コンテンツにスキップ

利用者‐会話:114.169.161.155

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

木邑--114.169.161.155 2009年11月16日 (月) 15:32 (UTC)--114.169.161.155 2009年11月14日 (土) 08:10 (UTC)--114.169.161.155 2009年11月12日 (木) 14:29 (UTC)--114.169.161.155 2009年11月8日 (日) 18:02 (UTC)テスト投稿はWikipedia:サンドボックスへお願いいたします。こんにちは。テスト投稿ありがとうございます。残念ながら、通常のページでのテストは、差し戻しまたは削除されます。テスト専用ページWikipedia:サンドボックスの使用をおすすめします。このほか便利な機能をいろいろ紹介するガイドブックもご参照ください。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。[返信]

Wikipediaは百科事典であり、新案を発表する場ではありません。あなたがの項で行ったような編集([1])はおやめください。詳しくはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説台ではありません参照のこと。--夜飛/ 2009年9月26日 (土) 15:26 (UTC)[返信]

個人情報の書き込みは止めてください。Wikipedia:削除の方針#ケース B-2:プライバシー問題に関して参照。なお、申し入れのあった記事作成なのですが、お断りします。Wikipediaは百科事典であり、特筆性のない事柄を宣伝する場ではなく、新案発表のための媒体でもありません。--夜飛/ 2009年9月27日 (日) 05:13 (UTC)[返信]

演説をするつもりはないのですが、何を持って特筆性がないと判断されたのか解かりませんが、これ以上は止めにします。 --114.169.161.155 2009年9月27日 (日) 06:05 (UTC)[返信]

Wikipediaは百科事典であり、あなたの持論を発表する場ではありません。 あなたが田村氏の項で行ったような編集はおやめください。 理由は以下です。

まず、あなたが編集した文章は学術的に信頼できるものではありません。 記述するなら歴史的史料に基づき、その出典を明らかにしてください。 あなたが平康頼のノートで記述している刊行された本は史料ではありません。 (歴史学における「史料」と「資料」の違いをおわかりですか?)

次に、百歩譲ってそれが信頼できるものとして、平康頼と戦国大名田村氏はどうつながるのですか? 裏付けがない以上、それはあなたの主張する新説、演説にすぎません。 あなたの編集により、当該記事が百科事典として破綻してしまっています。 全体を通して読んだとき、文章の繋がりがないことに気づきませんか? --220.215.160.165 2009年10月14日 (水) 16:48 (UTC)[返信]

平康頼と戦国大名田村氏が繋がりがある等と書いたことはありません。どれだけの時代の隔たりがあるかを考えれば解かることです。平康頼が阿波国麻植保の保司であったのは、吾妻鏡などに記されており、阿波史、麻植郡誌などに詳しく記されております。麻植保の時代は三代にわたり暮らした郷土の資料が詳しいのは当然です。康頼の三人の家人の子孫も八百年も前から厳然として存在しており、誤った史料によって破綻されてはなりません。坂之上田村麻呂などととんでもない史料とつなげてしまったものです。誤りは正さなければなりません。--114.169.161.155 2009年10月23日 (金) 04:18 (UTC)


上記コメント拝見しました。まず、ノートや会話時は必ず署名を入れてください。以下、インラインでコメントします。

>平康頼と戦国大名田村氏が繋がりがある等と書いたことはありません。

ではなぜ、戦国大名であった「田村氏」の項目を編集したのでしょう。 当該項目で記されている田村氏は現在の福島県田村郡に本拠を置いた戦国大名田村氏の記事です。 繋がりがないことを知っていながら編集したのであれば、それは荒らしと同義です。

>康頼の三人の家人の子孫も八百年も前から厳然として存在しており、誤った史料によって破綻されてはなりません。

平康頼の家人が「田村」を名乗ろうとも、当該項目の田村氏とは別系でしょう。 戦国大名田村氏の出自に関しては、福島大学名誉教授の小林清司氏が論文(福大史学に掲載)で発表されていますが、 各種史料に見える署名から「平義顕」や「平清顕」のように平姓を名乗っていたことが判明しています。 しかし、この田村氏が平姓であることと、平康頼の家人が「田村」と名乗っていることは全くつながりがありません。 つながりがないのであれば、別項目を立てるべきで当該項目を編集するのは全くお門違いです。 また、阿波木村氏の記事中の平康頼系田村氏を、全く関係のない戦国大名田村氏へリンクさせるのはおかしいと思います。

ここまでの点はご理解いただけたでしょうか?上記の要点を整理します。

  1. あなたが記述したい平康頼系の田村氏と、戦国大名田村氏はつながりがないこと。
  2. あなたが編集したのは戦国大名田村氏についての記事で、あなたの記述したい内容を記載するには不適当な記事であること。
  3. つまり、学術的な問題以前に不適当な場所を編集しているということ(→荒らし)。

