利用者‐会話:貞辰美誌
著作権に関するお願い
[編集]こんにちは。JapaneseA(会話)です。貞辰美誌さんが有川矢九郎、ノート:有川矢九郎に投稿された内容([1]よりの転載に見えます)を見てお願いに参りました。投稿ボタンの上部にも「著作権を侵害する記述は削除されます。」とありましたように、ウィキペディアには著作権に関するルールがあります。もし外部の文章をウィキペディアで利用したいなら、その文章の著作権者自身にウィキペディアへの投稿を呼びかけるか、承認を得た上で、Wikipedia:自著作物の持ち込みに従って、きちんと手続きを踏まねばなりません。その手続きを踏まずに投稿ボタンを押すと著作権侵害ということになり、Wikipedia:削除の方針またはWikipedia:即時削除の方針に基づいて記事を削除しなければならなくなります。語尾を置き換えただけの文章を使ったり、「参考文献として使ったが、結果として似通った文章になってしまった」場合も同様です。多くの方に迷惑がかかることになりますので、どうかくれぐれも、このようなことがないようにお願いいたします。--JapaneseA(会話) 2017年9月6日 (水) 09:31 (UTC)
[1]デジタル版日本人名大辞典+Plus『講談社 編』を指してのご指摘だと思われますが、講談社の編纂時に於いて当家の資料を参照しているものと推察しております。
当家の墓所【鹿児島市冷水町 興国寺墓地】に有川家累代の墓所(間口7間、奥行2間の14坪)が有り、そこに、有川矢九郎の墓碑も建立しております。そこに記載されていることを参照されたものと推察をしております。
速やかにご自身で確認の上、御疑念がなければ、ご指摘を取りさげてください。
ご指摘の、著作権侵害には該当しない旨を強く、申し出ます。
_ _貞辰美誌(会話) 2017年9月10日 (日) 03:38 (UTC)
有川矢九郎の出典について
[編集]はじめまして。有川矢九郎の記事において、「有川家累代の家継圖」なる文献を元にした記載をされておりますが、これは公刊されるかもしくは図書館等に所蔵されて第三者が閲覧可能な文書でしょうか。ウィキペディアでは検証可能で信頼できる情報源に基づいて記事を編集することが求められています。個人的な蔵書で誰でも閲覧できない文書は、出典として利用できません。また、仮にこの文書が誰でも閲覧可能であったとしても、「そこに記載された誕生日が正しい」という記述は、専門家などが信頼できる情報源に記載しない限りウィキペディアでは書いてはいけません。これはWikipedia:独自研究は載せないという決まりがあるためです。文献の情報について回答いただきますよう、お願いいたします。--Unamu(会話) 2017年9月6日 (水) 12:12 (UTC)
有川矢九郎の出典については、 様々な書籍でも確認ができますが、 鹿児島大学図書館の古里文庫の中に「貴重書として、諸家文書の中に伊勢家文書」が695点保存されております。 ホーム > コレクション > 諸家文書 - 伊勢家文書目録No.5(1)(所蔵資料リスト) №5 文書番号17 に、有川家由緒書が保存されております。 また、鹿児島大学法文学部五味教授が寄稿した、鹿大史学及び鹿児島女子短期大学の紀要等にも記載があります。 ご指摘をされた方は、上記記載内容を直接確認してくださるよう、お願いいたします。 御疑念が解消されたら、指摘事項を取りさげてください。
_ _貞辰美誌(会話) 2017年9月10日 (日) 03:35 (UTC)
ご指摘をありがとうございます。
[編集]此の「有川矢九郎」をウキペディアに寄稿したのは、小生です。 小生は、有川矢九郎の兄の有川十右衛門の玄孫にあたります。
ご指摘 [1] について、 矢九郎は、十右衛門の弟で、父親の貞馨の弟にあたる「貞幹」の継目養子となっています。 これらは、小生が祖父から遺された「有川家累代の家継図」に記載をされた内容を寄稿しました。 矢九郎の生年月日も多くのウェブサイト等では「天保2年9月14日に誕生。」となっていますが、 有川家累代の家継圖によると、文政12年(1829年)己丑(つちのと うし)9月14日生まれとなっており、 享年78歳から数えると、文政12年生まれが正しいと思っております。 グレゴリオ暦1829年10月11日生まれ。 始 二之介、後 矢九郎。 実名は、貞實(さだみ)。 明治41年10月3日死去。享年78歳。
