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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ6

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はじめまして

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はじめまして。鉄三郎さんの紹介でここを知りました。私は今泉を称していますが長岡所縁の者ではありません。鉄三郎さんが遠方のネット環境に乏しい場所ににおいでなので、彼から以前に東京大学史料編纂所(鳥羽藩文書)と、国会図書館(鳥羽藩分限帳)の写しを預かり、執筆を依頼されていたので三河松井氏を補筆しました。倉地氏なども同じくです。--今泉総一郎 2008年9月19日 (金) 15:47 (UTC)

1家・2家とします。また雑載として末尾に著名でない同族者や、未整理や整理のつかない同族者を列挙するのは、太田亮氏の著述・論文をまねたものと思われますが、私もまねてみました。--今泉総一郎 2008年9月19日 (金) 21:34 (UTC)

表現の件、ご賛同頂いて、有り難うございました。--故城一片之月 2008年9月21日 (日) 10:52 (UTC)

牛久保六騎が、編集合戦の後遺症であまりにも、読みにくかったので、修正したもので、これらについて特に知識があるわけではありませんでした。再修正して頂きありがとうございます。

  • 岩瀬氏は、1565年に岡崎城に召し出され、家康の直参資格を得たが、牧野組の旗下にあった。牛久保城主・牧野氏に付属していた庶流の岩瀬和泉守の家系は、吉左衛門を通称として、1590年の徳川家康の関東移封に伴い牧野組を離れて、徳川直参組(大身旗本)となった。吉左衛門家の分家として分出された岩瀬氏の末裔となる幕末の幕府外交官岩瀬忠震は著名。また譜代大名大久保氏の1,000石級の重臣となった吉右衛門を通称した庶流があり、幕末の小田原藩家老職岩瀬大江進正敬は、藩の責任を負って切腹している。

とありますが、大塚城主の本家・岩瀬氏は、これらの記述とは別の歩みをしたということで、主家の今川氏を失って、土着・帰農したということになりますか。

そういう解釈なら、誤解のないように、岩瀬氏(庶流・岩瀬和泉守の系)は、1565年に岡崎城に召し出され、家康の直参資格を得たが、牛久保城主・牧野氏(牧野組)の旗下に引き続きあった。岩瀬和泉守の家系は、吉左衛門を通称として、1590年の徳川家康の関東移封に伴い牧野組を離れて、徳川直参組(大身旗本)となった。(以下略)

というようにしたほうがよいと思われますがお考えをお聞かせください。ご面倒ならいきなり、牛久保六騎のページを御書き換えください。--今泉総一郎 2008年9月22日 (月) 16:05 (UTC)

岩瀬氏の説明よくわかりました。天文年間の大塚城主、岩瀬氏の実子筋と、同年代の牧野平三郎の本家筋の江戸時代の行方は不明ということですね。--今泉総一郎 2008年9月25日 (木) 14:01 (UTC)

また永禄8年には、牧野組を離れたということですね。岩瀬氏には、何系統かあったと思いますが、牧野氏の家臣団・寄騎からすべて岩瀬姓が消滅しているのが、 ひっかかります。--今泉総一郎 2008年9月25日 (木) 14:12 (UTC)

牛久保六騎で述べられている様に、城主牧野氏傘下の寄騎ながら、それぞれ出自も背景もかなり異なるのです。岩瀬氏は本来は今川氏の家臣であったものが今川氏の三河支配戦略上、牛久保牧野氏の組下に付属させたもので、今川氏属臣の性格が強く、知行地が今川領の遠州にもあった程です。つまり牧野氏との結合力は薄かった分、牧野組離脱も早く残留もしなかったわけです。対照的に稲垣氏・山本氏は一時は徳川家直参旗本に抜擢されながらも、大胡在城の牧野氏に再属したのは彼らが、元来今川氏の影響で牧野組に所属したのではなく、それ以前に牛久保牧野家に自身の意志で付属した所以で強固な結束意識があったと推論されるのです。稲垣長茂の牧野康成帰参の経緯などは象徴的な話です。--故城一片之月 2008年9月25日 (木) 16:49 (UTC)

私は岩瀬氏側の資料にしか今川家臣であったことの記載がないので、岩瀬が今川の家臣であったとするのは、地侍として今川に服属していたに過ぎないものを、僭称していたものと、推察していました。今川家臣として、領地をたまわるような戦功も知りません。どこぞの流れ者が土着して地侍化したのが、稲垣氏と岩瀬氏だと推察していました。この2家は、ゼロからのスタートでどうして、実力を持つようになったのか理由が、まったく不明だと思います。--今泉総一郎 2008年9月26日 (金) 12:22 (UTC)

