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利用者‐会話:榊田雪斎

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榊田雪斎(さかきだせっさい)1967年-日本の陶芸家・陶磁学者 [所属:東洋陶磁学会]  2004年に天正時代に日本で発明されたとされる引出黒技法の技術転移によって、中国宋代に存在したとされる未発見の器「毫変盞」と思わしき器を、技術的再現によって世界で初めて発表した。


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―「水による急冷の技法「引出黒・天正黒」これは天正時代、今から約500年前に、日本で発明をされた技法として瀬戸・楽などに伝承をされてきたものでありますが、私の焼成結果から申し上げれば、それより遡ること300年前つまり今から800年前に、中国宋代の建窯において、目的の違いはあったにせよ、水冷の技法は確立していたと申し上げねばなりません。」―

東洋陶磁学会の榊田雪斎が月刊「陶遊」2005年1月61号誌上において発表した論文からの抜粋である。ここには我が国のみならず、世界陶磁史の通説を覆す実験結果が記されている。 話はまず500年前の天正時代に遡る。茶道の祖千利休が当時国内各地の窯元に天目茶碗、ことに曜変天目(現在は国宝)を焼かせようと試みたことは史上周知の通りである。しかし当時の我が国の焼成技術ではこれを焼成することは不可能であった。利休はこの時、世界的な陶芸の常識であった焼成窯の巨大・長大化を、逆転の発想をもって極小化させ、更には異業者であった後の楽長次郎に器を焼かせた。これが現在の楽窯の完成である。通常焼き物は焼成を終えると1300度にも達した窯内部の温度を数日から場合によっては一週間もかけて徐々に冷却(徐冷)をしていく訳であるが、利休と長次郎はこの際、黄金色ともいえるマグマのように焼けた1300度の灼熱の窯の中から器を取り出し、桶の水で急水冷をするという(現在では「引出黒」といわれる)驚天動地な技法を発明し、現在の楽焼が完成したのである。これは当時の世界的な技術水準から考えても又、現在の世界基準から考えても、利休と長次郎の豊かな類稀なる才能と卓越した科学技術者としての技術水準の高さを垣間見ることが出来る。以後500年を経た現在まで、世界の陶磁史は利休を最後に技術的な革新とも言える変化をする事無く、今日に至る訳である。日本が世界に誇る、千利休と楽長次郎、この二人の功績は計り知れない文化的意義を持っている。 では雪斎は果たして何を言わんとし何を成したのか? 話は更に遡ること800年前の中国宋時代、毫変盞という幻の天目茶碗が存在した。現在世界にその遺品は存在せず、当時の史的記述書「茶録」蔡君謨著に「毫変盞その価は甚だ高く且つ得ることが難しい」としてその存在が僅かに記録されているのみである。日本では国宝指定を受け時価換算16億円とも言われ、数百年の間人々を魅了して止まない曜変天目・油滴天目、この上更に高級な、当時皇帝とその近習のみに許されたと思わしき毫変盞とはいかなる器であったのか? 類例のないものについての研究は不可能である。これは考古学の定理であり、無理ならざる学問の現実なのかもしれない。しかしこれは技術的類例、「技術転移」という研究技法によって類例なきものについての研究を可能にする。 雪斎が成したのはまさにこの「技術転移」による技術的類例の完成であると言える。 雪斎は800年前確かに存在したと記述される毫変盞の復元にあたって、500年前天正時代に日本で考案されたとされる「引出黒」の技法を用いて世界の陶磁史上現存せず、天目釉(黒釉)のいかなる分類にも属さない器を作り上げたのである。雪斎はこの「技術転移」によってこれこそが幻といわれる毫変盞ではないかとの技術的結論に至った。ここまでは誠に喜ばしい研究の成果であると誰もが歓迎する話であったのである。しかしそれは一方で引出黒と言われる急水冷の技法は日本が発祥の地ではなく、少なくとも中国宋代には既に存在したという世界の陶磁史を塗り替え、特に日本の陶磁史には歓迎されざる現実を突きつけるという皮肉な結果を招いてしまったのである。 急水冷の技法「引出黒」は日本発祥の日本独自の伝統技法でなければならないということなのだろうか?いずれにせよ様々なジレンマによって発表から2年を経て現在も、論議は続いている。某局の記者が取材のためにこの毫変盞についての見解を自局関係の陶磁学者、考古学者に尋ねたところ、「類例がない、権威付けが出来ない」という理由で発表できなかった程で、2001年発表の、中国古陶瓷研究会名誉会長・葉文程、福建省博物館陳列部主任.林忠幹の共同著書、「建窯瓷」(日本では二玄社刊行)の発表以来5年を経て未だに日本国内の専門家もその存在すら知らない者が多い。(敬称略)

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