鹿児島大学図書館の古里文庫の中に「貴重書として、伊勢家文書」が多数、保存されております。 その中にも、有川家の由来を含めて、保存されております。 鹿児島大学法文学部五味教授が寄稿した、鹿大史学及び鹿児島女子短期大学の紀要等にも記載があります。
なお、小生は有川家の祭祀を引く継ぐ本家の当主で有り、有川家に関する著作権を有しております。
ご指摘 [2] について、 梅ヶ淵不動堂についての、ウェブサイトのことを指摘されているのだと思いますが、 この中に出てくる『薩摩藩士 有川矢九郎』のページに出てきた、「ご婦人と息子さん」とは、 矢九郎の二男である「熊次郎」の二男「宏」の二男「公秀」の奥様と、その長男「周治」さんの ことだと承知をしており、小生は史実を寄稿させていただきました。 _ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
- あなたはJapaneseAさんの質問にきちんと答えていらっしゃいませんね。尋ねられているのは、「梅ヶ淵不動堂についてのウェブサイトはあなたが管理者として作成したものですか?」ということです。もしそうならば、「これは自分のウェブサイトに発表した文章を転記したもので、他人の著作権を侵害していませんよ」ということを示してくださいということです。逆に、そのウェブサイトをあなたが作ったものではない(たとえよく知っている友人であってもです)のであれば、それをウィキペディアに丸写しすることは、著作権の侵害として認められません。その場合は、権利侵害のある過去の版をウィキペディアには残しておけませんので、該当する過去の版について削除をしなくてはならなくなります。梅ヶ淵不動堂のウェブサイトはあなたが作ったものか、そうではないのか、まずそれを教えてください。
- あと、アーネスト・サトウの日記に有川の名前が出てくるというのであれば、具体的に原典に当たってそのページを示すようにしてください。そのことが確認できない書籍紹介サイトのリンクを貼っても出典を明記したことにはなりません。よろしくお願いします。--Unamu(会話) 2017年9月7日 (木) 13:24 (UTC)
再度のご指摘ありがとうございます。 「梅ヶ淵不動堂」のサイト管理者は、当家の古文書並びに貴重書等をお調べになり、作成をされたものだと推察をいたしておりますが、小生は「梅ヶ淵不動堂」のウェブサイトを参照として寄稿したのではありません。 伊敷不動堂(現在の梅ヶ淵不動堂)に関する記述は、(公益社団法人西郷南洲顕彰会発行 『敬天愛人』 第10号特別号、P286~298頁から引用) 『有川矢九郎君伊敷村の別墅は、もと官地たり。君さきに官に請ひ、以てその地を得、亭を作る。その中に林木の饒、泉石の勝有り。君困りて官に報いる所以のものを思ふ。たまたま郷に河有り。河の上流別墅を距つること北半里と聞く。曰く・・・』 このくだりが、伊敷不動堂(現在の梅ヶ淵不動堂)です。 「これこそ私の報恩の志に適うものだ!」と言い、そこで身銭を切って二百円をなげうち、村民から人夫を募集し、あらためて溝を石で造りなおした。村民達はよろこんで労役に従事したのである。程なく工事は終わった。造りは頑丈で、二度と洪水になることはなかった。村民達は互いに野良で手をたたいて喜び合い「これから先、五穀豊穣だ。みんな有川さんのお陰だ。」と言いはしゃいだものである。この工事は、戸長(村長)東郷宗次郎君が実際に監督した。それで東郷君が記念碑を立てたのであるが、東郷君は私に碑文を頼み、そして経緯(いきさつ)を記そうとした。一体、施しは美徳である。然し、よい施しはやたらにしないものである。だから、善い施しの恵みは一時的なものでなく、永遠に続き得るものである。この度、有川君は国の為に資金を提供してこの工事を行った。村民はこれまでの労費負担を免かれ、田畑の災害もなくなったのである。その恩恵は何で尽きることがあろうか、尽きることはない。そこで有川君の為にこの文を記して石に刻み、そうして後世に残し、村民に同君の恩徳を忘れさせないようにしたのである。 明治七年甲戊九月下旬西郷隆盛書 (今村宏撰) ここから、梅ヶ淵不動堂のウェブサイト管理者がブログとして、投稿されたものだと推察いたしております。