今泉さんの書き込みの真意私は量りかね困惑してます。
「どこぞの流れ者が土着して地侍化した」のは征夷大将軍にまでなった徳川氏=松平氏も同じです。時宗の僧・徳阿弥と称したともいわれる親氏が三河国松平郷の土豪松平太郎左衛門の入婿になって松平姓を称した伝承。その頃は地侍レベルであったが、2代目松平泰親・3代信光の頃には室町幕府重臣伊勢氏の被官つまり家臣になっていた。この例からも地侍が有力武将の家臣であっても矛盾しないことがいえるのではないでしょうか。家臣を僭称とはどういう意味でしょうか?
辞書的な説明をすれば、国人領主や守護大名が戦国大名化する過程で地侍・地頭・有力名主(みょうしゅ)・下司職・公文などの小土豪や下級荘官が家臣に取り込まれていった。それでも、彼ら戦国期の家臣は同時に小領主としての性格も兼ね備えていたので、知行地との地縁的結合を断たれた俸給生活者であった江戸期の大名・旗本の家臣とは性格が一緒ではない。と私は思いますが。--故城一片之月 2008年9月26日 (金) 16:02 (UTC)

困惑させてしまって申し訳ありません。稲垣氏が伊勢国出身、岩瀬氏が東北出身の二階堂支流であることは、稲垣氏側、岩瀬氏側の子孫が著述・または提出した文献にしか登場しないとう確認をしたかっただけです。あとはいちいちごもっともです。岩瀬氏が今川氏の被官的要素が強いことは、私が勉強不足でした。また鉄三郎さんは小諸支藩関係と、槇氏の研究について造詣が深いかたで、いろいろ学ばせて頂きましたが、そのほかのことについては、つっこんだ話しを伺ったことがありません。--今泉総一郎 2008年9月26日 (金) 22:01 (UTC)

三河牧野氏の系図できばえは、素晴らしいですね。一つ感想を申し上げれば田口氏の部分は別ページにしたほうがよいのではないかと思いました。阿波の民部大夫は、牧野氏伝説の中だけに出てくるものではありません。また三河牧野氏は情報量の多いページであることも理由です。これは私が、なんとなく感じたことであり、三河牧野氏のノートに提案したり、投票でページ分割を求めるまでのつもりはありません。--今泉総一郎 2008年11月7日 (金) 17:17 (UTC)

今泉様のおっしゃる通りです。
実は私も今回の系図掲載にあたり、Wikipediaの田口氏田口成良田口教能等のページを閲読して、紀姓田口氏系図のUPを検討していたところです。三河牧野氏掲載の部分は本文の説明に関係する部分に限定して載せましたが、そもそも出典となっている牧野系図の全体は孝元天皇から武内宿禰を経て蘇我氏系図~蘇我田口朝臣河堀(田口氏元祖)~田口教能までの系図を含むので、近いうちに田口氏系図が載せられるか、各関連ページとの整合性を考えながらやってみたいと思います。その際には重複部分は当然省く必要が生じると思います。--故城一片之月 2008年11月7日 (金) 18:01 (UTC)

投稿ブロック依頼/Reonareonaのコメントについて

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はじめまして。KurmUmyと申します。先ほどWikipedia:投稿ブロック依頼/Reonareonaへコメントしたのですが、故城一片之月 様の依頼者票の冒頭が間違っているようです。(賛成)、(反対)など括弧を付けて賛否表明を明示したほうがよいと思います。削除依頼において括弧が無い削除票を書き直された例を見ましたので、一筆させていただきました。御失礼お許し下さい。--KurmUmy 2008年10月27日 (月) 14:08 (UTC)

どうも御指摘のように依頼者票が当初書き落ちしていたのですが、他の方の指摘でワンテンポ遅れて既に依頼者票(賛成)で出してあります。なお、問題アカウントに対しては十八松平の件も含めてCU依頼の是非を含めたコメント依頼で統一的に議論した方がよいかと思います。あるいは今後も被害継続・拡大するならWikipedia:追放の方針(「編集合戦、およびその他破壊的な編集をしつこく繰り返すこと」及び「ウィキペディアの基本方針とガイドラインへ従う気がない、あるいは従うことができないことを示すふるまい」 )に基づく追加措置も議論されてしかるべきかとも考えます。--故城一片之月 2008年10月27日 (月) 17:13 (UTC)


