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利用者‐会話:125.207.203.12

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プレビュー機能のお知らせ

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投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。125.207.203.12さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存知のことでしたら、悪しからずお願いいたします。--ikedat76会話2012年4月17日 (火) 16:21 (UTC)[返信]

差し戻しについて

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こんばんは。ikedat76と申します。

熊野信仰関連の記事の編集に参加いただき、まずはお礼申し上げます。IP:125.207.203.12会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのこの編集を拝見して、熊野信仰関連に学識をお持ちの方とお見受けしました。しかしながら、申し訳ありませんが、IP:125.207.203.12会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんの編集のかなりの部分を差し戻しもしくは除去いたしました。なぜ、そのような対応としたかについて、一部ではありますがひとまずご説明を差し上げたく、伺いました。

熊野三山本願所

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編集前 編集後 差分
12世紀初め、[[白河天皇|白河院]]は造営のため、[[紀伊国]]・[[阿波国]]・[[讃岐国]]・[[伊予国]]・[[土佐国]]の5ヶ国から50烟を施入した(『[[中右記]]』)<ref name="Miyake_1996_94"/>。造営料国の寄進の早い例は12世紀末から13世紀初めにかけてと見られ、13世紀初めには[[熊野三山検校]]であった長厳に阿波国が寄進されている(『[[頼資卿記|頼資卿熊野詣記]]』[[建仁]]2年〈[[1202年]]〉)<ref name="Ohta_2008_159">太田[2008: 159]</ref>。 ところで、12世紀初め、[[白河天皇|白河院]]は造営のため、[[紀伊国]]・[[阿波国]]・[[讃岐国]]・[[伊予国]]・[[土佐国]]の5ヶ国から50烟を施入した(『[[中右記]]』)<ref name="Miyake_1996_94"/>。造営料国の寄進の早い例は12世紀末から13世紀初めにかけてと見られ、13世紀初めには[[熊野三山検校]]であった長厳に阿波国が寄進されている(『[[頼資卿記|頼資卿熊野詣記]]』[[建仁]]2年〈[[1202年]]〉)<ref name="Ohta_2008_159">太田[2008: 159]</ref>。 差分

細かい点かもしれませんが、「12世紀初め~」以降の記述に「ところで」と書き始める理由はないものと存じます。「12世紀初め~」以降の記述は、その直前の記述に対して別に傍論ではないはずです。

編集前 編集後 差分
また、同じ本願所とはいえ、新宮は[[飯道寺]]梅本院という[[当山方]]大先達寺院から庵主を迎える、[[天台宗]]比叡山[[末寺]]に連なるといった権威を背景として発展したのに対し、(中略)その性格は一様ではなかった<ref>太田[2008: 186-187]</ref>。 また、同じ本願所とはいえ、新宮は16世紀中頃、[[飯道寺]]梅本院という[[当山方]]大先達寺院から庵主を迎え、依然として本山派熊野三山検校聖護院に連なるといった旧来の権威を背景として発展した<ref>関口[2009]</ref>のに対し、(中略)その性格は一様ではなかった<ref>太田[2008: 186-187]</ref>。 差分

まず、1点目に申し上げておきたいのですが、上記一文「また、同じ本願所とはいえ~その性格は一様ではなかった」までは、太田直之氏の『中世の社寺と信仰 - 勧進と勧進聖の時代』(2008、、弘文堂)の186-187ページに基づくものです。2点目に、「依然として本山派の熊野三山検校聖護院に~」と加筆いただきましたが、この加筆には2つの疑問があります。

  1. 出典として提示いただいた関口真規子氏の『修験道教団成立史』(2009、勉誠出版)を拝見しましたが、新宮の本願所がいかなる権威を背景としたかについて記述があるとは理解できませんでした。
  2. 「関口[2009]」という文献参照をなさっていますが、この記述の仕方は「関口[2009]」全体の論旨を参照したという趣旨になります。そうした文献参照の仕方自体は行われることがあるものですし、ただちに不適当なものとは断言できません。しかしながら、新宮の本願所が当初は当山派、後に本山派(というより比叡山末)を背景としたとするのが「関口[2009]」の著作全体の論旨なのかというと、それは違うのではないでしょうか。同書は当山派(当山方)の歴史を主題としており、本山派の歴史は当山派との関連においてのみ触れられているに過ぎませんし、個別の本願所(新宮)の展開について述べられている箇所があったとは理解できませんでした。