次に学術的な点についてです。

>康頼の三人の家人の子孫も八百年も前から厳然として存在しており

子孫が云々というのは根拠となりません。子孫であると仮冒することは誰でもできますので。。。 史学とは同時代の他の文書等史料により立証し、その史料自体の信憑性も考えなければならない学問です。 たとえば、ある家が800年前から続いていていることを立証したければ、中世・近世・近代とそれぞれの時代の文書史料や発掘史料から裏付けをとり、かつその史料の信憑性を考察して、論説に無理がないことを示さねばなりません。つまり、その史料が本当に信ずるに足るものか?、その史料により本当に立証できているのか?というスタンスで考える必要があるのです。 (これが史学という学問の基礎となる史料批判というものです。114.169.161.155さんは体系的に史学を修めたことはないのでしょうね、学士レベルでも史学を体系的に修めていれば分かるはずですから。)

>誤った史料によって破綻されてはなりません。

誤った史料とは何で、それによって何が破綻するのですか??主語と述語をはっきりして、相手に伝わる表現をしてください。

>坂之上田村麻呂などととんでもない史料とつなげてしまったものです。

戦国大名田村氏は平姓を名乗りながらも、一方で系譜類は坂上田村麻呂を祖としています。 また田村清顕の娘は伊達政宗の正室となりましたが、伊達家では田村氏を坂上田村麻呂の末裔と考えていたようです(伊達治家記録などに記載)。実際には坂上氏末裔とは考えづらいですが、それが受容される文化的政治的土壌があったのでしょう。 また、再興された一関藩主田村家は坂上氏を祖とした系図を編纂しており、それはそれとして近世における田村氏の意識を考える上で重要な史料です。 もっとも、あなたが仰る平康頼の家人系「田村氏」と当該項目の田村氏は別系だと考えられますので、当該項目の田村氏の記事にて系図的に坂上田村麻呂の系とされていても、あなたが仰る平康頼の家人系田村氏が坂上田村麻呂の系と記載されているわけではありません。あと、資料と史料の違いもよく分かっていらっしゃらないようですね。使い分けがめちゃくちゃです。

>誤りは正さなければなりません。

そうですね。まず伝承は「伝承である」という点を記録する必要があります。そして、実際はどうだったのか?ということを新史料の発掘や他史料との比較・考察などを行った結果、裏付けを得られた場合は学説を書き換えることになるでしょう。あなたの論説はそういったステップを踏んで、確固たる裏付けのあるものですか?

誤りというなら、もっと史学的な検証方法で裏付けを取って体系的にご説明ください。お得意の「ふるさと森山」とやらに書いてあることを理由とする、史料批判もままならない安易な結論は茶番です。このような調子だから、史学研究者から「在野の郷土史研究家は困る」といわれてしまうのです(公民館などで発行した小冊子などは、趣味で郷土の歴史を調べている方が各種の自治体史の記載をつまみ食いしながら自説を付加することが多く、このような発言をされる元となっています。当然、体系的な説明もできていません。)


以上です。ご回答いただけることをお待ちしております。 また、上記について合意ができるまで、「田村氏」や「木村氏」、「平康頼」についての編集はおやめください。--220.215.160.165 2009年10月26日 (月) 16:58 (UTC)[返信]


以下の記事が「田村氏」の項目のノートにありました。同項目のノートで行う議論にはふさわしくございませんでの、こちらの会話ページに転載し、レスをしたいと思います。--220.215.160.165 2009年11月3日 (火) 18:43 (UTC)[返信]


以前、田村氏に投稿した者です。田村氏を編集したつもりでしたが、戦国大名田村氏を編集したとお叱りを受けました。荒らしをするつもりはありませんでした。私は歴史の専門家ではありませんが事実と思われる資料を基に書いたつもりです。 あなた様も書いている事によほどの自信がお有りの様ですが、高圧的な言い方につい腹を立ててしまいました。 「ふるさと森山」も郷土史ではありますが平康頼の阿波国麻植保の保司以降に関しては一級資料にも劣るものではありません。Wkipedia平康頼は主に「ふるさと森山」を基に編集したものです。 文治二年閏七月二十二日源頼朝に任命され麻植保司として平康頼は京より三人の家人を伴い下向したが、家人の内の二人が平を名乗り一人が鶴田を名乗ったが、後に、平を名乗る家人の一人が木村(木邑)の祖神となり、平を名乗る家人の他の一人が田村(田室)の祖神となり、二つの祖神は二百メートル程離れて別々にあり、その本家は今もあります。 詳しくはWkipedia平康頼をごらんください。二人の家人の平は誰であったのかは事情により歴史では伏せられることもあるものです。平を名乗っていても源平の戦いの落ち武者ではありません。 三種の神器の宝剣は源平の戦いで行方不明になって居りますが、木村本家には戦前まで反りのない刀が伝わっていた。伊勢神宮の宝剣も反りのない直刀だそうですね、宝剣だと言っている訳ではありませんが、そうでないとも言っていません。あなた様を怒らせそうだから止めておきましょう。 源平の戦いで平頼盛は一族の都落ちには同行せず平頼盛の一族は生き延びた、その辺りに平康頼の家人の平の手がかりがあるのではないかと私も探しています。--114.169.161.155 2009年11月2日 (月) 19:04 (UTC)[返信]