また、その他の文献について、詳細を確認されたい場合には、 ご自身で、鹿児島大学図書館古里文庫貴重書の中の「伊勢貞昌」関係の貴重書を直接確認をされてください。 学術研究目的の場合にのみ、閲覧等が許可されますので、所属される大学の教授の推薦状等を添えて、閲覧の申出をされてください。
「慶応元年(1865年)11月12日(陰暦9月24日)シーボルトとアーネスロ・サトウのふたりが薩摩藩の汽船胡蝶丸をたずねた。船長は有川弥九郎(矢九郎)という男で・・・」 荻原延寿『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3』 朝日新聞出版<朝日文庫>。『英国策論』、 P119から引用)
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
「同年の4月以降、小松帯刀や坂本龍馬が藩船胡蝶丸にて、大阪から鹿児島を行き来している」 公益社団法人西郷南洲顕彰会発行 『詳説 西郷隆盛年譜』 26~28頁から引用)
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
JapaneseAさんへ
上記に記載の通り、小生は「梅ヶ淵不動堂」のウェブサイトを参照として寄稿したのではありません。
伊敷不動堂(現在の梅ヶ淵不動堂)に関する記述は、公益社団法人西郷南洲顕彰会発行の「敬天愛人」第10号特別号 P286~P289にも詳細に記載をされており、ここから参照してウェブサイトに投稿されたものだと推察をいたしております。
ウェブサイト管理者は、当家の知的所有権である『有川矢九郎頌徳碑』漢文の現在口語訳を参照されての投稿記事であると推察いたしております。
小生の投稿記事は、公益社団法人 西郷南洲顕彰会』、 『敬天愛人 第10号特別号』、286~289頁から引用)
ご理解いただけたら、削除依頼を取り下げてください。
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
- 繰り返しますが、私の指摘は梅ヶ渕不動堂保存会 公式ブログよりの転載だという事です。「藩の命を受け~」の一文は偶然で一致する事などありえません。「西郷南洲顕彰会発行の「敬天愛人」第10号特別号 P286~P289」に全く同じ文章が存在するのでしょうか?で、あれば西郷南洲顕彰会に転載を許可してもらってください。そうでなければ「梅ヶ渕不動堂保存会 公式ブログ」のブログ主に著作権があります。著作権とは内容ではなく、表現にあります。--JapaneseA(会話) 2017年9月10日 (日) 11:07 (UTC)
再度のご指摘、ありがとうございます。 以下の内容を回答させていただきます。
→ 「藩の命を受けて・・・」とは、西郷吉之助(隆盛)が最初に大島に流されたのは、文政6年(1859年)正月であり、幕吏に追われていた勤王僧月照と錦江湾で入水自殺をはかった西郷は奇跡的に助かったものの、薩藩は幕府対策から大島に潜居させることにしたのである。 文久二年(1862年)二月に帰国したが、藩主の久光公の怒りに触れて、再び大島に流刑となっている。 元治元年(1864年)2月22日の昼過ぎに薩藩の汽船胡蝶丸が、西郷を和泊港まで迎えに来た。 このように、当時の薩藩の命を受けて、有川矢九郎は、胡蝶丸や三邦丸船長として、送り迎えを行っていた。
(南日本新聞社編 『鹿児島百年(上)幕末編』、 南日本新聞社明治百年記念出版、 兼光社、 昭和43年1月10日発行 114~123頁から参照) _ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
「鹿児島は薩摩海軍の名にそむかず、蒸気船に関しては日本で指折りの先進国であった。最もなじみの深いのが「三邦丸」で、西郷や大久保の伝記に必ずこの“脇役”が顔を出す。大正末まで活躍した“栄光の船”だ。」