三河牧野氏の記事整理関係

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三河牧野氏のページは、編集競合を避けるという理由で、投稿を避けたためこちらに記述します。出典を厳しくするというノートを読んだのが、書き込みをさせて頂いている動機です。

鉄三郎さんがした記述、牧野平四郎は、名を政成と云い直系子孫は、諸侯となった牧野氏に随従して、上野国大胡・越後国長岡・越後国与板と移り、4代目牧野平四郎が、牧野八郎左衛門と通称を改めて、与板藩主・牧野康成の家臣となった。(中略)(出典 長野県小諸市役所元助役・小諸藩士族会元会長 牧野一郎所蔵文書)。

これについて以前に、鉄三郎さんに質問したところ、 牧野平三郎の弟の牧野平四郎は、名を政成と云いその子孫は、上野国大胡・越後国長岡・越後国与板と移り、4代目牧野平四郎が、牧野八郎左衛門と通称を改めて、与板藩主・牧野康成の家臣(230石)で席次が立藩時には、二番目であったとすることまでは、与板町誌に明確にあるため、この部分は広く誰でも査読できるそうです。コピーも頂いています。牧野一郎氏は既に故人となられているため、いまは小諸馬場町牧野家文書との呼称もあり、少し混乱します。前長岡図書館長の著述物にも、小諸牧野家文書というものが登場しますが、これも同じものです。ちなみに家臣筆頭は倉地氏で後に三根山藩に転属しています。 --今泉総一郎 2008年11月9日 (日) 16:12 (UTC)

  • 新規会話項目たてましたので、すみませんが今泉さんのコメントをこちらに移動させていただきました。
上記の牧野平四郎関係記事については趣旨を了承しました。大幅改稿のため、出典のある記事も移動したり一時的に本文から下げる場合もあるかもしれませんが、その際には一旦下げた分は私のサンドボックスに待避させてから戻すようにします。確認される場合は私の利用者ページにあるサンドボックスを覗いて下さい(但し編集は本文に戻した後に御願いします)。勝手な御願いですが、記事整理は以前に表明してながらなかなか手が付かず、今回は思い切って実施に踏み切りました。私から今泉さんにご相談する場合もあるかと思いますので宜しく御願いします。--故城一片之月 2008年11月9日 (日) 16:31 (UTC)

牛久保の古城と一色城

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ご無沙汰をしています。ウィキ豊です。利用者:Gyrobesttt会話 / 投稿記録 / 記録氏は「三河国二葉松」を根拠に牛久保に古城と一色城と新城が有ると読める記述を残しました。かつて。利用者:Qlopppp会話 / 投稿記録 / 記録名義(まだ、ブロックされていない)で「三河国二葉松」を偽書の江戸~現代の例に加えていた人物と同一人物でしょうが、三河国宝飯郡牛久保に3城有ったか否かは知りません。新城は牛久保城址に間違いはないでしょうが、一色城ないし古城の位置は謎です。古城と一色城が異なるとなると両者とも謎です。牧野成勝の新城の敵が古城や一色城であるとは考えられませんので牛久保には同時に3城が有ったとなると思います。Gyrobesttt氏の意見ではそうなりかねませんが、わたくしはこれに反論する根拠を知りませんので、3城説に真っ向反論することは少々できかねます。--ウィキ豊 2008年11月25日 (火) 02:20 (UTC)

