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利用者‐会話:東逍寺

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 百済について

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4世紀に百済の領域が現在の韓国領内にはないという方の説を本文にながながと記載されていますが、どの史料をどう読めばそういう解釈が生まれるのか、ご教示願えませんか。 --ねこぱんだ会話2022年1月11日 (火) 04:11 (UTC)[返信]

先ず、一番関心をしたのは、歴史学にとって最も貴重な一次資料である『好太王碑』には、何度か「百残」という文句が出てきたと作品は指摘し、「百残」は誤記ではないとしており、その一つ一つの意味を解析して、「百残」という文句は「百の残りの国」で著者が「複数の国々を意味すると解いた」事が重要だと思いました。一個の国の事を述べていないという事(だから百済の意味ではない)です。それ以外に、作品は数多く、論証をしていますので、お金があるなら私が述べるのは大変で読んでください。それと、一部の歴史学者が貴重な一次資料に刻まれた何度かの「百残」という文句を安易に「百済」と改変することは基本的には捏造とみなしえます。研究者は、安易に思い込みで述べるのでなく原文を大切に真摯に解析を十分やるべきと思いました。私は権威主義は学問には問題ありと思ってます。--東逍寺会話2022年1月11日 (火) 09:13 (UTC)[返信]
 そうだ、著者は四世紀中ごろに百済は遼西地域から朝鮮半島南部に移動し建国したと述べています。申し訳ない。私の記述に問題があるかも。、--東逍寺会話2022年1月11日 (火) 09:25 (UTC)[返信]
著者の人の解釈を聞いているのではなく、「百済は遼西地域から朝鮮半島南部に移動し建国した」と書いた著者の人が利用した史料そのものを教えてくださいと言っているのです。白文でいいですから、引用していただけませんか。あと、「百残」が「百済」ではなくても、「新羅」と並べて書いてあるのだから、朝鮮半島南部に属する地域であることはあきらかでしょう。そこのところを「著者」の方はどう解釈しているのですか。 --ねこぱんだ会話2022年1月11日 (火) 15:48 (UTC)[返信]
あなたの記述だと、井上秀雄が「百済は朝鮮半島南部ではなかった」と言っているように読み取れるのですが、その出典を教えてください。もちろん、井上氏の著述でです。--ねこぱんだ会話2022年1月11日 (火) 15:52 (UTC)[返信]
 すいません。本の読み返していたら間違いで、一世紀ずれた記述をしていた。
本の抜粋
・古代中国史料が語る四、五世紀の百済とは
では、古代中国史料では四世紀の百済はどうだったかである。先ず、『晋書』以外の古代中国史料の『宋書』や『魏書』、『梁書』が語る四世紀の百済を史書の成立順に列記するが、
一、史書『宋書』「列伝第五十七 夷蛮伝」で「百済国はもともと高句麗と共に遼東の東千余里の場所(すなわち、漢時代の玄菟郡)に居た。その後、高句麗は攻略して遼東にあり、百済は攻略して遼西にあり。百済の治める場所は晉平郡晉平縣と言う(百濟國本與高驪俱在遼東之東千餘里、其後高驪略有遼東、百濟略有遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣。)」とある。
『宋書』は主に五世紀を語るが、東晋が滅びる頃(すなわち、四世紀から五世紀初め)の百済は遼西にあったと明示している。記述にある晋平郡(しんへい-ぐん)とは『宋書』や『梁書』、『南斉書』などの中国の南朝系史書に登場する地域で遼西があった場所である。逆説的には『宋書』は明確に五世紀初めまで百済は古代朝鮮半島には存在していなかったと述べている。
但し、『宋書』は五世紀を主に述べ百済を東夷の分類に入れているので、百済は宋王朝成立の五世紀(四二〇年以降)には、確実に古代朝鮮半島に居たことになる。