「三邦丸は文久二年(1862年)イギリスで建造されたもので長さ186フィート、幅25フィート、2本マスト、2本エントツ、725トン。慶応元年(1865年)薩藩がこれを購入した時は「さすがは七十万石のお国柄」と評判になったほどの新鋭船であった。その後、薩藩は翔鳳丸、豊瑞丸などイギリスから買い入れたが、三邦丸の性能には遠く及ばなかったという。」
「維新前夜、西郷、大久保を京に送り迎えしたのも、島津忠義以下御親兵精鋭を運んだのもこの三邦丸である。」
「三邦丸は維新後公役を解かれて鹿児島-長崎・下関・大阪間の貨客航路に従事していたが、・・・(以下中略)」
(南日本新聞社編 『鹿児島百年(中)明治編』、 南日本新聞社明治百年記念出版、 兼光社 昭和42年11月8日発行、 421頁から引用) _ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
また、「西郷南洲顕彰会発行の「敬天愛人」第10号特別号 P286~P289」に記載されている内容は、当家が所有していた「有川矢九郎頌徳碑」を有川矢九郎の曾孫が、串木野市(現在の、いちき串木野市)港町の旅荘中庭から移設寄贈したもので所有権は譲渡していますが、知的著作権は放棄してはおりませんので、西郷南洲顕彰会の許諾を得る必要はないものと考えています。
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
- アーネスト・サトウの日記に関してですが、「書籍を購入されて、確認ください」という言い方はウィキペディアでは許されません。なぜなら、「記事の出典を示す責任は、記事にその内容を執筆した編集者にある」からです。あなたが手元に出典書籍を持っていてページ数までわかっているなら、記事の中に脚注の形で出典として明示してください。他人任せ、読者任せにする態度はウィキペディアのコミュニティでは歓迎されないものとご認識願います。--Unamu(会話) 2017年9月10日 (日) 13:26 (UTC)
上記並びに下記に、引用参考文献からの出典である旨を証明いたしましたので、その旨を回答させていただきます。
「艦にもどってみると、薩摩藩の汽船胡蝶丸の船長と部下数名がきていた。そのうちのひとりは、わたしが鹿児島にいったことをおぼえていた。」 「かれらは酒と煙草をたっぷりたのしんでから、やっと古紙をあげた。そして、わたしを招くために、明日迎えの小舟を寄こすと約束してかえっていった。」 ちなみに、この四日前の日付で、当時大阪に来ていた西郷吉之助(隆盛)は、京都にいる大久保一蔵(利通)にあてて、つぎのように書いている。 「愈昨日(9月16日付)夷船来着、早く情実を得申すべき含みにて、百方手を尽くし候処、未だ細事相分かり申さず、今朝小蝶丸乗頭へ相達し、異船へ乗り込ませ、動静相伺わせ候様相達し候(下略)。」(慶応元年9月17日付、西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』第二巻) こうしてみると胡蝶丸乗り組みの薩摩藩士は、西郷の指示を受け四カ国の代表の「動静」をさぐるべく、プリンセス・ロイヤル号をたずねたらしいが、かれらとサトウのあいだでなにが話し合われたかは、わかっていない。
「十一月十二日(陰暦九月二十四日)今朝シーボルトとふたりで薩摩藩の汽船胡蝶丸をたずねた。船長は有川弥九郎(矢九郎)という男で、非常に愛想がよかった。これから大阪へ出かけるところだといい、わたしを脇へ呼んで、・・・」
(荻原延壽、 『英国策論 遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3』、朝日新聞出版、 <朝日文庫>、 2007年11月30日 第1刷発行 2011年7月10日 第3刷発行 101~102、119~120頁から引用)
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