ウィキ豊さん、コメント有り難うございます。利用者:Gyrobesttt会話 / 投稿記録 / 記録氏が利用者:Qlopppp会話 / 投稿記録 / 記録氏と同一人物でオタスケマン氏の操り人形であるように私も思います。三河国二葉松を偽書としておきながら、今度はこれを根拠に東三河関連の記事を書き換えている。そんな矛盾した史料の扱いに彼の問題の一端を見る気が致しますが、またかく言う私もこの様な間違いを冒していないとも限りません。私の自戒も込めて、「史料(資料)の取り扱いは公正かつ慎重にせねばならない」と此処に書きとめます。
さて、牛久保の3城説、これは否定するものではありません。一色城の他にかつての同じ長山村岸(岸組とも)に牛窪城(牛久保古城)があったとする説も『長岡の歴史』の著者今泉省三氏の示唆や最近では地元豊川市の郷土史家大島信雄氏が『東日新聞』連載のコラム『越後長岡と東三河』に牛久保城のほかに一色古城と一色新城という新概念で長山にあった2城を想定する説を唱えております。
しかし、同コラムで大島氏の結んでいるとおりに、現状は仮説であり、今後の発掘の成果に決着が待たれるところだといえます。さりながら事の真偽を決着することが必ずしもWikipedia編集の第一目的ではないのですから、「明応2年に入城した牧野古白が一色城を牛窪城(牛久保古城)と改めた」とする記述、及び「牧野成勝が享禄2年に牧野保成(出羽守)と共に牛窪の本郷に新城を築き」、また「牛、久しく保つ」の意で万葉仮名表記としたという牛久保城(新城)記述等による新旧2城の紹介は問題ないと思います。その一方で同ページに大島氏等の所論も含め、3城説がページ:牛久保城に併記されることが有ればそれも良いことだと思いますが、Gyrobesttt氏の今回のような一方的削除を含む強引な編集ではなく、他者の寄稿内容を尊重する編集姿勢を望みたいものです。
なお余談ですが、大島信雄氏の前掲コラム記述の指摘にあわせ、地籍図の検討をしてみると現在の牛久保大聖寺は牛久保城古図の大聖寺の位置とはズレており、その原因が明治時代に旧大聖寺伽藍が火災で焼失して近隣地(石黒九郎兵衛の武家屋敷の跡らしい)に移転したことが判りました。したがって現状の大聖寺の土塁様遺構を以て一色城の遺構と考えるのはやや検討余地があるように私は考えています(牛久保城古図自体も数種あるようですし、私見ですのでWikipedia記事上には載せませんが)。--故城一片之月 2008年11月25日 (火) 18:28 (UTC)
おはようございます、故城一片之月さん。ウィキ豊です。牛久保3城説の真偽はわたくしは判定できません。大聖寺が一色城ではないのならば、わたくしとしましてはそれで良いと思います。どちらにしましても牛久保に関しては牧野氏が松平氏と対決した歴史があるせいか徳川将軍家の書籍では分かりにくい部分が有ります。奥羽越列藩同盟で徳川将軍家に最後まで尽くした牧野氏は室町の世では松平氏とは余り合っていません。オタスケマン氏が嫌って居る小和田哲男教授は徳川家にとって不都合な歴史は牧野氏が証拠隠滅を図ったのではと指摘していたのを記憶しています。牛久保に関しては分からないことが多過ぎます。--ウィキ豊 2008年11月25日 (火) 23:39 (UTC)
ウィキ豊さんのおっしゃる通り牧野氏の歴史は徳川家に従属することにより、今川方であった時代の歴史を含む以前の自家歴史を充分には伝えていないと思います。例えば牧野成定以前の城主歴代の姻戚関係は異常なほど殆ど伝わらず、意識的に伏せているようにしか思えません。むしろ東三河の他家の記録にたまにその痕跡を見るぐらいです。
私は小和田哲男氏を特別に支持している訳ではないのですが、オタスケマンの彼は異常なほど小和田氏を嫌っているのは不思議でなりません。また、『穂国幻史考』著者・柴田晴廣氏についての彼の姿勢もしかりです。粘着された柴田氏には気の毒なことです。東三河地元のウィキ豊さんにはWikipediaの関係記事で今後もお世話になることかと思いますので宜しく御願いします。--故城一片之月 2008年11月27日 (木) 14:02 (UTC)

長興寺の碑文の件(1)

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特に名指しはしませんが、ある人は、なぜあんな恥ずかしい石碑を建立したのだろうと嘆息させられます。あの手の石碑は田舎にいくとどこでも、時々あるそうです。歴史的知識がない人が闇雲に自己顕示欲から建立するとああいうことになるのでしょうか。子々孫々が笑いものになりかねないです。私がもし彼と親しければ取り壊しを進言します。 --今泉総一郎 2008年12月19日 (金) 16:16 (UTC)