これら2点の理由から、出典に即していない記述、もしくは出典の趣旨に対して不適当な参照の仕方がなされている記述が追加されたと判断し、除去いたしました。当方の判断があやまっており、このページで該当する記述がある、等ございましたらご指摘下さい。

編集前 編集後 差分
那智では文明10年(1478年)と[[長享]]2年([[1488年]]) に造営修復を行った記録(『熊野年代記』)があり、いずれの場合にも勧進聖が造営修復の財源調達に関わったことが知られている<ref>豊島 [1990: 101-102]</ref>。前者は、京・和泉・河内に諸国棟別銭の課役を賦課するとした[[足利義尚]]の御教書にもとづき、庵主が徴収にめぐったものと考えられている。後者は、栄唱比丘尼なる者が那智山の東西両座の一札を携えて奉加を募ったというが、この比丘尼が那智七本願に属したか否かは定かではない。この他、十穀聖による勧進の事例があり、文明16年([[1484年]])、天文11年([[1542年]])の例が知られており、こうした勧進聖が那智に定着していたことが分かる<ref>豊島[1990: 102]</ref>。 那智では文明10年(1478年)と[[長享]]2年([[1488年]])に造営修復を行った記録(『熊野年代記』)があり、いずれの場合にも勧進聖が造営修復の財源調達に関わったことが知られている<ref>豊島[1990: 101-102]。 ただし、『熊野年代記』に書かれた古代・中世の記述に関してその事実性に疑問あり、とする見解が山本殖生「『熊野年代記』の成立と史料批判」(『熊野誌』 42号、1996年)によって明らかにされているので、この記述を事実として採用する際には一定の手続きが必要となろう。</ref>。前者は、京・和泉・河内に諸国棟別銭の課役を賦課するとした[[足利義尚]]の御教書にもとづき、庵主が徴収にめぐったものと考えられている。後者は、栄唱比丘尼なる者が那智山の東西両座の一札を携えて奉加を募ったという<ref><u>この当時、那智山に東西両座が存在したかについては阪本[2005: 70]によって否定的見解が出されているので、この記述に関してはいくぶんかの検討の余地があろう。</u></ref>が、この比丘尼が那智七本願に属したか否かは定かではない。この他、十穀聖による勧進の事例があり、文明16年([[1484年]])、天文11年([[1542年]])の例が知られており、こうした勧進聖が那智に定着していたことが分かる<ref>豊島[1990: 102]</ref>。 差分

熊野三山関連の史料の信頼性に疑問があるという点については私も承知しております。その上で申し上げますが、熊野三山本願所では『熊野年代記』を参照する箇所を数えたところ4箇所ございます。なのに、なぜこの箇所だけにという疑問がまずあります。また、『熊野年代記』の信頼性に関しては、『熊野年代記』を主題とする記事中で記述するのが妥当かと存じます。

熊野三山検校

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編集前 編集後 差分
以後、歴代の足利将軍は、乗々院の所領と権益を手厚く保護し、聖護院が三山検校を重代職化してからは、三山奉行を重代職とするだけでなく聖護院の筆頭院家の地位をも獲得した<ref>宮家[1992: 269]</ref>。 以後、歴代の足利将軍は、乗々院の所領と権益を手厚く保護し、聖護院が三山検校を重代職化してからは、三山奉行を重代職とするだけでなく聖護院の筆頭院家の地位をも獲得し、本山派修験道が成立した<ref>宮家[1992: 269]</ref> 差分

まずご確認いただきたいのですが、上記「以後、歴代の足利将軍は」から始まる一文は宮家氏の『熊野修験』(1992、吉川弘文館)の269ページにもとづくものです。聖護院家が後に本山派のトップに立つということ自体はその通りですが、『熊野修験』の269ページにはそのような記述はございません。出典に即していない記述、もしくは出典の趣旨に対して不適当な参照の仕方がなされている記述が追加されたと判断し、除去いたしました。

以上のように、大変心苦しいのですが、既存の記述や文献参照との整合性、文献選択の適切性といった点で疑問な点が見受けられます。今後の編集に当たってはご配慮いただきますよう、お願い致します。--ikedat76会話2012年4月19日 (木) 12:48 (UTC)[返信]