二、北朝の史書『魏書』であるが、「列傳第八十九」百済伝の出だしでは「百済国はその先祖は扶余族であり、その国は高句麗を去ること北に千里の場所(玄菟郡や遼西周辺)にあり。今は(高句麗の南部にある小さな河川敷の南(旧馬韓地域)に移っている。その民は土着しており土地は多くは乾燥し、ほとんどの者が山にて暮らしている。(百濟國、其先出自夫餘。其國北去高句麗千餘里、處小海之南。其民土著、地多下濕、率皆山居。」とある。
『魏書』百済伝は三八六年(建国時の四世紀)から五三四年(滅亡時)間を扱った史書で、百済は扶余族であり高句麗の北(すなわち、漢時代の玄菟郡))に居たのだが、北魏が建国された三世紀末以降には百済は古代朝鮮半島の旧馬韓地域に移ったと述べているのだ。おらず、実は高句麗の北部、漢時代の玄菟郡(すなわち遼西地域)に居たと述べているものである(この文章は従来では誤解されているのだが後に詳しく述べる)。
三、六世紀前半を語る史書の『梁書』であるが、「巻五十四列伝 諸夷伝」の百済については「晋の時代に高句麗は侵略し遼東にあり、百済はまた掠め取った遼西にあり。晋平の二郡の地なり。自ら、そこに百済郡を設置した(晉世句驪旣略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡)」とあり、百済は遼西地域にいたと述べている。
加えて、『梁書』「諸夷伝」新羅条には「新羅は百済の南東のはるか遠い五千余里(其國在百濟東南五千餘里)」とあり、四世紀頃の百済は旧辰韓地域の新羅の近隣、西隣などには全くおらず「はるか遠くの五千里も離れた遼西周辺にある」と明記している。
四、かなり後代の古代中国史書『周書』(六世紀)であるが、「百済伝」では「百済は蓋馬(現在の北朝鮮北方の高原地帯、すなわち、高句麗の北方)の韓に属する。扶余族の別種で昔、「魏志」で述べられている仇台という者がいた場所(すなわち、漢時代の玄菟郡)である。初めての国は帯方(郡の地域)においてである」ほどである。
『周書』は百済というのは高句麗の北方に居た扶余族の事で高句麗の北方に居たが、後(五世紀以降)に馬韓で初めて国を興す」と述べていることに注意が必要である。『周書』は散逸がひどく後代に再編集され「蓋馬」と「馬韓」が混同されていたようである。
五、これら以外に、『南斉書「蠻 東南夷」』や『北史』の百済伝では説明が長くなるので省くが、やはり、四世紀には百済は遼西地域周辺に居たと記述されている。
以上のように、『三国志』以降の古代中国史料で南朝を扱った『宋書』「夷蛮伝」や『南斉書』「蠻 東南夷」、『梁書』「諸夷伝」、そして、北朝を扱った『魏書』、『周書』、『北史』は全て「四世紀の百済は遼西地域近く(当時は晉平郡晉平縣)にあった」と述べている。そして、晉平郡晉平縣の所在地については、後代の『通典』には「柳城(古の龍城)と北平の間を言う…」とあり、この北平とは古の漢帝国時代の北平郡(遼西)で現在の北京の北部地域の事とある。
補足しておくと、古代中国史料には四世紀の百済が河北の遼西地域に存在した述べていることは日韓の歴史学者はよく知っていたし、そのため、論議も起こっている。しかし、その論議の中で、従来では日韓の古代史学者の多くは南朝の『宋書』と『南斉書』、そして、『梁書』だけに四世紀の百済が遼西地域に存在したと認識しており、そして、南朝の史書は河北の事は良く知らずとして南朝史書の百済記述については信憑性に欠けるとしてかなり無視をしている。そして、現在の日韓の歴史学においては「四世紀の古代朝鮮半島には高句麗と百済と新羅という代表的な大きな纏まった国が存在した」という説が定説的になってしまっている。
けれども、「南朝の史書だけに四世紀の百済は遼西地域に存在したという記述がある」と過去の日韓の古代史学者は述べているが、それは誤解で、北朝の『魏書』や『周書』の「百済伝」も明確に四世紀の百済は朝鮮半島では無くて高句麗の北方、遼西地域に居たと述べている。すなわち、『三国志』以降の古代中国史料は全て四世紀の百済は遼西地域に居たと述べている。
この点は後に詳しく論証もするが、ですから、『晋書』「四夷伝」に百済と高句麗が出てこないのは間違いではないという事になる。
 これくらいで、--東逍寺会話2022年1月12日 (水) 04:38 (UTC)[返信]

