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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ7

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長興寺の碑文の件(2)

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(節項目名:「一般的な会話や質疑」は会話内容に合わないので、上記節項目名に変更しました。--故城一片之月 2010年1月28日 (木) 13:27 (UTC)

  • 稲垣成長について、今泉さんの提示された内容であれば勿論、私は歓迎です。
稲垣権右衛門家の初代が1100石を給されたのは、史料的に記述があるが家老・組頭になった記述は現在確認できません。成長の代は大胡・長峰在城時代から長岡藩草創期であって、家臣団・藩の制度上まだ流動的であったかもしれません。ただ、1100石という長岡藩にとっては大身の武士が軍役免除されていたとは考えにくく(先法家ではないのですから)、大組の組頭級の軍役負担が与えられていたとしても不思議ではありません。組頭であれば少なくても家老格の扱いであったことは充分予想されます。しかし、重要な事は今現在、組頭・家老であったかどうか特定できる史料は見当たらないという事実であって、特定できない以上、そうであるとかないとか断定的な記述が(少なくともWikipediaでは)何も出来ないということだと思います。
記事ノートへの議論の移行は、今泉さんのご提案にたいする牧野幕府さんの御意見を待ってからでも良いと思います。
諏訪家の件、ご情報有り難うございます。現代でも過去でも自家の歴史の誇大標示・偽装はあるものだなあというのが私の感想です。ただ、歴史研究を心がける人は(郷土史研究であっても)、このような誤情報や偽情報でもそれらがどの様な事情で発生したのかを掘り下げることで、その研究に深みや厚みが増す場合もあるかなと思います。--故城一片之月 2008年12月23日 (火) 01:08 (UTC)
  • 建碑があったことについては削除することには、了解します。今泉氏案に故城一片之月氏が肉付けした記述に修正することを望みます。白紙一任の意味をあらためて、ここで説明する必要はないと思いますが、この問題で意見がまとまらない場合は、故城一片之月氏案で了解するという意味です。今後、地元誌、公刊本などに、あらためて建碑が触れられない限り、削除を復活することはないことでよいと思います。--牧野幕府 2008年12月26日 (金) 16:17 (UTC)


  • 建碑があったことについては削除することには、了解します。今泉氏案に故城一片之月氏が肉付けした記述に修正することを望みます。白紙一任の意味をあらためて、ここで説明する必要はないと思いますが、この問題で意見がまとまらない場合は、故城一片之月氏案で了解するという意味です。今後、地元誌、公刊本などに、あらためて建碑が触れられない限り、削除を復活することはないことでよいと思います。--牧野幕府 2008年12月26日 (金) 16:17 (UTC)
  • 余談ですが牧野平左衛門家に関する古文書が、小諸に残っているらしいとの情報を、鉄三郎さんから、聞きました。系譜出自に関するものではなく、江戸家老であったことを意味するものか、江戸藩邸に定府していたことがあったことを意味するものらしいです。不確定情報で申し訳ありません。こうした話しを聞いたことや、文献を閲覧されたことはありますか? --今泉総一郎 2009年12月18日 (金) 20:21 (UTC)
無いですね。今年、小諸市教育委員会の方に御挨拶する機会があったので、来年にでもお尋ねしてみるかもしれません。もっとも豊川市教育委員会や郷土史研究家の方々にもお世話になっており、そちらの懸案事項ができたので何時になるかはわかりません。--故城一片之月 2009年12月21日 (月) 19:15 (UTC)


牧野平左衛門家の成立の謎という論文が公刊されている雑誌に出ているという話しを鉄三郎さんから伺いました。この論文を出典として、越後長岡藩の家臣団の家老牧野氏の記事を厚くすることはお考えにないのでしょうか?。--今泉総一郎 2009年2月9日 (月) 17:26 (UTC)


  • 相談と質問なのですが時間が許せば、回答下さい。

まず小諸藩主牧野家の墓地から50メートルほど離れた場所に、ある士族の子孫(私人)による碑文があります。概要は、当家は藩主牧野家の客将として迎えられ、家臣となりやがて子孫は段々と立身して家老となったという内容です。なおこの家は、長岡藩の家老・先法・番頭・者頭クラスに同姓者は存在しません。これらから改姓した一族でもありません。