上記意見、拝見しました。以下、インラインでコメントします。
>田村氏を編集したつもりでしたが、戦国大名田村氏を編集したとお叱りを受けました。
項目全体の文章をしっかり読んでいれば、何について書いてあるかは分かると思いますが。。。
編集する際は全体を読んで、何について書かれた項目かを確認されたほうがよろしいかと思います。
あなたが他の記事でも批判を受けているのは、記載ルールを守れていないことと、
記事の既存の文章の意味を理解せずに削除や加筆を行っているためと思います。
>あなた様も書いている事によほどの自信がお有りの様ですが
人間ですし、そこまで道を極めたわけではありませんので間違いがないとは申しません。
しかし、大学院にて日本中世史を専攻し、修士の学位を取得しましたので、学術的に歴史を考える術は身に付けたつもりです。
>高圧的な言い方につい腹を立ててしまいました。
失礼しました。こちらもルールに則っていない編集を何度もしている様子を見て、荒らしと判断して高圧的な態度となってしましました。ご容赦ください。
>「ふるさと森山」も郷土史ではありますが平康頼の阿波国麻植保の保司以降に関しては一級資料にも劣るものではありません。
私が何度も史料と資料の違いを指摘していますよね?歴史学において事実であると証明するためには、「資料」ではなく、証明したい出来事と同時代に書かれた「史料」が必要で、さらにそれが信頼に足るものかを精査しなくてはならないのです。
あなたの編集した項目で吾妻鏡を引用しているのはいいのですが、それ以外の箇所ではどの史料から引用したものなのかがはっきりしないことが問題です。
また、「一級資料にも劣るものではありません」とありますが、どのあたりが一級資料に劣るものではないといえるのでしょうか?
このように明白な根拠なく主張されていることが、他の記事でも他ユーザから批判されている原因だと思います。
具体的にいえば、参考文献という資料として考えた場合、「ふるさと森山」の執筆者は誰で、その論説についてどのような評価を受けているものなのでしょうか?
もし、学会や歴史学の分野で一定の評価を受けているような論説でしたら、仮説を証明とするための根拠となりえますが…。
>文治二年閏七月二十二日源頼朝に任命され麻植保司として平康頼は京より三人の家人を伴い下向したが、家人の内の二人が平を名乗り一人が鶴田を名乗ったが、後に、平を名乗る家人の一人が木村(木邑)の祖神となり、平を名乗る家人の他の一人が田村(田室)の祖神となり、二つの祖神は二百メートル程離れて別々にあり、その本家は今もあります。
この事績について否定する気はありませんが、百科事典というwikipediaの特性上、学術的に記載しなければなりません。よって「ふるさと森山」に載っているから、ではなくて根拠となる「史料」をご明示ください。この場合の「史料」とは、同時代に書かれた文書や考古史料などになります。それがない場合は、「伝承」という扱いになります。
>二人の家人の平は誰であったのかは事情により歴史では伏せられることもあるものです。平を名乗っていても源平の戦いの落ち武者ではありません。
当然、そういう事例もあるでしょう。しかし、学問の世界では明白な根拠がなければ証明できないのです(歴史学に限らず)。その場合は「伝承」という扱いとなります。また、それらからあなたが考えたことは「推察」というものとなります。
>三種の神器の宝剣は源平の戦いで行方不明になって居りますが、木村本家には戦前まで反りのない刀が伝わっていた。伊勢神宮の宝剣も反りのない直刀だそうですね、宝剣だと言っている訳ではありませんが、そうでないとも言っていません。
これも伝承ですよね?現物がないなら証明しようがありません。証明できないことや根拠に基づかない推察は学問としての答えとはなりえません。wikipediaは百科事典であるため、学問的・学術的な見地からの記載を必要とします。
現物がないのでどうしようないことを承知で書かせていただくと、反りのない刀とは本当に「刀」だったのでしょうか?
片刃ではなく両刃の「剣」は鎌倉期にも作られており、反りがないものもあります。
また、江戸初期の新刀と呼ばれる刀は総じて反りが少なく、後には仕込み杖に使われるほど反りのない刀もありました。
つまり、反りがないことはそこまで特殊とは言えないと思います。
>あなた様を怒らせそうだから止めておきましょう。
怒っているわけではなく、議論しているのですが。。。
>源平の戦いで平頼盛は一族の都落ちには同行せず平頼盛の一族は生き延びた、その辺りに平康頼の家人の平の手がかりがあるのではないかと私も探しています
ロマンがありますね。このあたりについて学術的に証明ができたら面白いものです。ただ、学術的に証明ができるまでは百科事典にふさわしい記事ではないですね。学術的に証明ができたら記載してください。
以上です。--220.215.160.165 2009年11月3日 (火) 18:43 (UTC)[返信]

