コンテンツにスキップ

利用者‐会話:126.255.150.184

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「円仁誕生の地」における編集について

[編集]

円仁誕生の地」への精力的な寄稿に感謝します。「安蘇郷説」に言及される内容で加筆されていたので、私自身興味をそそられておりますが、2つの点でコメントをさせてください。

  • 円仁が安蘇郷で生まれたとする説の出典はありませんか? ウィキペディアへの加筆にあたっては、その情報の出典を明記することが重要視されます。貴台は、円仁の「安蘇郷誕生説」をどちらで目にされたのでしょうか。それを書くことで、加筆された情報の信頼性も向上することでしょう。
私自身先ほどGoogleで検索をかけて見ましたが、三毳山の別名が「安蘇山」であるということのほか、特に収穫がありませんでした。今後も渉猟を続ける所存です。
  • 旧下都賀郡岩舟町地内の地名に「安蘇郡」を冠される編集をされたようですが、これは恐らく総て「都賀郡」です。安蘇郷の範囲は記事「安蘇郡」を参照されても解る通り、
    • 佐野市(村上町、上羽田町、下羽田町、高橋町を除く全域)
    • 日光市(足尾町各町)
    • 群馬県桐生市(梅田町の一部)
これが全てでありまして、中近世から明治初期にかけての変化としては、北方の一部で都賀郡(上都賀郡)との境界が変化したに過ぎません。都賀郡とはまさに三毳山(安蘇山)でその境を接しています。下津原や畳岡は、律令制下から明治維新を迎えるまで都賀郡に属し、郡区町村編制法に至って下都賀郡に入る事となりました。
よって下津原および畳岡は、中近世には都賀郡、近現代には下都賀郡の地名ですから、いくら安蘇山麓とは言えこれを安蘇郡のものと見てしまうと、誤謬を犯す事になります。上記がもしも私の勘違いでしたら、反論をお聞かせください。

以上です。記事の充実を図るには情報の確度が命ですから、こうも煩く書いてしまいました。申し訳ない。ちなみにこちらでは、岩舟町下津原岩舟町畳岡の立項準備を粛々と進めています。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。--うらにわ会話2020年12月25日 (金) 09:50 (UTC)[返信]

大変失礼しました。当記事に寄せられた新たな編集を確認し(アドレスは違いますが貴台のものでしょうか)、自分の認識の誤りを知りました。かくも酷い誤解を長々と垂れ流したことは冷汗三斗の思いで、深くお詫び申し上げます。下津原・畳岡の両村が安蘇郡に属していたことは、間違いないものと確認しました。
すると、岩舟説がすなわち安蘇郷説ということになるのでしょうか。貴台は立石寺と絡めて記述されていますが、ちょっと趣旨を理解しかねるので、追って出典のほうをお示し頂ければ幸甚に存じます。--うらにわ会話2020年12月26日 (土) 11:09 (UTC)[返信]
恐縮ですが、もしかしたらと思って質問させていただきます。
この「安蘇郷説」は、貴台が独自に主張されている説でしょうか。そうであれば、独自研究は載せないというウィキペディアの方針に則り、残念ながら削除されなければなりません。この場所には、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの」を記すことができません。
まず、かつて最上郡安蘇郷という郷名が存在し、立石寺の院号が阿所川院であるということは、私も調べて把握しました。しかしそれらに基づいて、円仁の誕生地は安蘇郷であると主張する文献は存在しますでしょうか。そういう文献が有るならば、是非とも堂々と脚注で示していただきたいのです。しかしそれが無い場合、遺憾ではありますがこの節は消去して頂かなければなりません。
兎も角も、貴台の加筆のお陰によって、下津原村および畳岡村の所属した正しい郡を知ることができた御恩は忘れません。重ねて御礼申し上げます。--うらにわ会話2020年12月26日 (土) 11:43 (UTC)[返信]