井上秀雄が言っているは、晋平郡のことです。晋平郡の記事は自分が書いたので参照していただけたら幸いです。
「これに対し金庠基・金哲埈・井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配したと推測している。ただし井上秀雄は、領有や支配とは限らず遼西の小勢力との同盟という程度もありうる、とかなり控えめな想定もしている。それによると、東晋末期に遼東・遼西は政治的に混乱状態に陥り、百済は高句麗の広開土王・長寿王の圧迫に苦しんだが、南朝の宋から冊封され、高句麗と対峙、その一時期に遼西と政治的な連携もしくはその一部を支配した可能性、具体的には、百済は377年に北方の前秦にも朝貢して、北方の遼西に関心を持っており、前燕の崩壊後、政治的混乱に陥った遼東・遼西に371年の対高句麗戦の勝利の余勢から「一時的」に遼西を侵略するのは、可能性としては有りうるという[8]。ただし井上秀雄は、もっとも可能性が高いのは、南朝の宋は、対高句麗対抗勢力として百済を評価しており、高句麗が北朝の北魏や北燕と連携していることを牽制するために、百済の遼西侵略を誇大・誇張して取り上げる必要があったと述べている[8]。」
--2001:268:C0D0:1DF0:1509:2031:7960:FA8C 2022年1月19日 (水) 00:20 (UTC)[返信]

確認しましょう

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七支刀について

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「丙午」を日の干支ではなく年の干支だとする説はあまりに非常識だと思うのですが、著者の中島氏は本気でそう書いているのですか。

広開土王碑について

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「百残」が百済であろうと、ほかの国を指していようと、この問題は、百残と新羅(と伽耶)が、倭か高句麗かのどちらの『臣民』になった(なっていた)かをめぐって論争がおこなわれてきたわけです。つまり、朝鮮半島南部がどういう勢力によって争われてきたかという問題のはずです。百残が百済かどうかは、本質とは全く関係ないことでしょう。中島氏は朝鮮半島南部の情勢に対してどういう見解をもっているのですか。

本を買う予定はないので、とりあえず説明していただけないでしょうか。 --ねこぱんだ会話2022年1月12日 (水) 13:34 (UTC)  [返信]

 この問題は、朝鮮半島の歴史を大きく変えます。従来の半島史では朝鮮が進んでいて、三国時代は三世紀中ごろに始まるというのが通説ですが、朝鮮半島の三国時代は五世紀初め以降(二世紀も遅れて)となります。そして、実は五世紀の百済は倭国の冊封下にあった事です。--東逍寺会話2022年1月13日 (木) 02:32 (UTC)[返信]

倭が宋に対して『百済』に対しての官職を要求したのに、宋はそれをはずしています。『新羅』に関しては、倭の主張を認めています。それを「百済は倭国の冊封下」というのはおかしくありませんか。今、手元には『梁書』しかないので、それ以上のことは書けませんが。 --ねこぱんだ会話2022年1月15日 (土) 00:03 (UTC)[返信]

中島信文氏について

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中島信文氏は、東北大学工学部金属材料学科卒業後、1972年、ジーゼル機器(株)入社、2004年同社を退社後、著述活動を行っている在野のアマチュアの著述家であり、歴史家・専門家ではない。CiNiiで検索すると、学術論文は「ゼロ」です。ウィキペディアにふさわしくない。--2001:268:C0D0:1DF0:1509:2031:7960:FA8C 2022年1月19日 (水) 00:12 (UTC)[返信]

古代の漢文などの読解は,歴史家だけの分野ではない。中国漢文などに精通している人が参加して訳すものであり、「歴史家・専門家ではない。CiNiiで検索すると、学術論文は「ゼロ」です。ウィキペディアにふさわしくない」というような偏見的な意見は学問の発展を妨げるものである。--東逍寺会話2022年5月12日 (木) 15:33 (UTC)[返信]