「ふるさと森山」の参考文献として、阿波誌・麻植郡郷土史・麻植郡誌・新偏美馬郡郷土誌・徳島県地名大辞典・鴨島町誌・貞光町誌・浦庄村史・森山小学校沿革史・森山校の百七年・姿なき阿波古城・旧高旧領取調帳・粟の抜穂・戦国三好一族・小少将・平康頼史跡概観・大正大研紀平康頼伝記・鴨島町の歴史豊文化財・読売新刊日本の歴史・学研社刊物語日本史・新人往社刊日本史総覧・万有百科日本歴史・新人往社刊歴史研究・阿波国人身売買史考・徳新刊徳島駅伝記念号・国書刊日本の石仏・徳島の石仏・日本常民生活絵引・岩波古語辞典、があり鴨島町森山公民館郷土研究会により五人の編集委員と三十人の協力委員により編集されたものです。ここ、鴨島町森藤は平康頼が三代にわたり過ごした土地です。平康頼の建てた建物等はあいにくと戦国時代に長宗我部の兵火で焼失しましたが、熊野神社、玉林寺、康頼神社などは後に再建されて残っております。 平康頼の家人の一人の平氏は承久の乱の後に田室氏を名乗り、更に後に田村氏に改姓しました。坂上田村麻呂氏とは関係のない事は言うまでもありません。戦国大名田村氏の何百年も以前のことになります。 坂上田村麻呂の田村氏であれば平氏より田村氏の方が格が上のような気がしますが、なぜ格下の平を名乗ったのでしょうか? 坂上田村麻呂が田村氏の唯一正統であるとのとの意見には同調出来ません。 --114.169.161.155 2009年11月8日 (日) 18:02 (UTC)[返信]


上記意見にインラインでコメント致します。何度も繰り返すようですが、最低限のマナーとして署名ルールを守りましょう。
>「ふるさと森山」の参考文献として、阿波誌・麻植郡郷土史・麻植郡誌・新偏美馬郡郷土誌・徳島県地名大辞典・鴨島町誌・貞光町誌・浦庄村史・森山小学校沿革史・森山校の百七年・姿なき阿波古城・旧高旧領取調帳・粟の抜穂・戦国三好一族・小少将・平康頼史跡概観・大正大研紀平康頼伝記・鴨島町の歴史豊文化財・読売新刊日本の歴史・学研社刊物語日本史・新人往社刊日本史総覧・万有百科日本歴史・新人往社刊歴史研究・阿波国人身売買史考・徳新刊徳島駅伝記念号・国書刊日本の石仏・徳島の石仏・日本常民生活絵引・岩波古語辞典、があり
それは「ふるさと森山」を書くにあたっての参考文献(資料)ですね。それらの参考文献もなんらかの史料(同時代の文書等)を基に書かれているはずです。で、その史料が何であるかを明確にしてほしいのです。もちろん「ふるさと森山」のすべての史料を列挙することは無理かつ無駄な作業となりますので必要ありません。あなたが記載したい内容に関して、この「史料」にこう書かれているからこうである、という記述をしてください(例えば、○○所蔵×年×月×日付の将軍御教書に△△の名前が見える」のように)。また、資料の見解を引用するなら「(執筆者の)誰々はこのような推察をしている」のような記述であるべきです。
>鴨島町森山公民館郷土研究会により五人の編集委員と三十人の協力委員により編集されたものです。
その中に歴史学の研究者(専門家)の方はいらっしゃるのでしょうか?
また、あなたが記載するために参考とした箇所を執筆したのは誰になるのでしょうか?
文献資料から引用する場合は、執筆者を明記していただきたいと思います。誰の論説かは学問として非常に重要ですから。
>ここ、鴨島町森藤は平康頼が三代にわたり過ごした土地です。平康頼の建てた建物等はあいにくと戦国時代に長宗我部の兵火で焼失しましたが、熊野神社、玉林寺、康頼神社などは後に再建されて残っております。
その伝承は何度も聞いており、もう十分です。伝承ではなく史実とするなら、それを裏付ける史料を明示してください。何度も言いますが、歴史学においては史料が第一です。
>平康頼の家人の一人の平氏は承久の乱の後に田室氏を名乗り、更に後に田村氏に改姓しました。坂上田村麻呂氏とは関係のない事は言うまでもありません。
否定する気はありません。そういう伝承があるお宅もあるでしょう。
そこまでこだわるなら別項目を立てて、それに記載すればいいのではないですか?
たとえば高知県の豪族だったといわれる田村氏は土佐田村氏として別項目が立てられています。もっとも、記載するの当たっては(ふるさと森山などの「資料」ではなく)歴史的な史料による裏付けや学説に基づいたものにすることが不可欠です。最低でも、これらによって裏付けられた史実と伝承を分けることは必要でしょう。そうでなければ単なる「おらが町の名家自慢」ですから…。
>戦国大名田村氏の何百年も以前のことになります。
名乗り始めたのが古くても何の証明にもなりません。
伝承による名乗り始めの古さより、わずかでも信頼できる史料があるほうが学術的には何倍も価値があります。
>坂上田村麻呂の田村氏であれば平氏より田村氏の方が格が上のような気がしますが、
何をもって平氏を坂上氏より格下としているのか理解できません。少し調べれば分かると思いますが、坂上氏は東漢氏の流れで渡来人の筋目となります。征夷大将軍こそ出しましたが、蕃族であったため姓(カバネ)も朝臣ではなく宿弥(あるいは大宿弥)だったりします。氏姓制度でいうところの格では皇胤である平氏のほうが上です。
>なぜ格下の平を名乗ったのでしょうか?
当該記事田村氏を読めばわかるはずです。読んでいらっしゃらないのでしょうか?
一応ご説明しますと、戦国大名田村氏の先祖とみられる国人領主が南北朝期に平氏を名乗った史料(広渡寺梵鐘など)があります。また、戦国大名となった田村義顕や田村清顕が「平義顕」「平清顕」のように自署した史料(大元帥明王社奉納の大般若経や仙台市博物館蔵の伊達氏宛田村清顕書状)もあります。ただ、実際のところ、平氏を名乗っていても系譜が明確なわけではなく、祖が誰であるかはわかりません(史料が残っていないため)。
もともと国人領主であった田村氏は勢力を拡大し、やがて田村郡全域の支配をするようになります。すると、それまで同輩であった国人領主やその配下の地侍といった人々を従わせねばなりません。そのため、自家が支配するのが妥当であるという根拠が必要になってくるのです。そこで、その支配の正統性を示すためにこの地に色濃く残る坂上田村麻呂伝承を利用したと考えられるのです。
田村氏の本貫地である田村郡(田村庄・小野保)には、坂上田村麻呂にまつわる伝承が多く、この地の英雄的存在であったため、その子孫であることは、この地においては権威であったのです。
以上から戦国大名田村氏は平氏を称しつつも、一方で家譜を坂上田村麻呂につなげていったと考えられます。
>坂上田村麻呂が田村氏の唯一正統であるとのとの意見には同調出来ません。
…記事や私のレスをちゃんと読んでますか?失礼ながら、少々読解力が不足していると言わざるを得ません。
「唯一正統」などどこにも書いてないですよ。あくまでも戦国大名田村氏の場合は田村郡という地域の文化的政治的な面から坂上氏に支配の正統性があると信じられてきた背景があるというだけです。家中や領民支配のために、その地域で尊いと考えれている氏族や源平藤橘に繋げるのは常套手段です。
まず、当該項目の戦国大名田村氏は上記にも書いたように、平氏を名乗りながらも地域の文化的あるいは政治的側面から権威付けのために坂上田村麻呂の後裔を仮冒したと考えられます。汎用的に坂上田村麻呂が田村氏の唯一の正統ということにはなりません。 
次に平康頼の家人系田村氏の正統性を否定したことはありません。単に該当項目田村氏ではふさわしくない記事だったことと史料に基づいた歴史学的証明ができていないことから、記載を直させていただいたりしているだけです。
そもそも大名権力における支配の正統性や文化論などではなく、氏族の格付けという意味で正統か否かを論じていることは不毛であり、また学術的ではありません。