さて、今泉総一郎さんのお話の趣意はよく分かります。繰り返しになりますが、八名郡牛久保という地名は私も聞いたことはないですし、長岡藩牧野氏と家臣団が牛久保から直接長岡入りしたということも事実ではないでしょう(例外的に宝飯郡牛久保から子細あって後からきた人があるかも知れませんが、具体例は知りません。「諸士由緒記」の記述を見る限りは、稲垣太郎左衛門一族はまず違うでしょう)。つまり、碑文の記述は恐らく誤謬であるとして良いとおもいます。
ただ、ではこれをウィキペディアの記事中で指摘すべきかどうかについては疑問があります。なぜなら、長岡市稽古町の長興寺墓地に建碑されたというこの碑文について、その性格によってはこの事実の掲載は相応しくないかもしれないと考えるからです。
私も実はこの長興寺さんは先祖からの菩提寺なので毎年訪ねておりますし、住職様も毎回お話をしてよく存じております。稲垣家のものは気が付きませんでしたが、これに限らず墓誌碑を個人墓に建碑する例は他にもありますし、人名や事実関係が長岡藩史料と相違する例もある様に思われます。でも、取り壊せとは言ったこともありませんし、また言える訳もありません。個人のおうちの問題だからです。
  • 私は今泉さんにお尋ねします。
  1. この碑文とはどなたが建立されたのでしょう?長岡市教育委員会でしょうか?それとも稲垣権右衛門子孫の方でしょうか?はたまた、この長興寺さんでしょうか?
  2. 貴殿は、碑文の存在と碑文の記述内容はなぜ知り得たのでしょう?
  3. この碑文が存在することでいかなる影響が考えられますか?また、これをネット百科事典であるウィキペディアに問題の指摘とはいえ掲載した場合の影響はどのようにお考えでしょうか?--故城一片之月 2008年12月20日 (土) 15:36 (UTC)

まずこの部分の記述の主筆者は牧野幕府さんであり、私ではありません。

この碑文は誰が建立したかは、確かなことは知り得ませんが、おそらく子孫のかたでしょう(碑文の末尾に子孫の名があるが建立者と明記されていない)。建立の年月は記載されているので、建立年については、独自調査にはあたりません。誰でも立ち入れる場所の碑文や、看板の文章については、ウィキペディア内でも引用されている例が珍しくないように思います。これらの文書は検証可能だからです。問題の碑文は、山本五十六氏の墓地近くに建っている比較的大きなもので、文字も大きいので、私には自然に目にとまりました。建立者は公衆の目に広く触れる形で建立しています。公衆の目に触れることを期待しているという可能性すらあります。従って公衆からの評価・批判を受けるのは、当然のことだと思います。正直なところ故城一片之月さんがこの碑文を知らないとは驚きでした。--今泉総一郎 2008年12月20日 (土) 17:45 (UTC)

長岡の郷土めぐりをする場合、長興寺は重要スポットです。散策先・見学地に建てられた簡潔に書かれた碑文、看板などを読んだ歴史の素人さんや、アマチュアは、すぐに疑いなく信じてしまいます。これを防止・是正する効果が期待できます。短所としては建立者が恥をかいたり、プライドが傷つけられることでしょうか。それはこのような碑文を広く公衆の目に触れる形で建立した者の責任であり、甘受すべきだと考えます。誤りを指摘しただけの人物や機関には、名誉毀損罪や損害賠償責任は成立しません。--今泉総一郎 2008年12月20日 (土) 18:37 (UTC)

越後長岡藩の家臣団の稲垣氏(2)の該当部分について、故城一片之月さんが当該部分を書き換えた場合、私は差し戻したり、あらたな書き換えは、単純ミス以外は、おこないません。貴殿の納得する形に訂正してください。牧野幕府さんや、鉄三郎さんがどう考えているかは知りませんが、友好的であるようなので、投稿合戦をはじめるようなことはないと想像します。なお鉄三郎さんは、来年はじめごろウィキペディアに一時、復帰できる可能性が高いとのメールを頂いています。--今泉総一郎 2008年12月20日 (土) 18:43 (UTC)