  • 1、建碑されたのは昭和40年代ですから、約40年が経過しているので金石文として認められるか。
  • 2、小諸藩(与板藩を含む)文書に、この家が客将であったとか、客人分であったとする記述は存在しません。またこの家の家系図などが公表されたり、学者による研究発表はなされていません。
  • 3、鉄三郎氏は、少なくても客将であったとする部分は、子孫による捏造伝説の可能性が高いと言っていました。
  • 4、「将」という言葉にこだわってみたいのですが、将ということは部隊を預けられていなければ、将とは言えないのでしょうか? それとも馬上であれば、「将」と言っても間違えではないのでしょうか?。
  • 5、傭兵や、仕官前提の仮採用期間中を指して、客将と言えるのかどうか?
  • 6、部隊を預けた客将であった人物を、数十石や、100石以下で本採用することは、常識的にあるのかどうか?。この家は、はじめ数十石から100石以下の家柄でしたが、たしかに子孫は段々と少しずつ立身して、幕末近くに一代家老には抜擢されていることは確認できます。--牧野幕府 2008年12月26日 (金) 16:42 (UTC)
「将」はむろん、一軍を統率する者の意でしょうが、史料によっては比喩的表現もあるでしょうから史料本文を吟味してみる必要があるでしょう。また、組織の階層構造の中で相対的に呼び方も変わるのではないでしょうか?三河在住時代の牧野氏は国人領主として城主牧野氏は大将であり、牛久保六騎の面々は牛久保衆の中では一軍を預かれる武将であった筈だが、大名今川氏の勢力の中では「牧野組」という寄子-寄親関係に編成されていたと思われ、今川方の吉田城代小原氏や牛久保城駐留指揮官の匂坂氏や朝比奈氏等の指揮下にあった様です。この場合牛久保牧野氏は今川方の1部隊長であって「将」とは呼べず、まして牛久保六騎は牧野氏を寄親とする寄子衆に位置づけられ「将」にはなりません。つまり、「将」とは階層構造の中で相対的に呼び方が変わると思われます。
たとえ、小土豪でも独立した存在であればその主人は大将であり、家老や寄騎は武将となり得るでしょう。小諸藩の問題のその家が何時時代の事を言っているか知りませんが、自家のその様な過去を伝えているのでしょうか。また、「客分」のような預かり身分が「客将」とは限らないと思いますが。具体的にどんな人物の事を指して言われているか分からないので抽象的コメントしか出来ません、悪しからず。
ところで牧野幕府さんはこの件についてWikipediaに投稿の御意志はありますか?無いのであればこの項での議論は長くなりましたので(現在30KB)、この辺で打ち切りたいと思いますが。--故城一片之月 2009年1月13日 (火) 14:17 (UTC)
はじめまして。私が既に一部を記事にしています。ご意見を頂けると幸いです(お断り。今泉総一郎さんと同じパソコンから投稿することがありますが、マルチアカウントではありません)。木村重成--小諸郷土史 2009年1月14日 (水) 15:18 (UTC)

戦後の日本で、100万円くらいかけて建碑して、自家の血統誇示をしようというのも嫌らしいですよ。それとも大金かけて既成の事実化しようというのでしょうかね。ネットの発達や、郷土資料の公表が相次ぐという事態を、建碑者は予想しなかったのかしら。--今泉総一郎 2008年12月26日 (金) 17:34 (UTC)

この件についてはいろいろ思うところもありますが、Wikipediaの編集を離れ過ぎた議論であり、誠に失礼ながら質疑応答は致しかねますので御了承下さい。--故城一片之月 2009年1月13日 (火) 14:17 (UTC)

「漂着」について

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  • 「漂着」について。

牧野氏伝説において、しばしば漂着という語が用いられます。漂着というのは可能性として陸路漂着ということもありえるのでしょうか? はじめから目的地がなく、漂白してたまたまある土地に、住み着いたというような場合は、漂着したという言葉を使うことはあるのでしょうか?漂着といえば海路(川を含む)というのが一般的なのでしょうか? 室町・戦国に「漂着」というのがどのような意味を持っていたかにかかわるとも思われます。--牧野幕府 2008年12月26日 (金) 16:52 (UTC)