全体を通してですが、根拠となる根本的な「史料」を明示してください。論文を書いたことがあれば、史料の出典がない記述がいかに無意味であるかが分かるはずです。
また、文章をしっかり読んでください。
以上です--220.215.160.165 2009年11月10日 (火) 20:17 (UTC)[返信]

「ふるさと森山」は郷土史で一般に市販されているものではありませんが、郷土について嘘の記述をする必要性はありません、郷土では信用されています。 あなたは歴史についてお詳しい方の様におもうけします。「ふるさと森山」を差し上げますのであなた自身の目で確認してもらえませんか?送り先をお教えください。FAX番号0883-24-4661(木村正明)

上記拝見いたしました。まず、インターネット上で簡単にFAX番号や個人の名前を明かすことは大変危険なことです。
架空請求や詐欺などに悪用される可能性もあります。例え削除しようともwikipediaでは改版履歴として残ってしまいます。
ネットの危険性をご理解の上、上記のような投稿はおやめください。これは一個人としてのアドバイスです。
では、インラインでコメントさせていただきます。
>郷土について嘘の記述をする必要性はありません、郷土では信用されています。
なぜそう言い切れるのですか?嘘だとは申しませんが、郷土愛から来る主観が交じる可能性もあります。
だからこそ、どの「史料」からどう判断できるという出典の明示が重要なのです。
歴史学の文献として信頼できるというなら、当然本文または脚注などで出典となる「史料」が明示されていることと思います。
私が何度もレスで「史料」を明示してくださいといっておりますが、そんなに難しいことではありません。信頼のおける文献ならば簡単にできるはずです。
逆にいえば、史料の明示のないものは、歴史学における文献とはいえず、いわゆる歴史読み物です。
>「ふるさと森山」を差し上げますのであなた自身の目で確認してもらえませんか?
申しわけありませんが、私の研究フィールド(といっても今は研究職ではありません)とは異なりますので、お受けできません。
また、自身が主張されていることを証明できないからといって、相手に証明を求めるのはちょっと身勝手ではないでしょうか。
ご自身が真実だと感じ、それを証明したいのであれば、歴史学の基礎を勉強し、また史料を集めるなどの努力をすべきではありませんか?
それができないようならwikipediaを編集すべきではないと思います。wikipediaはネット上で誰もが執筆できる百科事典です。有識者の加筆や修正によって、記事がより精度の高いものになることを念頭に置かれているわけで、自身が証明できないことを編集や加筆するのは適切ではありません。
以上です。--220.215.160.165 2009年11月12日 (木) 18:35 (UTC