私の考えを申しますと、この碑文がこの寺院にお参りに来る他の人の目に留まることはあり得ましょう。しかし、お話からすると1989年に建立された個人墓の墓誌碑(おそらく)ならば、いわゆる金石文としての史料とは言い難く、公衆に発表された出版物でも無いはずです。あなたの仰るように、歴史的知識が浅く大きな誤りを記している可能性はあります。しかしこの様な勘違いや誤りはそちらの建碑者ならずとも私も含め、ままあることです。そして石碑であっても誤りの修正はできると思います。
牧野幕府さんや貴方が正義感や良心から仰っているのだと勿論、私は受け止めていますが、それを忠告するにしても、きわめて個人的な問題です(仮に貴方であろうと私であろうと)。ウィキペディアの記事上が相応しいとは考えられません。ご本人が知識不足で誤ってしまったものを面識の無い方がネット上にその誤りを全国的というか世界的に公表されて良いものでしょうか?市の教育委員会が歴史性の高い人物の墓に説明板や標柱を設置している場合でこれに誤りが有るというのなら指摘も可能でしょうが、個人のお宅の墓に付属した墓誌碑となると公共性の点からいってネット公表すべきではないと思います。私や貴方の立場に置き換えて考えて見てはいかがでしょうか?貴方の指摘する自己顕示欲は人間なら誰しもある筈ですしそれで失敗もありがちですが、これでは取り返しが付きません。長興寺墓地内での極めてローカルな範囲で収まる過ちが、心ならずもとんでも無い範囲に流布してしまうのです(削除依頼が適当かと)。
該当のお墓が山本五十六元帥や河井継之助、あるいは大名墓であるならば歴史性・著名性からいって掲載可能性もあるでしょうが、この場合はいかがでしょうか。個人的には私が長興寺さんに訪れた際に住職さんを通じて記述の誤りをそのおうちの人に伝えることは出来ます。この点にご納得されることを切に望みます。(このレスは今泉さんの上記コメントと時間差があり脈絡が前後しています)--故城一片之月 2008年12月20日 (土) 19:28 (UTC)
  • 1、はじめに。この問題が平行線となった場合は、故城一片之月氏に白紙一任となるとの認識の下に、自分の意見を申し上げたいと存じます。
  • 2、公共性と公衆性。 長興寺墓地は、一般の寺院とは異なり、檀家関係者と、お寺の許可を得た者以外は、立ち入り禁止とはなっておらず、誰でも立ち入ることができ、郷土史散策の重要スポットとなっています。また過去に観光バスが来訪したこともあり、この場所での建碑は、広く公衆の目にとまることが、誰にでも予想できます。明治神宮の境内と同じレベルであるとは申しませんが、法的には同じ性格であると思います。
  • 3、著名性の問題。稲垣権右衛門家が、大名や河井継之助ではないから、著名性がない。だから記述できないというのであれば、ウィキペディア内には、500石~1000石位の無名藩士の記述が多数あり、これらをすべて削除するということになります。
  • 4、金石文について。一例として、小諸侯牧野氏の家老であった真木氏の墓地には、子孫が建立した碑文がありますが、私はこの内容に問題があると思っています。しかし建立から100年以上が経過しているため、もはや疑いのない金石文として扱われ、書籍などにも掲載されています。稲垣権右衛門家は建碑されてからまだ約20年なので、金石文扱いではないのでしょうか?。 いまここで建碑から何年経過すれば、故城一片之月氏は金石文として認められるのか?などという議論をしようとは考えていませんが、碑文というものは歳月の経過で金石文と化してしまうものだということを申し上げたいのです。
  • 5、稲垣権右衛門家の墓地の現況。法的には完全な個人墓でしょう。河井継之助の墓も法的には個人墓だそうです。しかし、稲垣権右衛門家の墓地は某藩の五番家老と同じく、江戸時代の墓石と近現代に亡くなったかたのお墓が同居しているタイプで、これを碑文で解説しています。一例として長岡藩重臣能勢氏の墓のように、近現代に亡くなった方だけのお墓となっている場合は、どのような碑文があっても、それは郷土史の研究上、あまり意味がなく、個人のお宅の問題だけと考えます。
  • 6、結論。閉鎖的な墓地ならともかく、広く公共、公衆の目にとまる場所にされた建碑であり、このような碑文は郷土史の研究上、大きな混乱を招ききます。また見学者、散策者に大きな誤解を与えるという被害を出します。かくいう私も、はじめ稲垣平助家の墓地の他に、もう一つ家老と称する稲垣姓の墓地があったので、稲垣太郎左衛門家の墓ではないかと、誤信してしまいました。さらに家老稲垣氏は2家であるのに、3家あるのはどういうことかと焦ってしまいました。郷土史の混乱を防止するために公共性が高いと認識したため、私は本件について記述しました。--牧野幕府 2008年12月21日 (日) 17:29 (UTC)


