエーティブな人々を集めたのは機械近代の鉄道である。開通当初は、都市と田園の間で自由清新な空気があった。さらには昭和8年になって、小田急と井の頭線とが交差したことも大きい。これによって一気に利便性が高まった。渋谷や新宿とのほどよい距離も大事な要素だ。ここ下北沢は焼け遺ったこれが街の代用機能を果たしていた。また、ここに進駐軍のPXから流れ出てヤミ物資が集まったことも大きい。森茉莉は北口駅前市場で手に入る嗜好品が魅力で当地に引っ越してきた。

☆第5版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2013年1月1日

  1. 裏面 明治四十二年測図大正十年修正測図「大日本帝国陸地測量部」の「世田谷・中野」を転載
  2. ♦解説骨子:『下北沢風景』という絵画がある。岸田劉生に師事した高須高治が描いたものだ。沢の一端を切り取った絵で、青空と丘上の緑、畑の赤土、そして建てられたばかりの家々の赤い屋根が鮮やかに描かれている。一際高く抜きん出ているのは小池材木店の長尺寸材木置き場の工作物である。昭和初期、小田原急行鉄道によって切り開かれたばかりの下北沢の新開地の様子が見事に描かれている。下北沢原風景と言えるものだ。

☆第6版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2015年4月1日

  1. 副題-文学と芸術と巨人伝説のまち案内図-
  2. 裏面:アメリカ陸軍地図局(the Army Map Servce)1946年発行地図 Setagaya Japan
  3. ♦解説骨子:下北沢には近代文学の担い手が数多く居住している。その因は何か、ポイントは下北沢で鉄道線がクロスしたことだ。都心からほどよく離れた都市と田園との縁辺、武蔵野は書き手にとっての好ポジションだった。文士村に集えという指令もなしに秘かに彼らが参集してきていた。人ならぬ、鉄道が人を集めた「文士町」と呼称する所以である。下北沢という近代都市の迷路に隠れた文化を発掘し、これらを社会に発信していこうとの狙いから北沢川文化遺産保存の会は発足した。

--BunkajinX会話2023年5月14日 (日) 12:45 (UTC)[返信]

☆第7版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2017年3月31日

  1. 表面:世田谷代田の音楽学校~「帝音」の歴史 芸術学博士 久保絵里麻
  2. 裏面:内山模型製図社製作「北沢警察署管内全図」から東北部を抜粋4月1日
  3. ♦解説骨子:文学とは何か、流離(さすら)いだ、時代を生き、土地に生き、そのときどきのことを詠んで人々の生き様を描いては立ち去り、そして亡くなっていく。漂流の核となるのが下北沢という鉄道駅である。新宿、渋谷から来たり、逆に逃げたりできるところだ。だからこそ鉄道交差の形が文学の主題となりうる。清水博子の『街の座標』は鉄道X、まさにこれを象徴的に描いたものだ。ゆがんだ座標が時に頭を締めつける街なのである。

☆第8版 名称 下北沢文士町文化地図  発行年月日 2019年12月17日

  1. 副題-世田谷代田駅前ダイダラボッチ広場完成記念-
  2. 表面:古関裕而と世田谷代田
  3. 裏面:代田のダイダラボッチ~民族学者柳田国男の探訪と発見~
  4. 解説骨子:知られていないことだが下北沢には戦前から文学志望の青年が多く集まってきていた。二・二六事件、昭和11年(1936)の後、作家の中山義秀は銀座から下北沢に転居してくる。そのときの様子を「下北沢には作家や詩人志望の青年たちが、そちこちのアパートや下宿に出入りしていて、無聊の日を送っている」(『台上の月』)と描いている。

☆別冊 名称 下北沢文士町文化地図別冊 焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム 発行年月日 2018年3月31日(再版2018年10月30日)

  1. Dr.Oliver L Austin撮影 下北沢戦後風景写真18葉
  2. 下北沢20世紀末 スケッチ 絵・飯田勝 6葉 

「下北沢文士町文化地図」の発行主体 会の名称 北沢川文化遺産保存の会 発足2004年12月 初版から8版まで、地図全体の編集責任者 主幹 きむらけん が担った。--BunkajinX会話2023年5月15日 (月) 07:44 (UTC)[返信]

--BunkajinX会話2023年5月15日 (月) 00:27 (UTC)[返信]

--BunkajinX会話2023年5月14日 (日) 14:27 (UTC)[返信]


--BunkajinX会話2023年5月14日 (日) 07:53 (UTC)[返信]

--BunkajinX会話2023年5月12日 (金) 12:55 (UTC)[返信]