歴史の資料に基ついているとしても点でしか残されていないと思われます、その点と点を結ぶのは推論に依るしかないと思われます。推論が間違っていれば矛盾が生じます。 異論があってもいいのではないでしょうか?その真偽の判断は読者に委ねてはどうでしょうか?平康頼が阿波国麻植保の保司であったのは吾妻鏡などにより紛れもない事実です。三代に渡り麻植保の保司であったのも徳島県史、麻植郡史、阿波史などに記載されその家人の子孫も存在し伝承や祭り等の行事にその痕跡は見られ、多くの遺跡などにより疑いを挟む余地はありません。異論があることを伝えたかっただけのことです。

上記拝見いたしました。何度も申し上げますが、署名のルールを守ってください。これは最低限のルールです。
以下、インラインでコメントします。
>歴史の資料に基ついているとしても点でしか残されていないと思われます、その点と点を結ぶのは推論に依るしかないと思われます。推論が間違っていれば矛盾が生じます。
はい、そのとおりです。史料はすべてのことを証明できるほど残ってはおりません。そのため、残る史料をもとに証明し、そこから推察していくというのが歴史学という学問です。なので、この点においては大筋間違っていないと思います。
ただ、私のいう推論がミクロ的なものであるのに対して、あなたのいう推論はマクロ的であると思います。理由は以下に譲ります。
>異論があってもいいのではないでしょうか?
はい、当然異論はあってしかるべきだと思います。学会においても複数の学説が対立していることは多々あります。
むしろ、定説といわれるものを覆すような学説を出せることは素晴らしいことです。
ただし、その場合も史料から証明できることをベースに考えていくことが必要になります。
「このような史料があり、このようなことが明らかとなっている。よって、○○と考えられる」というように三段論法ではありませんが、ある程度の根拠をもとに推論・推察をしていく必要があります。そうでなければ、単なる想像であり、そんなことは子供でもできますから。
>その真偽の判断は読者に委ねてはどうでしょうか?
読者は何をもって真偽を判断するのですか?ある程度の史料や根拠をもっている推論であれば、それは成り立ちます。
しかし後述するようにあなたの論説は何の根拠も示さずに伝承を以て疑いを差し挟む余地はないと結論づけています。それは読者に判断をゆだねているのではなく、あなたの主張を書いているだけではないですか。
>平康頼が阿波国麻植保の保司であったのは吾妻鏡などにより紛れもない事実です。三代に渡り麻植保の保司であったのも徳島県史、麻植郡史、阿波史などに記載され
私はこの点を否定したことはありません。吾妻鏡などの史料を引用していることからも、信頼性のある記事と考えています。
>その家人の子孫も存在し伝承や祭り等の行事にその痕跡は見られ、多くの遺跡などにより疑いを挟む余地はありません。
私が疑問を呈しているのはこの点です。史料に基づいて証明ができないことがらであり、また直接的に史料に現れずとも、数々の史料から導き出せるような考察、論説の類ではないため、客観的に観て信頼性に乏しいと感じます。
何度か過去にも書きましたが、なぜ「家人の子孫も存在」することが証拠となるのでしょうか?
それを証明できる物証は残っているのですか?子孫というだけでは学問的には何の価値もありません(民俗学的な見地や信仰といった文化面にはそれなりに意味があると思いますが)。
遺跡は考古学的な物証や史料的価値のある物証があり、それが歴史学的見地から家人の子孫と繋がるものなのですか?
「祭りなどから、このような伝承がある」という書き方であれば適切でしょう。
あなたの文章を観ていて一番問題があるのは、証明ができない伝承を以て「疑いを挟む余地はありません。」と結論づけている点です。伝承も無視はできませんが、証明できない限りはあくまで伝承に過ぎません。何をもって疑いを差し挟めないほどの結論を出しているのですか?