一括投稿のお願い

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こんにちは。125.207.203.12さんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿は履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:Inuseをお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--ikedat76会話2012年5月4日 (金) 09:14 (UTC)[返信]


一括投稿のお願い(2度目)

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こんにちは。125.207.203.12さんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿は履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:Inuseをお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--ikedat76会話2012年5月11日 (金) 15:16 (UTC)[返信]

お知らせ(2012/5/12)

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2012-05-11 08:58:41 (UTC)および2012-05-11 07:28:53 (UTC)の編集を、申し訳ありませんが差し戻しいたしました。如意輪堂本願=那智阿弥とするのは誤りだとお考えなのかもしれませんが、太田氏の著作の該当箇所はお読みになられましたでしょうか。太田氏の著作の177ページから179ページでは、一貫して如意輪堂本願=那智阿弥かつ尊勝院重済=尊勝院と扱って那智阿弥について記述しており、記事の記述もそれに従ったものです。記事に疑問を感じるのであれば、まず出典として提示されている文献をご確認いただきたく存じます。確認してもなお、そうした扱いを誤りだとお考えになるのだとしても、ウィキペディアは個々の編集者の考えや史料解釈を発表する場ではありません(WP:NOR)し、誤りだとするのであれば別の出典が必要です(WP:V)。

また、ウィキペディアはあくまで百科事典であって、特定の研究者の研究成果を強力にアピールする場でもありません。個々の研究者が自身の研究成果において強い表現を用いるのはなんら問題ではありませんが、百科事典の記事としては学説は過度な表現は避けるのが適切です。例えば阪本氏も指摘されている通り、熊野史に関する実証的な研究は未だ蓄積が不十分であり、そのような段階で特定の学説が絶対に間違いないものであるかのように読者に認識させるような表現は望ましくないのではないでしょうか。

一括投稿の件と併せて、恐れ入りますがご理解いただきますよう、お願い致します。--ikedat76会話2012年5月11日 (金) 15:16 (UTC)[返信]


一括投稿のお願い(3回目、ほか)

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こんにちは。125.207.203.12さんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿は履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:Inuseをお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。

あわせて伺いますが、熊野別当において「13世紀半ばから実報院が山内に影響力を確立する15世紀後半まで、那智山の実権を掌握した家系は史料上明確ではない」という記述を繰り返し除去されるのは何故なのでしょうか(1度目2度目)。この記述には明確に出典があり、除去されなければならない理由は無いものと承知しております。

これまでIP:125.2.7.203.12会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんの編集に疑問を感じた際は編集要約欄なりこの会話ページなりで理由を申し上げてきたつもりですが、一度もお返事をいただけておりません。今まで、当方も特段お返事を強く求めてこなかったのは確かですから過去の分については特に申しません。しかし、今回に関しては何がしかお返事をして下さるようお願いいたします。今日から約1週間、日本標準時で6/9(土)の24時までお返事をお待ちします。編集を続けておられるにもかかわらずお返事をいただけない場合、Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへIP:125.2.7.203.12会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのお名前を報告することも視野に入れている旨、申し添えておきます。--ikedat76会話2012年6月3日 (日) 12:50 (UTC)[返信]

「熊野別当」編集関係者Ikedat76さんへの利用者からの回答(お詫びとお願い)。

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私は「利用者-会話:118.11.85.136」もしくは「利用者-会話:125.207.203.12」と呼ばれている者です。 Ikedat76さんから「熊野別当」の編集に関して回答を求められていましたので、それに気付いた昨日6月8日16時頃(??)に回答させていただきました。しかし、私の操作無知によってエラーが出たようで、Ikedat76さんへの回答がIkedat76さんへ届いていなかったことがわかりました(??)。書き込む場所を間違えたせいかもしれません。 私はウィキペディアへの投稿作業は一応できるのですが、利用者間の対話等に関しては機器をどう操作したらいいのか基本的によくわかっていません。Ikedat76さんの親切な呼び掛けに対して適切に応答できなかったことをお詫び致します。 返答期限を限定されていたようですので、ここで返答するのが適切かどうかわかりませんが、もう一度回答させていただきます。