「珍しい邂逅だったが、私たちの兵庫滞在中に、やはり同港に一隻の薩摩船が碇泊していて、ある日、その船長の有川弥九郎が数名の部下を連れて旗艦にやってきたのである。彼らの中の一人は私に会ったことを覚えていたので、すぐ兄弟のように親しくなった。彼らは、たらふく酒を飲み、喫煙したあとで、陸上で一緒に日本式の晩飯を食べたいから明日迎えの舟をよこすと、私に約束して帰った、だが、彼らはこの約束を忘れてしまった。大坂へいってきた翌日、シーボルトと私が有川の船へ行ってみると、ちょうど抜錨しようとするところであった。有川は、われわれを見て大いに喜び「オンナゴチソー」の約束を果たせなかったことをくどくど話したのち、馳走の支度のしてある船室へ案内した。大君の役人たちの「愛想のない」のに比べると、大いに気持ちがよかった。私が鹿児島や琉球へ行きたいと言えば、喜んで私を渡航させてくれそうだった。私たちは生卵を食べ、酒を飲みながら、しばらく船上で歓談に時をすごした。たしか、私はここで初めて川村に会ったと思う。
数日してこの船が再び戻ってきた時、私はまた出かけていって、もっとおもしろい人物と知り合った。小さいが炯々とした黒い目玉の、たくましい大男が寝台の上に横になっていた。この男の名前は、島津左仲というのだと、おしえられた。私はその男の片腕に刀傷があるのに気がついた。それから幾月もたってから、私再びはこの男に会ったが、その時には本名の西郷吉之助を名のっていた。西郷のことは、後章でもっと述べなくてはならない。」
(アーネスト・サトウ 訳者 坂田精一 『一外交官の見た明治維新(上)』、 全2巻、 岩波書店 <岩波文庫> 1960年9月25日 第1刷発行 2014年7月15日 第75刷発行 184~185から引用)
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
全く話が通じていないようですが、著作権は表現にあります。「著作権 表現」でWEB検索してから再度コメントしてください。--JapaneseA(会話) 2017年9月11日 (月) 03:11 (UTC)
「投稿者が自分の意識の中で思いついたこと【内心】や伝聞等を表現した際に、その表現が結果として他人の表現と偶然似た表現になっていること【表現物】もあるでしょう。
今回のJapaneseAさんからのご指摘では、小生の投稿内容が、他のウェブサイトに記載されている表記を真似して表現しているように感じられてのことかと推察をします。
だからと言って、たまたまウェブサイトへの投稿記事の表現と似ているからと言って、小生が投稿した内容の表現の自由が制限されるということは許されないことだと考えます。
今日の民主主義社会の中では、このような指摘がされることのないように注意しなければならないことも重要なことだと認識をしております。
現在の社会において、我々は著作権法の保護主義の論点に十分なる注意を払い、ネット社会の在り方等も議論されることが必要であり、インターネットの世界では重要な意味を持っていると考えています。
憲法21条1項の表現の自由で保障されている『表現』とは、【人の内心における精神作用を、方法の如何を問わず、外部に公表する精神活動の自由】を意味しているとされ、これは、思想・信条の発表だけでなく、【思想・信条・意見・知識・事実・感情など個人の精神活動にかかわる一切のものの伝達に関する活動】を意味すると解されています。
刑罰法規に触れる可能性のある表現ですら表現の自由の問題になり得ると考えるならば、極論ではありますが、他人の著作権を侵害する【表現】も当然に表現の自由の問題となり得るはずです。」
「著作権行使の際には、人格的利益を満足させようという考慮が働くのは当然でしょうし、逆に言えば、著作者人格権の行使もまた財産的利益に左右されることも十分考えられると思料されますので、双方には保護利益の点である程度の交錯が認められ、著作財産権は、財産的利益しか有さず、著作者人格権は人格的利益しか有していないとは言えないと考えられています。」 「同一性保持権は、【著作物及びその題号】について第三者が著作者の意に反して勝手に変更し、削除その他の改変をすることを禁止する権利(著作権法20条1項)であると言われています。 これらは、全一性維持権、原状維持権とも言われています。」