「平康頼が阿波国麻植保の保司であった」という史料から導き出される論説と、「その家人の子孫も存在し云々」の伝承の部分の切り分けがなぜできないのかが疑問です。伝承は伝承であると書けばいいんじゃないですか?それをさも事実であると書くから問題となってしまうのです。
以上です。--220.215.160.165 2009年11月15日 (日) 19:17 (UTC)[返信]

疑り深い人と言うべきか慎重な人と言うべきか?平康頼の三人の家人の子孫も墓も祖神も存在し、祖神の脇には何百年の松ノ木が事実を物語っている、と言ってもその松ノ木も松枯れで枯れてしまいましたが、誰からも異存を挟まれたことはありません。 伝承を超えて事実として伝えられております。先祖が何百年もの間伝えるものであり、多くの郷土史に記録が残るものであり疑いを挟む余地はありません。 レンズメーカーにタムロンと言う会社がありますが、創立社長の田村氏にちなんで社名をタムロンとしたそうです。なぜ、タムランではなくタムロンにしたのでしょうか、推測でしかないのですが、田村氏が元は田室氏を名乗っていたのを知っていたのではないでしょうか?田村氏の祖先に異論もあることを載せるべきだと思います。木邑


上記拝見しました。今まで穏やかに冷静に議論するように心がけてきましたが、今回は率直に申し上げます。
少々語気を荒げることがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
まず、いい加減にルールを守ってください。もう何度目になるでしょうか。
なぜフォーマットに則った署名ができないのですか?これはwikipediaに参加するうえでのルールです。
以下、インラインでコメントさせていただきます。
>疑り深い人と言うべきか慎重な人と言うべきか?
私が疑り深いのではなく、あなたに学問的に考える素養がないのでは。
私が述べてきたのは「証拠を積み上げて証明していく」という学問の基礎です。
歴史に限らず、高等教育以上を受けた方であればご理解いただけると思います。
>平康頼の三人の家人の子孫も墓も祖神も存在し、祖神の脇には何百年の松ノ木が事実を物語っている、と言ってもその松ノ木も松枯れで枯れてしまいましたが、誰からも異存を挟まれたことはありません。
誰からも?それは誰からも学術的に調査されていないだけでしょう。井の中の蛙もいいところです。
おそらくあなたのいう「誰」とは地域の人々ということでしょうが、皆伝承であるということで納得しているのではないですか?
もしくは学術的な調査がないために盲目的にそれを信じているか。
私は伝承という点では、それを否定しません。それは先祖から子孫に伝えられる尊重すべき文化ですから。
しかし、史実を追及する学問では通用しません。
>伝承を超えて事実として伝えられております。
極めて主観的です。
この文章は正確には「(あなたや地域の人の間では)伝承を超えて事実として(信じられている)」ということではないのですか。
事実とは何か?それは客観的に証明できる物事にほかなりません。
あなたはまず、「事実」という概念から勉強してはいかがですか。
>先祖が何百年もの間伝えるものであり、多くの郷土史に記録が残るものであり疑いを挟む余地はありません。
信仰や伝承としては尊重すべきものです。あなた方の先祖はそう信じ、そう伝えてきたのですから、
その思いを次世代に伝えていくことは大切でしょう。
しかし、学問としては「疑いを差し挟む余地はない」という態度自体がナンセンスであり、そう考えた時点で学問ではなく、
それは信仰です。
そもそも学問とは「疑う」ことそのものでしょう。これは数学であれ、歴史学であれ、学問共通の本質だと思います。
>レンズメーカーにタムロンと言う会社がありますが、創立社長の田村氏にちなんで社名をタムロンとしたそうです。なぜ、タムランではなくタムロンにしたのでしょうか、推測でしかないのですが、田村氏が元は田室氏を名乗っていたのを知っていたのではないでしょうか?
また推論ですか。これまで学問云々で述べてきましたので別の切り口から述べましょう。
あなたはWikipedia:五本の柱をお読みになったことがお有りですか?
これはWikipediaのルールと方向性を書いたもので、これに同意できない場合はWikipediaに編集等で参加すべきではありません。
さて、あなたのご意見はどうでしょうか。
あなたの推論に基づいた説はWikipedia:独自研究は載せないで触れられている個人の意見ではないですか?
あなたが主張しているのはWikipedia:独自研究は載せないで触れられている「信頼できる資料」に該当する資料が明記されていないのではないですか?
Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性に該当する根拠を挙げることができていないと思いますがどうですか?
Wikipediaは百科事典であり、学術的な裏付けのあるものを掲載することになっています。あなたはネット掲示板かなにかと思い違いをなされていませんか。これらのルールを読んでいればこのような主張はできないはずです。
もっとも署名のルールさえも読んでないようですので、これらも読んでいないのでしょうね。
建設的な議論ができずに延々と自説を述べるのは荒らし行為にほとんど近いと思います。
>田村氏の祖先に異論もあることを載せるべきだと思います。
まだご理解できていないのですね。該当項目の田村氏はあなたの述べる平康頼の家人系田村氏とは別系です。
なぜ満足な学説も出ていない、満足な史料もない平康頼の家人系田村氏を以て、該当項目の戦国大名田村氏の出自に異論があることを載せなければならないのですか?