下記urlの質疑応答を読んでください。この質問者と回答者は、私でもなければ、私の知人でもありません。この回答者の回答は正しくは誤りです。正解は建碑者が誤った内容で碑文を書いてしまったからです。このように誤った建碑は、郷土史の研究や、アマチュアたちを大混乱を陥れるのです。私はこの質問が出されて、回答が締め切られたあとで、気がついたので残念なことをしたと思っています。いずれウィキペディア内で、混乱防止のため著述をするか著述の依頼をしようと考えています。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3363834.html --牧野幕府 2008年12月21日 (日) 17:38 (UTC)


牧野幕府さん、お久しぶりです。おいでになる前に今泉さんと話しておりました。今泉さんと牧野幕府さんが面識あられるかは私はわかりませんので、お二人が完全に共通な認識をお持ちかなのかも私は分かっておりません。ですから、お話がズレている場合には御指摘ください。
1について;お話が平行線になった場合はこの会話ページではなく、ノート:越後長岡藩の家臣団に議論の場を移し、あるいはコメント依頼で広く議論参加者を募ることがWikipediaでの議論の進め方と私は認識しております。白紙委任ということの真意はもう少しご説明頂かないと私には飲み込めません。
2について;長興寺墓地のお墓のすべてが観光者・郷土史研究家・歴史愛好家に公開解放されているという認識はどのような根拠をお持ちか私は存じません。国・県・市等から史跡墓指定を受けたお墓、県・市の教育委員会から案内表示・説明板を設置されたお墓については寺院の側で非常の理由が無い限り公開を拒むことは出来ないようです。それは当然に条例・規則による検討や税金支出などの予算措置が取られているためだと考えられます。ただ、その様な指定を受けない一般のお墓までその対象であるとはいえません。個人墓はあくまでも、そのお墓の持ち主のプライベートな存在であるはずです。たとえば私の家のお墓に歴史が古いのだから分かりやすい様に墓誌板を設置しろとか分かりやすい表現にしろとか急に申し入れがされても困ってしまいますし、まして私の預かり知らぬ所でその様な訴えかけが起きていたらもっと悩むことでしょう。
3について;著名性は稲垣権右衛門家にしても他家についても越後長岡藩の家臣団という、くくりの中においてWikipediaに掲載価値のあるものと認識しております。ただし、ここに言う問題の墓誌板と思われるものについては平成元年(1989年)に私人が自家のお墓に設置したものですよね。墓誌については該当のお墓の埋葬者について生前の名前や履歴・業績について記したものという一般的定義があります。本来は墓碑(すなわち墓石)に記すべきものが墓石に記し切れない場合や、所属宗旨の定めで墓石に直接記せない場合に別に石版などに記して設置される場合もあります(元来、古代の中国で墓碑の建立が禁止されたため代わりに墓誌を石版に彫って地中に埋めた故事によるらしい)。
いずれにせよ日本の場合、墓誌板は特定の人物の業績を公衆に広く知らしめるための顕彰碑とは性格の異なるもので、最初から公に広く公開する目的で設置されるべき存在ではないのです。そのお墓に関係する家族や親族に埋葬者の情報を伝えるために、殆どの場合、埋葬者の家名・戒名・俗名・生没年を石版に刻んだシンプルなものです。歴史の古いおうちになるとこれにその家の起源や由来・家の履歴・代表的人物の事績まで刻んだものもあり、逆に戒名・俗名を省略して家の歴史だけ記したものもあるようです。この様な性格の墓誌板は地元地方紙も含む新聞社・放送局等の報道機関が取材し紙面掲載または放送し、あるいは公刊本として発刊したのであれば、Wikipediaページ上に掲載するための特筆性は担保されると思います。
4について;金石文Wikipediaのページにある金石文の解説のように主に考古学上の研究対象でしょうが、出土品ではなく伝世品(地上に存在)のものも含められて広義の歴史学上の史料として扱われているようです。これについては、記されている内容そのものの歴史性と、石碑なら石碑自体の物としての歴史性の2面があると考えられますが、平成期などの最近設置の石碑や墓誌に現在の時点で歴史性はあるはずがありません。100年後・200年後に歴史性が生ずる可能性は否定はできませんが、将来のことについて今言うことはできません。それを言えばすべてのお墓・石碑に現時点で将来の歴史的な存在価値を認めなければなりません。
5について;郷土史研究家が石碑やお墓(墓誌も含む)についてどのような価値を認めるかはその人個人の研究テーマや価値観・判断基準によって異なります。近代以降の歴史を対象とする人や鎌倉時代のものを研究対象にする人など評価はまちまちの筈です。また、史跡墓など特別な縛りが無いお墓はいかに古かろうと個人墓であるものはどこまでも個人墓であり、これについてお寺が認めているなら、そっと見せて頂くとかお話を持ち主にうかがうことは出来ても何かこちらから要求できる権利があるわけでは無いと思います。
6について;議論の初めに述べたと思いますが、「宝飯郡牛久保」とすべきを「八名郡牛久保」とした誤りが事実なら訂正すべきと思います。しかし、それは当事者に「それは違っていませんか?」と教えてあげるのが礼儀であり親切だと思います。どの程度重大な混乱を招くかどうか私には分かりませんが、ただ言えるのは誤りを正すにしくは無しです。Wikipediaの編集は百科事典の作成が主目的です。何か特定の目的を主張するのに使うべきとは思いません。牧野幕府さんにもお尋ねします。当事者の方(お墓・墓誌または石碑板?の設置者)にこの碑文の誤りについて連絡なりお尋ねされたのでしょうか?また、墓誌板・石碑?の設置目的についてご本人に確認されたのでしょうか?
外部リンク;お示しの外部リンクの「信濃小諸諏訪家とは?-教えて!goo」については、問題の追善供養塔の文字は殆ど判読不能で「諏訪」の文字だけ判読できたとの質問者の記述で、これに対する回答者の情報も何ら事実を特定出来るだけの材料になっていない様に私は感じます。質問者の提示情報があまりに不足しているために(追悼者の氏名も戒名すらも無いし高野山金剛峰寺等の寺務所への照会情報があるわけでもない)、これでは追善墓に設置された「信濃小諸諏訪家墓」の標示(他のサイトの写真閲覧では高野山大名墓等の標識は木製角柱にペンキ書き)が正しいのか誤っているのか特定できる何の判断材料も現状は提示されてないのではというのが私の見解です。また、この事例と上記との関連性はよく分かりません。--故城一片之月 2008年12月22日 (月) 16:13 (UTC)