「漂着」表現そのものを史料で私は見ていないが、『牛窪密談記』には「著船」と記されており、「著」は「着」と同義とされています。四国からの経路については海路のみ、あるいは海路・陸路を含む等(元長岡中央図書館長の稲川明雄氏など)、諸説あるようで一定せず謎です。鎌倉時代に牧野村地頭になった牧野氏と室町時代応永年間に三州牟呂津に着船した田口氏(後の牧野氏)は別流とみる考え方もあり得(牧野氏神官出自説など)、今後の研究解明が待たれるところです。いずれにしても今は伝説・伝承レベルに過ぎません。--故城一片之月 2009年1月13日 (火) 14:17 (UTC)

旗本松井氏の個人名の独立ページ

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はじめまして。初心者なので、よくわからないのですが、ウィキペディアは、著名性がないと、独立したページにできないと理解しています。数百石から千石未満の、特別、著名でない幕臣の個人名のページを次々と立ち上げるということは、ルールの範囲内なのでしょうか。寛政譜に業績の記述がある幕臣であれば、一応、著名性はクリアされるのでしょうか。それが認められるならば、寛政譜などの著名性のある文献に業績がある私も数百石の幕臣・武士の独立したページを立ち上げてみたいという意味で書いています。 --高円寺藩 2009年7月24日 (金) 12:45 (UTC)

  • ウィキブレイク中でお返事遅くなり失礼しました。高円寺藩さん、どうも初めまして、宜しく御願いします。
さて、お尋ねの件ですが、結論から申せば、寛政譜に記載の有る人物であれば、旗本・御家人クラスの幕臣であっても掲載は問題無いと思います。何故なら、公刊された出典に基づくのですから、検証可能性という基本条件はクリアしているわけですから。むしろ、初心者のかたは臆することなく、投稿すべきです。ただし、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)を参照しつつ、貴方が寄稿したい分野の手頃なサイズ、3000-5000バイト程度の編集合戦中ではない既存記事ペ-ジを手本にして立ち上げるのも一つの方法かと思います。不備な点は他の利用者や管理者により、サポートやアドバイスが必ず有るものと思われる(それもWikipediaの特長)ので心配はありません。
  • 上記理由の詳細は以下の通り。
Wikipediaの投稿について著名性の問題は時折取り沙汰されますが、人物伝記に採り上げられるべき人物は大きな業績を残したものであるべきと述べられています(→家系図や人名録ではありません)。また、この場合の業績の大きさは統計データ的問題というよりも著名性(Wikipedia:特筆性)に提示された条件を満たす場合と思われます。また、Wikipediaはネット上の百科事典であるとされているわけですから、本来、検索者が必要な時に必要な情報が手に入る記事・項目の数量的豊富さ・幅の広さが要求されるのは当然の基本条件です。また、Wikipedeliaは単なる用語の定義を集めた辞書ではなく(→ウィキペデイアは何ではないか1.2)、個別記事ページにおける内容自体の豊富さも求められるものです。つまり、ここで言う著名性は単純に「誰でもが知っている情報」では百科事典を検索するだけの価値有る情報とは言えず、むしろ殆どの人も知らないようなユニークな情報も含めた内容の豊かさがあることが検索に値する有用性すなわち独立項目立ち上げの条件だと思われます。但し、内容の豊かさは現在時点に限らずその将来の成長性を含むものと考えられ(→Wikipedia:スタブ)、Wikipediaの場合は特定の専門家に限らず参加者の自由編集による記事の成長性・改訂によるとされ、最終的には該当内容の出典明示または要求された出典の提示にいつでも応じることにより、利用者の誰もが検証可能性が担保されることで著名性と真実性・正確性が保証されると見なすものです(記事そのものの真実性を判定する場ではない)。--故城一片之月 2009年7月26日 (日) 17:31 (UTC)

詳細なご説明、痛み入ります。--高円寺藩 2009年7月28日 (火) 12:33 (UTC)

戸田氏の整理について

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このノートではお久しぶりですが、KurmUmyです。実は戸田氏の大幅な整理を行ってしまったのですが、投稿後ノートに報告しようとして。故城一片之月様の整理提案に気づきました。もしかしたら故城一片之月様の整理の議論に影響してしまったかもしれないと考え、報告いたします。--KurmUmy 2009年7月26日 (日) 10:10 (UTC)