あなたはまずはWikipediaのルールを理解するところから始めてください。
次にルールにあるように、信頼できる学術誌や論文、1次史料(古文書等)などの根拠を集め、出典を明記してから
議論や編集に及んでください。
正直に申します。あなたの論説ほど説得力のないものはありません。
少々勉強が足りないと思います。
以上です。--220.215.160.165 2009年11月16日 (月) 19:18 (UTC)[返信]

これでは何処まで行っても平行線のままでしょう、戦国大名についてだけ述べるのであれば冒頭でことわるべきでしょう。ただ田村氏とだけ書けば総ての田村氏だと勘違いをおこします。大きな矛盾を含んだままで何処の地方で支持をされていることなのでしょう。少なくとも徳島では支持をされないでしょう。 いろんな説を唱える人もいるけれども誰も疑問には答えてはくれなかった。「ふるさと森山」の康頼について総てを裏付ける資料は無いけれども十分に信頼に値する歴史研究で事実だと信じると評価する人もいます。木邑

上記拝見しました。
まず上記を読んでの率直な意見を申します。
あなたはwikipediaがどういうところであるかを確認する気はないのですか?
署名のルールにしても、記事の方向性にしてもwikipediaの運用ルールが決められています。
それは前回のレスでも書きましたWikipedia:五本の柱等に記されております。
記事の内容以前にルールを守れずに、また方向性に同調できない(あるいは理解できないのでしょうか?)あなたは
編集すべき立場ではありません。どうしてルールや方向性に同調できない場で場違いな主張をされているのですか?
それは荒らし行為に他なりません、場の秩序を乱しているわけですから。
ご返答いただける際はまずこの点に答えてください。
以下は学術的な面からのコメントです。例によってインラインでコメントいたします。
>戦国大名についてだけ述べるのであれば冒頭でことわるべきでしょう。
ちゃんと記事を読んでますか?というよりは読んでいない(理解できていない)のでしょうね。
記事の見出しは「田村氏」ですが、記事冒頭にて「田村氏(たむらし)は陸奥国の田村郡を支配していた戦国大名。」と
書いてあります。そしてそれ以下の記事は「戦国大名田村氏」について書かれたものです。
あなたが以前編集して自説を追記したのはこの戦国大名だった田村氏の記事中なのです。
この記事のどこに、あなたが主張する平康頼の家人系田村氏について載せる必然性があるのですか?
>ただ田村氏とだけ書けば総ての田村氏だと勘違いをおこします。
wikipediaの記事中で結構ですので他の大名家であった氏族の記事を確認してみてください。
大名家であったような氏族ではその著名さから単に「○○氏」のような見出しとなっています。
大名家、特に近世も大名として存続したような家であれば、その著名度や社会や歴史への影響度から
単に「○○氏」としてもおかしくはありません。別系は別記事となっていたりします。
該当記事の田村氏は戦国大名であり、また近世も大名として続き、明治以後は華族となっています。
単に田村氏としてもおかしい記事ではありません。むしろ百科事典としては当然でしょう。
あなたがいかにWikipediaを理解しないまま編集しているかが表れていますよ。
>大きな矛盾を含んだままで何処の地方で支持をされていることなのでしょう。少なくとも徳島では支持をされないでしょう。
少々きつい言い方かもしれませんが、徳島で支持をされないことは問題ではありません。
問題なのは歴史学という学問での位置づけであって、その学問の世界で支持を受けていることが重要です。
wikipediaは百科事典であり、その方針にもそのように書かれています。(一度ぐらい読んだらいかがですか?)
さらにいえば、徳島県民には支持をされないという統計でも御有りですか?
これは「徳島」では支持されないのではなくて、「あなた」が支持しないのではないですか??
あなたの問題点は自身の意見を、全体の意見であるというように言ってしまうことだと思います。
>いろんな説を唱える人もいるけれども誰も疑問には答えてはくれなかった。
だからといってWikipediaで1次史料も明確にできない、学会のコンセンサスを得られているわけでもない
本の記載をもとに自説を展開していいわけではありません。
>「ふるさと森山」の康頼について総てを裏付ける資料は無いけれども十分に信頼に値する歴史研究で事実だと信じると評価する人もいます。
「事実だと信じる」「評価する人もいます」・・・個人がどう信じようと感じようと勝手です。個人の思想の自由を制限する権利は私にはありませんので。
少なくとも言えることはWikipediaの方針に従い、記事にはできない、適さないということです。
ここまでの要点をまとめると
  1. あなたはwikipediaのフォーマットやルールに従っていないこと。
  2. 百科事典であるwikipediaの方針に則った、根拠のある学説ではなく自身の推論(想像)をもとにした独自研究であること。
残念ながらあなたは学問の基礎が理解できておらず、論理的ではありません。(証明することが理解できないのでしょうか)
また文章を読解する力が不足していると思います。(もしくは読む気がないのでしょうか)
事実と伝承の違いがわからず、主観的な目でしか見れていないようです。
さらにルールを理解できないのか、守る気がないのか、荒らしのような行為を続けています。
今度コメントをいただけるのでしたら、これらの点に回答していただけることを期待してます。
以上です。--220.215.160.165 2009年11月17日 (火) 19:20 (UTC)[返信]