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利用者‐会話:松健産婆

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ノート乃木希典で

松健産婆氏の提示した記事の反論

[編集]

(攻城戦らしい作戦を一度も樹てたことがなく、当時の日本軍としては、ふんだんに火砲をもたされていながら、機略的に効果のある砲兵の用兵をせず、ただむやみに歩兵を要塞にむかって突撃させ、要塞砲と機関銃の餌食にすることをつづけたという戦いである)

まず日露両軍の兵力をちゃんと調べてみましょう 第一次総攻撃時点で 露軍 2個師団4万4千人 旅順艦隊の将兵1万2千人 軍属その他7千人

日本軍 3個師団1個後備旅団他5万1千人

これから見ると日本側がそれ程有利な兵力でない事が判ります。地上部隊では互角程でしかありません

ふんだんに火砲を第3軍が持っていたというのも事実誤認です

攻城戦の為に重砲の配備は受けていますがこの兵力差の攻城戦を覆すほどではありません


また「作戦を一度も云々」のくだりは素人論です

第一次総攻撃の失敗の要因は準備不足、敵情把握不足の為延期を求める第3軍に対して早期攻略を求めた(この時点での早期攻略とは強襲しかない)大本営の指示ミスです

そして乃木は総攻撃失敗を知るとすぐさま攻撃を中止しました

これは軍司令部を前線近くに配置し状況把握をしやすいようにしていたからです。(後述されてるような司令部を後方に置いたという批難は全くの事実誤認です)

そして正攻法による攻撃変更を決断し実行します。(これは当時の世界の軍編制からしたら極めて柔軟な対応で、数年後のww1での西欧列強が塹壕線突破に失敗して大量の死傷者が出ても作戦の根本的変更もせずに続けさせ死傷者を激増させたのと比べたら雲泥の差)

この結果、第二次総攻撃以降は日本側の損害が露軍を上回る事はありませんでした

極めて柔軟な作戦指導をしています

なお要塞正面の攻略にこだわったのは何故か

それは203高地を攻略して観測点を手に入れても既に第一次総攻撃前から港湾部への砲撃を大孤山からの観測でしており無意味だったからです

総攻撃前に行われた砲撃で戦艦「レトヴィサン」に命中弾があり、結果出撃する事になり黄海海戦が発生しました

203高地なんていう当初は守備兵力も殆どない所を攻撃しても何ら意味が無かったのです

砲弾残数に限りがある日本軍としては敵兵がいるか判らず命中しても土砂が舞うだけでそれ程敵兵を殺傷できない203高地の簡易陣地を攻撃するより、確実に兵士がおり(露軍は保塁内に宿営施設を造っていた)砲撃してぺドンの陣地を破壊したら多くの兵士を殺傷できる要塞正面を攻撃した方が効率が良いんです

前述したように第二次総攻撃以降は日本軍の損害は露軍を上回らず、確実に消耗させていた訳ですから第三軍が取った戦術は当時としては有効な方法だったんです

ですから第3軍を始め、満州軍の大山や児玉も要塞正面攻略を終始支持していたんです(児玉が203高地攻略を支持していたというのは創作)


「要塞攻撃には、攻城砲をふんだんに用いる以外にないということは自明」

ボーバンの攻城論が書かれたナポレオン戦争時代はそうですが日露戦争の100年以上も前の話です。日露戦争時の兵器や陣地にはまったく当てはまらない古い考えです

これを出してくるあたり司馬の軍事知識がどの程度か、どれだけ浅いか判ります

他者が書かれてますが旅順要塞はの¥ぺトンで覆った独立式保塁を3重の塹壕線と鉄条網で繋いだ防衛線を3重に配した構造です 塹壕にいくら砲撃しても土砂が衝撃を吸収してそれ程損害を与えられないし簡単に修復されてしまいます