細かいところは省かせていただきますが、私が主に訂正対象にした「こうした熊野内部での別当家の勢力伸長の一方、」から「にまで勢力を広めた。」の中の「湛快は激動の時代を乗り切る舵取りを任されることになった。」という文章に対して注として「阪本[2005:421]」と入れさせていただきました。当初は「阪本[2005:238]」と入れさせていただいたのですが、この箇所にこの文章と同じ表現が著者の文章にないことに気付き、次回からこのようにさせていただきました。お許しを請うとともに、混乱させたことをお詫び致します。 次に「にまで勢力を広めた。」の中の「広めた」という表現に対して、参考文献とされた著者の表現に従いこれを「拡げた」と訂正させていただきました。「広げた」でもいいのですが、「勢力」という表現に対しては著者のように「拡げた」としたほうがいいと思います。細かいことにこだわり過ぎといわれればその通りですが、著者の表現に従うということでお許しいただきたいと思います。

「田辺・新宮両家の対立を避けるため、」から「那智山の実権を掌握した家系は史料上明確ではない。」の中の「那智執行は、滝本執行、宿老、在庁らとの合議により那智さんの運営に当たる役職で12世紀後期以降にはっきりとした姿をとるようになる。」という文章は、この箇所で書く文章としては相応しくなく、『熊野三山と熊野別当』の著者の真意を推し量る方向で参考にした箇所を53ページではなく72ページとし、13世紀末期の歴史叙述として後ろに回させていただきました。53ページの文章表現では、Ikedat76さんのみならず読んだ人の理解を「誤解」に導く要素を孕んでおり、著者の反省すべきところでしょう。その点、72ページならば『熊野三山と熊野別当』の著者がいいたかったことがはっきりと表現されていますので、ご理解いただけると思います。どうかよろしくお願い致します。 次に、私は「なお、「熊野別当系図」は、那智執行には範誉を始めとする行範の家系(新宮別当家)に連なる人々が就任しているとしている」の文章の間に「12世紀末期から13世紀末期にかけて」という文章を挟んでもらえるように訂正を求めましたが、これは54ページや72ベージにまとめられた著者の言い分を理解する上で欠くことができない文章であると思います。 なお、「が、13世紀半ばから実報院が山内に影響を確立する15世紀後半まで、那智山の実権を掌握した家系は史料上明確ではない。」と書かれた文章は、もし書くとすれば注の中で書くべきことで、申し訳ないのですがここで書けば歴史叙述の一貫性と明確化を妨げることになりかねません。しかも、注で参考文献として挙げられた『熊野三山と熊野別当』の54ページから56ページにおいて、12世紀後期から13世紀末期(後期とすべきか)にかけて登場する那智執行家(仮称)の人々6名「範誉→善豪→行誉→慶誉→定誉→定誠」については那智執行としての家系(熊野別当家)は明確ですし、また13世紀末期から14世紀末期にかけて登場する那智執行5名「覚賢→道済→祐豪→済賢→道賢」のうち「祐豪」を除く4名は「か」という曖昧な表現もあるものの53ページの表5によってその家系が熊野別当家、尊勝院、証道房(のちの実報院)と明確ですので、この表現は当たっていないと思われます。勿論、15世紀の那智執行10名につきましては、家系が不明な方もいますが、79ページから89ページまでの間で殆どが明らかにされています(実報院2名、宝住院1名、南光房1名、廊之坊3名)。

最後になりました。見出しとして書かれた「展開」の最後に「熊野別当家は断絶せず、続いていたと見なすべきであろう。」という文章の後に、行を改めて「ところで、熊野別当家勢力が衰え始めた13世紀末期になると、那智山は那智執行、滝本執行、宿老、在庁の合議制によって一山経営をおこなうようになり、熊野三山の中で半ば独立した存在になっていった。」という文章を入れ、注として「阪本[2005:72]」と入れていただきたいと思います。これが、「後ろに回させていただきました」というお約束を実現させた文章です。この位置に欠かすことのできない文章表現としてどうかお許しください。 

以上、ごちゃごちゃしたくどい表現になりましたが、『熊野三山と熊野別当』の著者や筆者の表現の曖昧さが、理解を妨げたところもあったかと思います。どうか色々な記載ミスをお許しいただくと共に、ご理解を賜りたいと思います。 Ikedat76さん。長い返事に付きあっていただき、ありがとうございました。 「利用者-会話:118.11.85.136」「利用者-会話:125.207.203.12」でした。6月9日15時40分(??)