「同一性保持権侵害の要件は、著作者の【意に反して】ということと【改変】することとされています。 【意に反して】とは、表現内容を素直に解釈すれば、著作者の主観的意図に反する改変を保護していることとされています。 つまり、著作者の純主観的な好みや感情が如何なるものであっても、それに反する場合は【意に反する】とも解釈できるとされています。」 「前記に対して、精神的・人格的利益を害しないときは侵害とはならないとする説や、【意に反して】という表記の意味を客観的に捉え著作物が名誉心や自尊心であるとする説や、その分野の著作者から見て常識的に判断する説等、解釈には異論等もあります。」
「つまり、著作権は経済的利益を確保させるための財産権ですから、表現の自由は財産権の保護とのバランスを考えて慎重に扱われるべき自由であるということです。」 「JapaneseAさんのご指摘が、小生の投稿記事が不当な利用行為やタダ乗り行為だと言うことであれば、不法行為になる可能性があるといえますが、今回の投稿記事に関しては、ご指摘の内容には該当しないものと考えております。」
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
「著作権者の権利を守るということは、類似するのではと思われる別の誰かの自由を制限する結果にもなるわけですから、判断は難しいものと考えます。」
「経済的利害が関係しない日常的な表現内容・類似した表現等を含み、杓子定規な法律論や法律解釈を求められても、小生は法文学者ではない為、意に沿うことは出来ない旨を回答させていただきます。」
「今回の文面は、立命館大学・法学専攻 西森菜津美氏の『表現の自由と著作権』を引用させていただきました。」
_ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 23:06 (UTC)
- 要約すると、たまたま似た表現になった、でしょうか?ありえないでしょう。客観的に見て、そういう偶然の一致があると思いますか?仮に偶然そのような事になったとしても「語尾を置き換えただけの文章を使ったり、「参考文献として使ったが、結果として似通った文章になってしまった」場合も同様です。」と著作権に関する定型文で案内した通りです。ケースBでの削除(不可視化)は、貴方を法的リスクから守るために行っているのです。それを御忘れなく。なお、今後もこのような「偶然の一致」を行うのであれば、貴方を法的リスクから守る事を最優先するための処置を行う事になるでしょう。--JapaneseA(会話) 2017年9月11日 (月) 22:03 (UTC)
適切な引用の方法について
[編集]アーネスト・サトウの日記を始め、出典をお示しいただいたことにはお礼申し上げます。しかし、出典文献名と収録箇所を記載したからといって、文章をそのまま写してよいわけではありません。適切な引用と認められるためには、「主従関係において引用部分が従であること」「引用箇所がカギ括弧その他の記載によって、明確に区分されていること」が必要です。あなたの加筆はそれらを満たしていませんので修正させていただきました。適切な引用の記載方法はWikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針をご一読ください。アーネスト・サトウは没後一世紀以上経ちますが、訳文を作られた萩原氏の著作権はまだ保護期間内です。また、英数字は1バイトで記載するのがウィキペディアの決まり事です。こちらについてはWikipedia:表記ガイドをご覧下さい。--Unamu(会話) 2017年9月12日 (火) 15:04 (UTC)
ご指摘をありがとうございます。 出典文献からの引用箇所については、カギ括弧(「」)で、表紙するよう徹底をいたします。 また、英数字は、(1バイト)で記載するのが、ウィキペディアのルールとのことですので、そのように改めさせていただき、再度、寄稿させていただきますので、お手数でも不適切な箇所がありましたら、再度ご教示いただけますようお願いいたします。
_ _ _ _投稿者name _ _ _ _貞辰美誌(会話) 2017年9月12日 (火) 22:18 (UTC)