そして砲撃後に突入しても生き残った数名が機関銃で反撃するだけで簡単に撃退されてしまいます

ww1の西部戦線と全く同じ状況です。攻城砲をふんだんに用いてもこの時代の要塞・陣地は落ちません。海軍の砲を投入したら早期攻略で来たとは思えませんし28サンチりゅう弾砲と違い陸地での運用を考慮されていない艦砲を持ち込んでも設置に28サンチ砲以上に手間暇をかけるでしょうから尚更必要ないでしょう



「それでも敵の要塞の火網をどんどんとくぐりぬけた運のいい小部隊が、要塞の背後ともいうべき望台にまで到着し、岩かげにとりついていたのである。その岩かげの小部隊に対しもっと増援をして旅順市街に突入させれば、状況が変っていたことはたしかで、しかもその岩かげの小部隊を指揮していたのは、下級将校ではなく、旅団長の一戸兵衛少将であった。かれは戟術眠からみて、白分のこの小部隊を増強してくれればなんとかなると思っていたのに、後方の軍司令部から退却命令がきたのである」

まったく当時の第三軍の兵力を把握していない暴論ですね

第1回総攻撃時点で兵力的に余裕のない第三軍に一戸旅団に増援を回すだけの余力はありません

それに近代要塞の防衛戦では例え攻撃側が第一防衛線を突破して食いこんでも周囲の保塁からの集中砲撃と後方の予備兵力による逆襲で簡単に撃退出来ました

それでも史実では乃木は攻撃の失敗した第1、11師団を増援に振り向けています

それが上記の様に集中砲火を受けて損害を出す結果となり一戸の占領した播龍山東西保塁の維持のみで終わり更に前の望台占拠は失敗しました

この記事の文面自体事実と反しています

乃木は援軍を送っていますし一戸が占拠した播龍山保塁は撤退せずに維持しています


「要塞攻撃は、弱点を見出し、そこに攻撃力を集中するというやり方でなければならない。岩を割るときに条理を見出L、そこに黎を入れてゆくということと同じである」

これも全く素人論です

上記の通り要塞攻略法は「弱点攻撃」ではありません

弱点があってもそこを攻撃して突破すればここぞとばかりに防衛側は集中砲火と予備兵力の逆襲で撃退するというのが近代要塞線です(ww1でもまさにそうなった)

前述しましたが戦車も飛行機もないこの時代の要塞の短期攻略は消耗戦しかなかったんです

そして砲撃にも限度がある以上、一番の決め手は歩兵による正攻法しかなかったんです

なんでこんな近代軍事常識に反する「弱点攻撃」なんて事が日本にまかり通ったかというと、この記述は「機密日露戦史」に書かれている事なんですが陸軍大学校の教本とて作られたものなので「大本営参謀」よりに書かれていました

当時大本営は「203高地こそ旅順要塞の弱点」として攻略を要請し続け、半ば強引に進言し続けました。結果乃木が折れ203高地攻略を開始し12月頭に攻略します。

しかし要塞は降伏せずなお1カ月近く抵抗しました

203高地が弱点でない事は事実が物語っています

しかし大本営参謀を育てる教本が大本営が前線部隊を混乱させ、結果大本営が誤りだったとは書けず、「児参謀長は大本営と意が同じで間違った判断をしている第三軍に態々出向いて指導し、203高地という弱点を攻略させて勝利を手に入れさせた」という筋書きにしたのです

事実に反する内容ですがこれが後年の日本軍に浸透し近代要塞戦を理解しないままガダルカナル等で弱点攻撃をして大失敗しつづけます。そして戦後も司馬がその内容を鵜呑みにしてしまいました

この時代で「弱点攻撃」が勝利の秘訣と信じる人は軍事史に素人としか言えません

出典は他者のと同じく 別宮暖朗 『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2006年5月。ISBN 4-569-66605

以上の回答に対する返事が全くないままなので返答お願いします--Thsbhseven 2011年8月11日 (木) 00:16 (UTC)[返信]