お知らせ、ありがとうございます。貴殿の記事改編は支持いたします。大変お疲れさまでした。私の感想についてノート:戸田氏に詳細書きましたので御覧下さい。--故城一片之月 2009年7月26日 (日) 15:34 (UTC)

http://ja.yourpedia.org/wiki/  

この記事で、三河真木氏を検索してみて、驚きました。投稿者の履歴も注目です。鉄三郎氏にメールで尋ねたところ、自分は無関係だと言っていました。三河牧野氏の記事はまだないようです。 --今泉総一郎 2009年8月13日 (木) 21:45 (UTC)

提案

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おはぐろ蜻蛉です。突然不躾な提案をして誠に恐縮なのですが、管理者立候補 してみる気はありませんか、Wikipedia:管理者/募集にあるように、他の言語版と比較すると 管理者が少ない状況です。もちろん、管理者権限行使は義務ではありません。行使しない自由があります。 気が向いた時だけでも結構です。 参考までに行使状況をまとめたページへのリンクを紹介します。[1]

また、管理者になると巻き戻し機能が使えるようになります。 これはウォッチリストからでも使用でき、かつ、荒らしの編集を1クリックで取り消すことができるため非常に便利です。

今すぐにとは申しません。いつでも結構です。頭の片隅にでも置いて頂けると幸いです。よろしくお願いします。--おはぐろ蜻蛉 2009年9月1日 (火) 15:53 (UTC)

  • おはぐろ蜻蛉さん、どうもお久しぶりです。管理者への立候補にお誘い頂き恐縮です。拡大する日本版において管理者数の不足という現状は私も聞き及んではいますが、何ぶんにも私のWikipediaへの参加は実に気まぐれで、管理者ともなるとその点で御迷惑をおかけするのは必定なので、せっかくのお誘いで心苦しいのですが謹んで御辞退いたします。無論、管理者の方々だけでWikipediaが支えられている訳ではない、一般の利用者がそれぞれの立場で協力して作っていくものと思いますので、私は自分の守備範囲である日本史関連の記事の執筆や編集作業であるいはこれにかかわる他の利用者の皆様との議論で自分として出来る事を主に協力したいと思います。--故城一片之月 2009年9月2日 (水) 12:43 (UTC)
回答ありがとうございます。了解しました。仰るとおり参加形態は人それぞれです。お互い自分なりのペースで頑張りましょう。立候補に気が向いたときはよろしくお願いします。--おはぐろ蜻蛉 2009年9月2日 (水) 13:09 (UTC)
いえ、どうもご丁寧にすみません。--故城一片之月 2009年9月2日 (水) 13:16 (UTC)

御人数帳をはじめとする牧野氏、長岡藩、松井氏などのミクロ的な記述は、お休みまたは、日本史プロジェクト関係の参加中心に切り替えられたのでしょうか。

このようなイベントがあったようですね。http://www.tonichi.net/news.php?mode=view&id=29448&categoryid=1

--今泉総一郎 2009年11月9日 (月) 17:35 (UTC)

  • 私の投稿・編集の仕方に特に変更があるわけではありません。ただ、ネット百科事典である以上、全体とのバランスを少しでも気にしようという意味でウィキプロジェクト:日本史に参加しているだけです。一般利用者レベルでも出来る活動を通じて膨大化する日本版の管理負担を軽減する必要性を受け止めなければなりません。
  • 例の引越御人数帳は主筆者からのアクセスがない状態で困ってしまいます。論点は既に示したとおりです。出典とされる、今泉省三著『長岡の歴史1』とは明らかに異なった内容説明だと私は思いますが(今回新規寄稿した長峰城も参照下さい)、今泉さんはどの様に思いますか?

--故城一片之月 2009年11月19日 (木) 15:55 (UTC)


武鑑偏重と、武鑑からの推測記述の回避

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越後長岡藩のノートに意見を書きました。採決も必要かもしれません。主執筆者としてノートの議論に参加をお願いします。--今泉総一郎 2009年12月18日 (金) 20:00 (UTC)

またノートに意見を書きました。よろしくお願いします。--今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 17:53 (UTC)

どちらのノートでしょうか?--故城一片之月 2009年12月22日 (火) 18:01 (UTC)

越後長岡藩の家臣団のノートです。--今泉総一郎 2009年12月22日 (火) 18:41 (UTC)