本題の議論から外れますが、上記外部リンクの問題は、すでに公刊されている書籍で、建碑者の誤りが指摘されています。この私的な建碑のために、郷土史がかなり混乱したようです(信州高島藩諏訪家廟所 / 諏訪市教育委員会. -- 諏訪市教育委員会, 2000.3 高島藩邸と諏訪氏一族 / 浅川清栄. -- 中央企画, 1995.11)。国会図書館に蔵書があります。このお墓は藩主の女子が輿入れした家老のお墓なのです。

私(今泉総一郎)は、牧野氏やその家臣団とは、血統的所縁はありません。私は大学で史学を学びました。 鉄三郎氏とは面識あり。牧野幕府氏とは面識なしです。このお二人は、牧野氏やその家臣団とは、血統的所縁があると伺っています。

お寺は宗教法人であり、私的なものです。公的な宗教法人は、国家神道体制が崩壊してから、日本には存在しません。法的には個人が建碑しても、お寺が建碑しても税務上の問題を除き同じなのではないかと思います。教育委員会が建碑や看板の設置をした場合は、話しが異なると思います。

ノートに写して議論をするか否かは、牧野幕府氏の白紙一任の意味をもう少し詳しく伺ってからにしたら、いかがでしょうか。

ウィキペディアに掲載の妥当性はしばらく置くとして、稲垣権右衛門家の建碑が、郷土史に与える影響は、ゼロではないということを、故城一片之月氏にもご理解頂きたいとは存じます。--今泉総一郎 2008年12月22日 (月) 17:48 (UTC)

これは提案ですから、無視されても結構です。

問題の建碑は私的なものであるから、触れないが、郷土史を混乱させる要素には明らかになる。従って、建碑には直接的には触れずに、建碑の内容を意識した記述にあらためる。

(例)

また成心の次男・稲垣成長(権右衛門)も大坂夏の陣で戦功があり、上野国大胡より元和4年長岡に入りした。長岡では家老職並みの1,100石を給されたが家老職に就任できたとする史料学的根拠はない。その後、この系は子細が不明だが嫡子・成啓(小右衛門)が元和9年(1623年)に500石に減知され、以後も分知・減知を重ね、稲垣善右衛門家(100石)・稲垣友左衛門家(100石)を分出した(以上「諸士由緒記」『長岡藩政史料集2 (家中編)』<長岡市双書No.15>より)。--今泉総一郎 2008年12月22日 (月) 18:10 (UTC)