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こんにちは。 このページで合っているでしょうか? (「アロイジオ・デルコル」) サレジオ会士だったデルコル神父さまのお名前と出身地についでです。お名前はルイジ・デルコル、またはデルコル・ルイジ、とずっと聞いていました。アロイジオ・デルコルとは初めて見ました。どこかで印刷間違いがあったのではないでしょうか?

デルコル神父さまはカトリック碑文谷教会、「江戸のサンタマリア」教会、通称サレジオ教会の司祭でした。 少なくとも、私が就職でドイツへ行った1978年の3月まで、平日 朝7時のミサはいつもデルコル神父さまの司式でした。(その後 お料理人の方とご一緒に大分に移られたと記憶していますが、、、)当時は教会の奥にある小さい聖堂(主祭壇に向かって左側にドアがあります)に靴を脱いで入り、5人くらいが集まっての平日朝のミサでした。

私は大学生でしたが、他には平日の朝いらっしゃるのはデルコル神父さまと親しい年配の方々ばかりでした。その時に聞いたお話では、デルコル神父さまは子供時代によく北イタリアの故郷トリノで子供たちを集めてはミサごっこをして、彼がいつも司祭役だったということでした。その思い出を当時何か印刷物で読んだ覚えもあります。神父さま方(当時はLuigi Del Col神父さま、青年会の指導をしていた Stefano Dell'Angela神父さま、幼稚園に行く前から遊び相手をしてくださっていた、子供と鳩の大好きなDal Fior Luigi神父さま)は「北イタリアではね、日本と同じように苗字が先、名前はあとなんだよ」とおっしゃっていました。そして、デルコル神父さまはトリノ、デランジェラ神父さまはウディネに近いフリアウル地方の山村、小さいときから親しんできたダルフィオール神父さまはロミオとジュリエットの町、ヴェローナの出身だということも神父さま方から聞かされていました。神父さま方は少年時代に船でチマッティ神父さまと日本にいらしたということでした。

デルコル神父さまの出身地、カザルサというのはトリノに近いのでしょうか?

バルバッロ神父さまは毎年クリスマスの深夜ミサでデルコル神父さまとご一緒に司式していらっしゃいました。

サレジオ教会のサイト(リンク先としてお使いになっています) http://home.m06.itscom.net/salesio2/side_a/web/common/about_salesio_contents_001.html   ルイジ・デルコル   1970.8.9-1978.4.5碑文谷教会主任   1920.2.7生。 1936.11.22来日。   1946.12.21司祭叙階。   1995.10.19帰天。

サレジオ修道会のサイト https://salesio.jp/library/diamond10   解説/   サレジオ会第8代総長 エジディオ・ヴィガノ師の手紙   「ダイヤモンドを身につけた人物の夢にあらわれるサレジオ会員像」   サレジオ会最高評議会広報第300号 (1981年4月16日)     訳/   ルイジ・デルコル(2006年8月)

世のひかり社のサイト(リンク先としてお使いになっています) http://yonohikarisha.blogspot.com/p/blog-page_3011.html 題名は「アロイジオ・デルコル」となっているのですが、その次の行には次のようになっています。   創立者ルイジ・デルコル神父は、北イタリアの小さな町カサルサに生まれ育ちました。16歳で来日し、若くしてラテン語文法書を完成しました。その後チマッチ管区長の秘書をつとめる好機を得て、聖人のようなこの司祭から大きな影響を受けることができました。 ルイジ(Ludvicoの短い形、フランスのルイはドイツのルートヴィヒ)をアロイジオ(ドン・ボスコの生徒で若くして亡くなり聖人となった少年の名前)と見間違えたのか、またはアロイジオは、神父さまの、呼び名ではない(ハイドンのフランツのような)けれど、父の名などで最初の名前だったのでしょうか・・・?)とどこかで取り違えたのか、通称と普段は使われなかった正式名があるのでしょうか。 --aiueo_aeiuo会話2019年3月22日 (金) 10:13 (UTC)[返信]