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利用者‐会話:Anonymouss

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曖昧を理由に記事の内容を削除するのをやめてください。それよりも、どうしたら曖昧でなくなるかを調べてください。

また、語源や、(歴史やニュースによくある)明確なリソースの出ていないものは曖昧にならざるを得ない分野です。何十年経とうが、きっとこの分野で決まりきった答えを出せるものは何もないでしょう。なので、語源情報は曖昧を理由に消さないようにしてください。kzhr 15:38 2004年2月7日 (UTC)

何を偉そうにいっているのでしょう? 曖昧な情報をどういじっても、確実な情報にはなりません。 確実な情報をもっている人が、あらたに明瞭な文章をつぎたせばいい、それだけです。

(ここまで、Anonymouss さんの発言。)

Wikipedia:言葉を濁さないを曲解なさっているように見受けられます。少し、冷静になってください。たとえば、儒教の記事に対するあなたの変更では、「儒教が日本に伝えられたのは、5世紀のころと言われている。」を「儒教が日本に伝えられたのは、5世紀。」に変更なさっていますが、これでは文意が全く変わってしまい、不正確な記事になってしまっています。「文章の正確さ」を第一に考えて下さい。Ojigiri

間違っているなら直せばよい。間違いなのですか?儒教の伝来年は。

(ここまで、Anonymouss さんの発言。)

5世紀に伝来した」のが事実なのであれば、あなたがそのソースを示すべきであると言っているのです。すでに存在する文章と相反する内容に書き換える場合は、ソースを提供した上で書き換えるのが礼儀です。信頼できるソースを提供できないのであれば、無闇に元の文の文意を変えるのではなく、まずノートで疑義を投げかけてはいかがでしょうか?Ojigiri 16:52 2004年2月7日 (UTC)

5世紀に伝来のソースは日本書紀かなにかにでしょう。Ojigiriさんは学校で日本史をならわなかったのですか?

日本書紀を読んで確認したのですか?ならば、そう書いてください。全ての歴史文献は一度は疑われるべきで、それを鵜呑みにするのは論外です。また、多分この時代の文献はなかったと記憶しているので、おおよそこの時代に伝わったのではないかという推定の可能性が高いです。
試しに聞きたいのですが、今尚多数の説がある稲の渡来の時期など、どうやって明確にするつもりなのでしょう。kzhr 17:00 2004年2月7日 (UTC)

断定であるか、推定であるか、明記すればよいでしょう。 誰かの説であるなら、誰の説であるか、明記すればよいでしょう。 「といわれている」などど無責任な憶測を書くべきでない。

(ここまで、Anonymouss さんの発言。)

ですから、Anonymouss さんが「儒教が日本に伝えられたのは、5世紀のころと言われている」と断定した根拠を明記すべきと言っているのです。ウェブサイト1ウェブサイト2では、「儒教の伝来は6世紀」と言っています(もちろん、他を探せば5世紀とする文献も見つかりますが、どちらが正しいか定まった学説はおそらくないのでしょう)。Ojigiri 17:19 2004年2月7日 (UTC)

それならば、あなたが調べられた通りに、5世紀の説と6世紀の説があると記載すればよろしいでしょう。 「5世紀といわれている」のような無責任な文章より、よほど百科事典的です。

(ここまで、Anonymouss さんの発言。)

確定していないことを確定していないと書く方がより正確だと思いますが。Johncapistrano 17:37 2004年2月7日 (UTC)

私が指摘しているのは、Anonymouss さんが「ソースを調べもせずに」誤った情報に書き換えたという事実です。「5世紀といわれている」との文章は、単に「5世紀なのか他の時期なのかは諸説あって確たる証拠はないが、5世紀説が有力である」ということを言っているだけであり、(誤った情報に書き換えることに比べれば)特に問題視する必要もないと思うのですが。Ojigiri 17:39 2004年2月7日 (UTC)

儒教は良い表記にまとまりましたね。 くだらない議論ばかりしかける人よりも、こつこつと記事を書く人がウィキには必要である好例です。 Ojigiriさんも反省してください。

(ここまで、Anonymouss さんの発言。)

話の論点をずらさないようにしてください。儒教は「たまたま」うまく収まりましたが、あなたが消して言った曖昧表現は、どうしても曖昧にならざるを得なかったものも非常に多いのです。そして、その執筆者がどうしても調べきれずに曖昧だった表現を、消すことで満足しないで、どうしたらより曖昧にならないか試行錯誤せよというのがWikipedia:言葉を濁さないの一番重要な点だったはずです。表現を変えるのならば、それなりの調査をしないことにはそちらの方が無責任であると覚えておいて下さい。kzhr 02:35 2004年2月8日 (UTC)

kzhrさんを支持します。コンパクトディスクでもほぼ同様の、あまり意味のない厳密さをめぐったやり取りが行われています。日本語において過剰に曖昧な表現が多用されることは事実ですが、語尾を変えるだけでは解決にならないことも多いのです。表現や書式を集中的に直してくださる方は有難い存在ですが、今回のAnonymoussさんがおやりになっていることは再考を求めざるを得ません。MT.Stone 02:46 2004年2月8日 (UTC)

まったく、Ojigiriさんをはじめ、粘着される方が多くて疲れますね。

儒教は良い表現にまとまりました。しかし、「たまたま」ですって? まさか、真剣にしらべて、修正された方がいたから、なおったのです。 Kzhrさんのように、粘着して議論を吹っかける人ばかりなら、いつまでたっても直りはしません。

コンパクトディスクの件ですか。ノートで建設的な論議がはじまっています。 正確な情報をお持ちなら、そちらへおこしください。 しかし、単に粘着な議論をふっかけるだけのおつもりなら、歓迎しかねます。

自分でまともな記事がかけない人ほど、粘着してくだらない議論をおこしたがるというのは本当ですね。

文意を誤解してらっしゃるようなので脇から補足します。
今回は「たまたま」あなたの行動をきっかけに「真剣にしらべて、修正された方」が現れたので結果として記事は元よりも良いものになりました。しかし、あなたの修正それ自体をとって見れば記事の品質を劣化させています。別に悪意があってのことではないと思うので、もう少し慎重になってほしいというのがKzhrさんの意見だと思いますが。
曖昧さの指摘はノートに書くことでも行えるので、その曖昧な表現が意味している筈である正確な事実を知っているのでなければ断定的な文に修正することには慎重になるべきではないでしょうか。

ノートに書き込むときは署名をお願いします。でないと議論が解り難くなりますので。文の最後に~~~~と書けば自動的に自分の名前と時間が出力されます。らりた 06:32 2004年2月8日 (UTC)